Summer Sonic '14, 1日目@東京会場

少し前の話になりますが、サマソニ2014東京会場1日目に行って参りました。家が会場から近いこともあり、ほぼ毎年2日とも参加していたんですが、今年は諸々の事情によって1日目のみの参加です。ということで、今年のサマソニの音楽と食の話を。


今年は11時に幕張メッセに到着し、リストバンド交換の列へ。案外空いていて、すんなり会場に入れました。そしてすぐに11時半からのChildhood@ソニックステージ。イギリス、ノッティンガムで結成されたインディーロックバンドです。Palma Violetsのサポートを務めたことで知られる彼らですが、そのことからもなんとなく察せられるように、非常にイギリスの若手ギターバンドらしい、クラシカルとも言える正統なギターロックを奏でているという印象。ギターが織りなす柔らかなサイケデリア、浮遊感と高揚感が溶け合ったコーラス、そしてバンドの骨格を支えるリズム隊の安定感。手堅くしっかりした演奏で、ソニックステージの一組目にふさわしいアクトだと思います。けど、サウンドや曲自体にさほどユニークさは感じなかったので、今後どう逸脱していくかぼんやりと追ってみたいところ。

ChildhoodのあとはせっかくだからTOKIOを見ましょうということでレインボーステージへ移動。しかしすでに入場規制がかかっておりました。そりゃそうですよね、ジャニーズ舐めちゃいかんですよね。。

仕方がないのでお昼ご飯を。サマソニお馴染みの焼津マグロです。毎年サマソニに来ていながら焼津マグロを食したのは去年が初めてなのですが、今年は新作らしい冷やし漬け茶づけなるものを食べてみました。ご飯の上にマグロの漬けと水菜、そして紅生姜が乗り、さらにつめたーいお茶がさらっとかかっていて食べやすく美味しいのですが、とにかくマグロが少ないです。4切れくらいしか乗っていません。マグロを堪能したい方は普通の漬け丼を頼むのが吉です。

お連れの方に何か見たいアクトは?と聞いてみると、Vintage Troubleが気になると言うので急遽メッセからマリンステージへ。この移動がなかなかめんどくさいのはお馴染みですが、ほんと年々迂回路が増えて疲れます。それだけたくさんの人が来場してるから仕方ないんだけれど。急いで移動しましたが、聞けたのは最後の2曲半くらい。しかしまあすごかった。エンターテイメントの街、ハリウッドで結成され、黒人ソウルシンガーを擁するロックバンドということで、ノリノリでショーマンシップに満ちた楽しいライブでした。全員スーツ姿で演奏していたんですが、今年は涼しかったとはいえ、8月半ばの夏真っ盛り。そんな中激しく歌って踊ってノリまくるボーカルさんのスーツ(グレー)の変色ぶりがすごかった。ブルージーにささくれ立った疾走感たっぷりのギターロックに、パワフルでソウルフルな歌唱が乗っていて、サウンドそのものは特別斬新というわけではないのですが、とにかくライブ巧者。最後はLブロックとRブロックを隔てる中央の通路からはけていきました。。また夏フェスで見たいな。。

そのあとはThe 1975まで暇だったのでマリンのまわりをぶらり。わたしもお連れ様も食べるのが好きで、ここでちょっと食欲が止まらなくなってしまいました。まずスタジアム外の屋台でソーセージタコスと焼肉タコスとBBQチキンのお得セットを。わたしはチキン半分とソーセージタコスを食べたんですが、こういうとこのは豪快で食べ応えがあっておいしい。チキンは外側の焼き目と内側のしっかりした食感がとてもよかったです。で、それに飽き足らず食べたのが、丸ごと冷やし梨。林檎や梨の皮を簡単に剥き、くし切りにできる器具がありますが、あれで売り子のお姉さんが手際よく梨をカットして出してくれました。地元千葉は市川の梨ということなんですが、とってもよく冷えてて甘くて、シャキッとやさしい食感が最高でした。サマソニだといつも丸ごときゅうりの浅漬けが定番なんですが、これからは丸ごと梨ありだなと思います。

そして3時頃からThe 1975@マリンステージ。スタンディング席の前方に陣取ってたのでどれくらい人が入っているかよくわからなかったのですが、開始前にちらっと後ろを見たらかなり埋まっていました。彼らの日本での人気はもう本当に高いんですね。去年もソニックステージだかで見て、そのときはまだああいうアイドル性ってなかったように思うんだけど、あまりちゃんと見ていなかったのでよく覚えていません。ライブそのものは、ダンサブルでキラキラとポップな曲群をテンポよく演奏していて楽しかったです。ミーハーちゃんなのでChocolateが一番好きなんですが、やっぱりこれはものすごく盛り上がった。この曲の80'sっぽい軽さと淡さが夏という季節特有の煌めきと儚さにぴったり合っていて、とにかく踊らせます。マリンステージってどうなんだ?と思っていたけど、すでに人気を確立しているバンドということもあり、広いステージ全体を湧かせていました。が、こういう若くてキラキラしたバンドに素直にキャーキャー言えなくなったので、年食ったなあと。。この1〜2年雑誌もウェブも含めて音楽メディアにあまり触れていなかったのも大きいけど。天候の話をすると、この日の幕張の黒い雲がかかって雨がポツポツと落ちてくる肌寒い陽気が、彼らの出身地マンチェスターのくすんだ空模様を思わせ、またChocolateの詞で透過される若者たちの灰色の閉塞感とも結びついてよかったのかもしれません。Chocolateの段階でちょっと雨が強くなってきたので不安だったんですが、なんとか持ちこたえて大きく降られることはありませんでした。

大盛り上がりのThe 1975が終わって、向かうはソニックステージのJamaica。ほとんど予習なしで臨み、しかもちょっと疲れていたので後ろで座って聞いていましたが、とても抜けが良くて爽やかな音。であるが故に、寝てしまうんですね。。最後のほうはちょっとウトウトきましたが、終始楽しくポップで、体力があったら前でちょっと踊りたかったなというかんじ。曲数少なくコンパクトなライブでした。

外を見てみると雨がけっこう降っていたのでメッセ内で早めの夕飯を済ませることに。各々ホットドッグなりカレーなり食べましたが、わたしはサマソニで毎年必ず食べているタイラーメンを。ほどよい塩気がやさしいシンプルなスープに米粉の麺、もやし、豚肉、揚げワンタンなどが乗っていてとても食べやすくて好きです。もやしのシャキシャキ感がいい。唐辛子やお酢、ナンプラーを足して食べるんですが、いつも唐辛子を入れすぎます。

雨がやんだところでまたもマリンステージに移動。スタンド席でRobert Plantをぼんやり流し聞きしながらエナジーチャージ。Whole Lotta Loveをやっていましたね。ここでまたちょっと降ってきたんですが、プラントさんが終わるとすぐに収まりました。

そしていよいよ今年のお目当て。マリンステージのトリ、Arctic Monkeys……!お連れの方々が最後まで見ずに途中で移動するということで、出口通路に近いところで早くから待機していたんですが、さすがに続々と人が入ってきます。ちなみにアークティックは一応全作きちんと追うくらいには好きで、'07年のサマソニでトリを務めたときも見たのですが、そのときはそこまでライブがよいという印象はありませんでした。が、それから7年の月日を経て、アレックスのボーカリストとしての成長は目覚ましく、また数年前のフジロックでの演奏は非常に評価が高かったので、それはもうとってもとっても楽しみにしていました。

ステージは、昨年出た5thアルバムAMのジャケットと同じ心音計の表示のようなデザインの照明がセットされる程度でとてもシンプル。そしてもくもくとスモークが炊かれ、ほぼ開演時間ちょうどにメンバー登場。一曲目は最近のセットリスト通りDo I Wanna Know?だったのですが、もう。風格が全然違う、演奏の質が全然違う。どっしり構えて、真正面からオーディエンスにじっくりじっくりとロックを聞かせていく、その揺るぎなさと隙のなさにはオープニングから圧倒されました。まずバックの演奏が太い。ずしっと重量感がありながらももたつかず、腰はしっかり据えられているけれど停滞感はなく、30才を前にした彼らの身体的な若さと精神的な成熟が素晴らしいバランスで共存した堅固な演奏。その上に乗るアレックス・ターナーのボーカルは、低く重く響き渡る男性的な力強さとしなやかに伸びる女性的な艶っぽさが高次で結びついてしまっていて、あれは危険。官能の極みです。知性こそがセクシーであるという言葉がありますが、今回のアレックスを見ていると、その逆も然りだなと思います。アレックスはあの場で誰よりもセクシーな人物でしたが、同時にあの場で誰よりも知的で成熟した大人だったと言っていいんではないでしょうか。

Do I Wanna Know?のあとはSnap Out of It、Arabellaと3曲つづいてAMからの選曲。個人的にAMの中でもとりわけ好きな3曲だったこともあり、これで完全にノックアウトされました。Arabellaの轟くドラムからヘビーなギターソロ、そしてクライマックスへと至る展開のカタルシスは凄かった。そのあとはもう好きにしてください状態。ただただ彼らの演奏に聴きいるしかなかったです。

選曲はAMの曲が中心でしたが、BrianstormやDancing Shoes、I Bet You Look Good on the Dance Floorといった初期の若い疾走感に満ちたダンスナンバーも演奏してくれました。あの駆け抜けるようなスピード感はそのままにガンガン踊れせてくれるのに、リリース時のようなつんのめったかんじはなく、大人の余裕があって、それによって曲に広がりと含みが生まれています。明らかに音源よりも聞き応えがあってかっこいい。

本編ラストはお馴染みの505。アレックスのボーカリストとしての成長がしみじみ感じられるナンバーで、今後も歌い続けて進化させていってほしい一曲です。アンコールでは3曲ほど演奏して、最後はR U Mine?。ラストのギターのフレーズとともに大歓声、サンキューと言って立ち去っていくメンバーたち。何もかも完璧で、余計なものなど一切ないステージでした。スタジアムを出て空を見上げると花火が。こんなに素晴らしい幕切れがほかにあるのでしょうか。

凄いものを見てしまったという興奮が冷めやらないまま、向かったのはソニックステージ。Phoenixを見にきました。お連れのお二方の本命で、彼らは最初から見ていたんですが、わたしが着いた頃にはもう凄まじい盛り上がりで、彼らのほうには近づけませんでした。それにアークティックで全力を使い切ってクタクタだったので、最後部の屍ゾーン(一日の闘いを終えて昇天した人々の束の間の安息地)に陣取って、遠くから眺めることに。

オーディエンスの歓声の湧き具合くらいから言って、相当エネルギッシュにオーディエンスを煽る演奏をしているのだなあということがわかりました。前方と屍ゾーンの温度差はまさに生と死の世界くらいに開いていましたね。最初は知っている曲も知らない曲も身体を揺らして、気持ちだけは騒いでいたんだけれど、屍ゾーンにいるとどうしてもダメです。ふっと睡魔に誘われて身体の力が抜け、どんどんと活気に満ちたお祭の音が遠くに……でもそれも至福の瞬間です。素晴らしいバンドの素晴らしい演奏を夢と現実が溶け合う中で聞くのは最高に贅沢な体験。最後はEntertainmentの印象的なキーボードのフレーズで目覚めました。

終演後、お連れ様方と合流すると、やっぱり凄いライブだったんだなあというのが体温から伝わってきました。その後は各々帰途につくためにそそくさと海浜幕張駅へ移動、解散。幸福な時間が解かれて少しずつ夜の空に拡散していく、フェス後独特の空気が好きです。なんだかんだフェスいいなあ。また来年も再来年も来たいなあという思いを新たにした一日でした。


美しい夕焼け!

(追記:指摘されて思い出しましたが、梨の前後で抹茶味のパピコも食べていました。よくお腹壊さなかったなと思う。)

Hot Summer Songs

Valentine's Love Songsにつづく第2弾。

  1. The Drums / Let's Go Surfing
  2. Metronomy / The Bay
  3. OK Go / Don't Ask Me
  4. Lily Allen / LDN
  5. The Clash / Police and Thieves
  6. Vampire Weekend / Walcott
  7. The Morning Benders (now known as Pop etc) / Excuses

Selected by Dakota

どこが夏やねんとか、夏だったらこれは外せないだろとか、そういう指摘は当然ありますでしょうが、超個人的に夏の思い出と結びついた、超個人的に夏に聴きたい曲を思いつきでパパッと選んだ結果こうなりました。

The Drumsのクネクネなニューウェーブサウンドにのってサーフィンに行こうと浜に出た後は、Metronomyの‘The Bay’で懐かしいディスコサウンドでぎこちなく踊りましょう。それからOK Goの前のめりすぎなギターポップでギャーギャー騒いだら、Lilyと一緒にチャリンコ旅をしてレゲエコーナーへ。The Clashのカバーでレゲエの抜けのよい音とシリアスな言葉をしっかり聴きとめたら、Vampire Weekendと優雅でポップなサマーヴァケイションを束の間楽しみます。最後には、すべてがThe Morning Bendersの作り出す西海岸の大海原に飲み込まれ、波間に溶けていくのです。

たしかなロマンス

最近Arctic Monkeysのファーストを聴き返していて、やっぱりアレックス・ターナーの詩世界ってすごいなあと改めて感じ入っている、だこたです。そんなわけで今回は音楽タグに加えて文学タグもつけて、ファーストの最終曲A Certain Romanceの歌詞を和訳してみたいと思います。

元の詞はこちらから。

彼らはクラシックなリーボックを履いてるかもしれない
それかボロボロのコンバース
トラックスーツの裾を靴下にしまってるかもしれない
でも問題はそこじゃないんだ
問題はそこにはまったくロマンスがないってこと

彼らには見えない真実がある
あいつらはたぶん僕にパンチを喰らわせたいだろう
君も彼らを見たら、同意してくれるはずさ
そこにはまったくロマンスがないってことに

そうなんだ、おかしな話なんだ
彼らに話してやりなよ、君がそうしたいなら、一晩中話してやりなよ
でも奴らは聞く耳を持たないよ
だって奴らの頭は凝り固まってるから
もちろんそんな風にやってくれて全然構わないんだけど

そこら中壊れてしまってるんだ
音楽は新しい着信音にするためだけのものだし
シャーロック・ホームズじゃなくたって
このへんが少しおかしいことはわかるだろ

誤解しないで、バンドを組む奴らもいるし
ビリヤードのキューで争ってる奴らもいる
あいつ、酒を飲んだからって
バカみたいに振る舞ってもいいと思ってるんだ

そうなんだ、おかしな話なんだ
彼らに話してやりなよ、君がそうしたいなら、一晩中話してやりなよ
でも奴らは聞く耳を持たないよ
だって奴らの頭は凝り固まってるから
もちろんそんな風にやってくれて全然構わないんだけど

でも僕は、嫌だって言ったんだ!
君も僕を行かせないだろ
どこにも、どこにもね
ああ、行かないよ!
嫌なんだ!

でもあそこには僕の友達もいるんだ
何て言ったらいいんだ、僕は彼らをよく知ってるんだよ
彼らは一線を越えちゃったのさ
でも同じように怒ることはできないよ
同じように怒っちゃダメなんだ
同じようにはね

冒頭のリーボックとかコンバースが何を意味するかはこちらのrap geniusの解説を参照。ここの解説によると、こういった格好をしているイギリスの若者をchavというのだそうな。chav。日本でいうところのヤンキーとかDQN(蔑称ですが、ごめんなさい)にあたるのでしょうか。実際にはもっとソーシャルな意味で使われる言葉で、イギリス特有の階級や人種の入り組んだ構造から生まれたイギリス特有の若者集団を指すものだとわたしは認識しているのですが、rap geniusがここで用いているchavというのは、それこそヤンキーのような、地元連中でつるんで酒飲んで暴れてという柄の悪い少年たちのことを指していると思われます。

つまり、この詞って、幼い頃から知っていた友人たちが靴下にトラックスーツをインしてみんなが似たような靴を履いて野暮ったい格好をして、音楽も大切にせず(着メロとして消費される音楽が当たり前に存在するようになっているのがこの時代(2006年)らしいです)、酒を飲んでは傍若無人に振る舞うダッサイ奴らになっちゃったなーと遠くから観察してふっとため息をもらしている、そんな捻くれた内容なのです。「俺はそんな奴らと同じにはなりたくない」というアレックスの頑なさは、曲の後半におけるnoやnotなどの否定語の力強い繰り返しに見てとれ、若さが書かせた詞だなあと改めて思います。「こんなふうにはなりたくない」のこだわりは成長あるいは老化とともにどんどんと減退していくものなので。

こんなふうに、教室の片隅であんな風にはなりたくない、なんてダサい奴らだろうと思う気持ちを抱える人は多いでしょう。かく言うわたしもそういった人間の一人であったし、洋楽の、それもオルタナやインディー系を聴く人間なんてたいがいがそんなかんじではないでしょうか。そんな捻くれたガキンチョたちの思いを代弁しつつ、アレックスを稀有な詩人たらしめているのは、やはり成長とともにダサい連中になっていく友人たちを見つめて「そこにはロマンスがない」と言い切ってしまえる、彼のロマンティストぶりではないかなと思います。タイトルにあるcertainという形容詞はニュアンスの取りづらい語で、訳すとすれば「ある」とか「確かな」というふうになるのですが、それが具体的にどういったものなのかは確証を持って言い切れないというような意味がどこかに含まれている気がします。アレックスもそこにどんなロマンスがあればいいのか、彼が求めるロマンスが何なのかは言い切ることができないのでしょう。ただ彼が確実に言えるのは、そこにはロマンスがないということだけなのです。

梅日和

今日はお弁当を持ち寄って近所の公園に梅を見に行きました。

お弁当けっこう真剣に作ったのだけど、写真撮り忘れてしまい。。おかず担当のわたしのメニューは鶏の唐揚げ、卵焼き、玉ねぎと桜海老のかき揚げ、竹輪のカニカマのせ焼き。竹輪のカニカマのせ焼きはこちらクックパッドのレシピを見て作りました。カニカマをマヨネーズで和えて竹輪にのせて焼くだけ。簡単。でも彩りがきれいで、いいおつまみになります。

それと肉巻きおにぎりと味噌おにぎりを持ってきてもらって公園でムシャムシャ。ピクニックにぴったりの暖かい陽気でほんとによかった。

そして本題の梅。






まだ咲き始めというかんじだけど、わたしはそれが好きです。蕾のぽってり赤いかんじが可愛らしい。また満開の頃合いに見に行きたいところです。

風と共に去りぬーーでもわたしは生きる

風と共に去りぬ」(Gone with the Windヴィクター・フレミング監督

午前十時の映画祭で見てきました。恥ずかしながら初見。なのでデジタルリマスタリングによる元のフィルムとの映像の違いはわからないのだけど、テクニカラーの鮮やかさが消えゆく南部世界の最後の輝きのように美しくスクリーンに映えていました。

わたしの感想はエントリのタイトルにある通りで。この映画のタイトル「風と共に去りぬGone with the Wind)」は、騎士道精神に彩られた華やかな南部貴族世界が南北戦争という風と共に消え去ったことを意味するわけですが、そんな儚さや滅亡の美学はヴィヴィアン・リー演じる主人公スカーレット・オハラにはまったく似合いません。彼女は世界がどうなろうとも強く生きていく、よく言えば逞しい、悪く言えば図太い女。そして極端に言ってしまえば、この映画はそんな根性の図太いビッチがひたすら改心することなくビッチのまま混乱の世界を生き抜こうとするお話であって、スカーレットの変わらなさというのはある意味天晴れと言いたくなるくらいです。個人的な趣味ですが、わたしはこういう肝のすわったビッチの映画が好き。生きていくためには何をしてもいい、ってわけではもちろんないけれど、自分の生活は自分で守るしかないないわけで、自分のことで頭がいっぱいになっているスカーレットってやっぱり魅力的なキャラクターです(自己本位な女性の物語がすごく好きなのです)。

スカーレットが最後の最後まで変わらないところも好きなところ。改心しない女ものとしてはジェイソン・ライトマン監督、ディアブロ・コディ脚本の「ヤング≒アダルト」を思い出したりも。傷だらけになりながらも退屈な田舎と決別して、わたしはわたしと背筋を伸ばした「ヤング≒アダルト」のメイビスに比べると、本作のスカーレットは手に入らないものを求めて足掻きつづけるあまり美しくない執着心を見せますが、それでこそスカーレット・オハラというかんじがします。彼女は何があっても変わらない。たとえ世界がひっくり返っても、彼女はいつまでも故郷タラの土地にしっかりと両足を踏みしめて立ち続けるでしょう。“Gone with the wind……but I will live, I will.” そんな声が聞こえてきそうな気がします。最後のあの有名なセリフを聞いたとき、あまりにもスカーレットの軸がぶれないものだから、ちょっと笑ってしまいそうになりました。

脇を固める女性キャラクターたちも素晴らしくて。女神のように強く優しいメラニーとスマートな娼婦ベルの共闘めいた微笑みの交わし合いなんかすごく好きです。オハラ家のメイド・マミーを演じ、黒人初のオスカー受賞者となったハティ・マクダニエルの迫力ある顔もとても印象的。この映画では男性よりも女性が圧倒的に強く、生き生きしていて、その点ではちょっと「JUNO」を思い出しました(これもライトマンとコディのコンビ作ですね)。

また、女性を主人公にして、アメリカの果てない欲望をここまで彫り込んでいる映画はなかなかないように思います。劇中で北部人たちとの商売が描かれているように、スカーレットは戦争終結後おそらくは北部の近代的な商売スタイルに迎合することで、経済的な立て直しを図ったのだと考えられます。そしてそれは欲望を半永久的に再生産しつづけ富を拡大していく20世紀以降のアメリカ資本主義経済のベースとなったものであり、この経済システムの下でアメリカは「もっと多く」を求めるようになります。けれども、その欲望は決して尽きることはない=満たされることはないのだから、それは絶対に手に入れられない夢とも言えます。そしてスカーレットはそんな叶わぬ夢に囚われた人だったと捉えることもできるのではないでしょうか。

スカーレットは南部生まれ南部育ちながら、もともと南部の窮屈な規範にはまった淑女ではなく、北部的な気質を持ち、北部で長年を過ごしたレットに惹かれます。けれども、彼女が最後まで諦めることができなかったのは消えゆく南部の紳士らしさや繊細さを体現するアシュレーであって、彼は彼女がどんなに手を伸ばしても絶対に手に入ることはありません。物質的には十分満たされた北部的な人間がどうしても欲しかったもの、それは南部的な繊細な精神だった、という読みはちょっと単純でしょうか。アメリカ文学やアメリカ映画の世界には、このように莫大な富を手にしながら心に空白を抱えた人物の物語が多くあります。しかし「華麗なるギャツビー」も「市民ケーン」も「ソーシャル・ネットワーク」も男性が主人公の映画であり、それはやっぱり資本主義のアメリカを動かしてきたのは男性たちだったからなのでしょう。「風と共に去りぬ」は女性が主人公であるという点でユニークであり、この時代、荒廃した南部で成功するには「北部的な男性」にならねばならなかったのかなということを考えると、少し皮肉みいているようにも感じます。

アメリカは欲望という燃料を絶えずくべることで発展してきた国です。彼らが求めるのは決して満たされることない夢。それはアシュレーの心のように、脆くナイーブで、決して手の届かない儚い幻のようなものなのではないでしょうか。

愛は勝ち目のないゲーム

それは悲しい悟りのようでいて、死ぬ気で愛する覚悟であるようにも思えます。どこまでも痛々しくて美しい。


Amy Winehouse/Love Is a Losing Game

もとの詞はこちらから

あなたにとってわたしは炎
愛は勝ち目のないゲーム
あなたがやって来ると5階の高さまで炎が立ち昇る
愛は勝ち目のないゲーム

こんなゲーム、手を出さなければよかった
ああ、わたしたち、なんて無様なんだろう
これで最終回ね
愛は勝ち目のないゲームなんだもの

バンドが演奏してきたように
愛は勝ち目のない手札
もう我慢ができないの
愛は勝ち目のない手札

深刻そうにしているの
いざというときまで
あなたはばくち打ち
愛は勝ち目のない手札なのよ

わたしは周りが見えなくなってしまいがちだけど
愛はどうすることもできない運命
記憶がわたしの心を傷つける
愛はどうすることもできない運命

散々なオッズ
神様だって笑っちゃうくらい
これで最終回
愛は勝ち目のないゲームなんだわ