Day 1: Missed a shot

朝起きて最初にすることは、実は血糖測定じゃない。わたしの場合は。

ベッドから出たらまずトイレに行き、手を洗って、うがいをする。血糖測定器を、病院から貸し出されたかわいげのない黒のポーチから取り出すのはそれからだ。ぱちっと指を刺し、ぷくりと玉の血を出す。赤いビーズのような球体がむだなく、まあるく浮き出たときは、我ながらまじまじ見入ってしまう。5秒のカウントダウン。入院している当時はこの5秒が世界で一番長い5秒だった。ぴぴっと電子音が鳴り、画面に表示された数値は180*1を超えた。高い。朝からこれくらいの数値が出てしまうことはある。でもそれはたいてい前夜に脂っこいもの、明らかにカロリーオーバーな料理をたらふく(発症以来、本当のたらふくなんて知らないけれど)食べたからだ。普段通りの食事をしていれば、平日朝は眠前の数値からマイナス20〜30が妥当で、昨夜の眠前血糖は150ほどだった。それなのに今朝は180。はてどうしたことだろうと前日新しくしたばかりのペットボトルの針入れを眺め、なんだか針の本数が少ないなと首をかしげて、わたしは昨夜トレシーバを打った記憶がまったくないことに思い至った。

基礎を打ち忘れたのに180とは、むしろ悪くない数値だ。前にも一度だけ打ち忘れたことがあったが、そのときは270を超えた。当時はまだランタスを使っていただろうか。ランタスは人によっては効果が24時間もたないと先生は言った。たしかにランタスを使っていた頃は眠前の数値がえらく高く、そのくせ朝は毎日低血糖を起こしていた。だからトレシーバに替えた。トレシーバの効き目は40時間を超えるという。もちろん次第に尻すぼみにはなるが、一日経っても効き目が残っているから今朝の血糖も200を超えずにすんでいるのだろう。それならばとりあえず様子を見ようとわたしは思い、トレシーバは打たずに、ノボラピットを少し多めにして朝食をとった。

持効型を打ち忘れたときにまず問題になるのは、どうやって崩れてしまった注射の周期を修正するかということだ。ふつう持効型は打つ時間が人によって決まっている。だいたい夜打ちか、朝打ちか、朝夜2回の分割打ちだろう。わたしは夜打ち派で、入院中からそのリズムに慣れ親しんでいた。朝、打ち忘れに気づいたらその時点ですぐトレシーバを打ち、その日から朝打ちに変えてしまうこともできる。けれどもわたしは今さらリズムを変えたくなかった。だから翌日も効き目が残るトレシーバの特徴を利用して、数日かけて注射の時間を後ろ倒しにしていき、周期をもとに戻すことにした。たとえば今日は昼間打ち、明日は夕方打ち、あさってには夜打ちに戻すというようなやり方だ。そうやって少しずつ打つ時間を遅らせていってもトレシーバなら血糖値にさほど影響は出ないはずだ。


いつも乗っている通勤電車は一日で最も混んでいて毎朝毎朝気が滅入るから、最近は一本早い電車に乗り、会社の近くのカフェでコーヒーを一杯飲むのを秘かな楽しみにしている。ミルクも砂糖も入れない。甘いものを飲むのは特別なときだけだ。お腹にたまらない液体のためにノボラピットを消費したくはない。せっかくだから血糖を図ろう。鞄から黒のポーチを取り出し、いつも通り5秒待つと、わたしの読みはちゃんと当たっていた。トレシーバの効果がまだ残っていて、朝打ったノボラピットがしっかり血糖も抑えてくれたから、数値は139まで落ち着いていたのだ。

素晴らしい、もう少し様子を見よう。わたしは気を持ち直して、モーニングを食べ、忙しい朝をコーヒーとトーストの香りで満たす人たちを羨ましく眺めた。会社近くのカフェでモーニングを食べるためには、少なくとも朝起きてから1時間半は何も食べない状態でいなければいけない。ふつうなら空腹を我慢し、電車内でお腹が鳴らないよう気をつける程度のことだろう。しかし1型の人間が朝から何も食べずに1時間も電車で立ちっぱなしでいたら間違いなく低血糖になる。満員電車内での低血糖など想像するだけで恐ろしい。もちろんこまめにビスケットなどを食べ、低血糖予防をしながらカフェまで行くこともできる。でもせっかくのモーニングの前に中途半端に食べ物を入れてお腹を膨らせたくない。いつかはどこかで美味しいモーニングを食べたいけれど、まだしばらくその夢は叶いそうにない。


昼前に測るとさすがにトレシーバも虫の息なのか、270を超える数値が出た。ここでようやくわたしはトレシーバのダイヤルを12単位回し、脇腹に刺した。いつもなら270もあればノボラピットは+2単位で打つところだけど、今日はトレシーバがどれくらい血糖を落とすのか読めなかったから、ノボラピットはいつも通りの単位計算で打った。でも、それでは不十分だったみたい。夜、9時近くに帰宅して測ると、まだ血糖は190台だった。


いつからか、わたしは一日に数回目にする2桁か3桁の数字に一喜一憂するのをやめた。(そもそも20近くも誤差があるものを信用なんてできるか?)そのかわり数字の積み重ねのなかに物語を読みとることを覚えた。そして数字を乗りこなし、物語を書き進めていくことも。良い時があれば、悪い時もある。悪い時が続いても、ふと良い時が訪れる。今日だけを切り取ったら、最悪の一日だ。平均血糖はおおよそ200。合併症を手招きして呼んでいるのかと先生に怒られるだろうか?でもわたしは今日のデータを分析し、明日はもっとうまくやれる自分を知っている。あさってには食前血糖が100以下に落ち着くことを知っている。しあさって、またすぐ200を超える血糖値を出してしまうことは、あまり想像していないけれど。一度の打ち忘れは流転する毎日の一コマでしかないことをわたしはよく知っているから、またそこからエンジンをかけ直し、物語を前に進める。仕切り直しに、夜もう一杯コーヒーを飲み、読んでいる本に集中し始めた。この書き手が人種や性や階級の問題を丹念に織り込みながら物語を編んでいくのと同じように、1型であることの意味を、その社会的な位置付けを、複雑で苛立たしい症状やたくさんの無理解や未来への不安や変わってしまった身体へのどうしようもない怒りを複層的に見据えながら、たしかにここに息づいている、本物だと思えるおはなしを語ることができたら、と想像してわたしは震える手でページをめくる。

*1:健常な人の場合、血糖は常に100前後で保たれている。1型糖尿病患者の血糖値はある意味天井知らずで、発症時に1000を超える人も少なくない。

「私(I)」の声を聴け/Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'と'The Applicant'に見る劇的独白の効果

久しぶりに図書館でいろいろ漁っていたら、こちらを見つけた。

この前アナ雪とゴブリン比較で参考にさせていただいた、反逆する花嫁の物語としてのゴブリン論を書かれた齋藤美和さん編著のイギリス詩ガイド。シェイクスピアジョン・ダンなどの詩を若い読者向けに紹介するライトめな読み物になっていて、ゴブリンも取り上げられている(ここではわたしが紹介した論文とはまったく異なり、アイロニカルで恐ろしい取り替え子の物語詩として読解されている)。

その中でわたしも以前こちらで紹介したキャロル・アン・ダフィの「メデューサ」'Medusa'という詩について書かれた章がある。この詩自体、力のある見事な作品なのだけど、今回はこの詩をきっかけに別の、わたしが大好きなシルヴィア・プラス*1の詩の話をしたい。


メデューサ」は劇的独白(dramatic monologue)で書かれている。劇的独白とはあるキャラクターが(特定の)聞き手に対して語りかける詩の形式で、一人のみが話すので会話(dialogue)はないんだけれど、語り手が聞き手を意識して語っているので、劇的な効果がある。まあこうやって書くと意味がわからないと思うんだけど、たとえば尋問する刑事とされる容疑者の会話を描くのではなく、容疑者側の語りのみを切り取ったら、それが劇的独白だ。「メデューサ」は、夫に裏切られた妻が、蛇の髪を持ち、見るものを石に変える女メデューサよろしく、夫を石にして復讐しようとしていることを夫に語る詩。

My bride’s breath soured, stank
in the grey bags of my lungs.
I’m foul mouthed now, foul tongued,
yellow fanged.
There are bullet tears in my eyes.
Are you terrified?

Be terrified.
It’s you I love,
perfect man, Greek God, my own;
but I know you’ll go, betray me, stray
from home.
So better be for me if you were stone.

わたしの花嫁の息は鼠色の両肺で
酸っぱい、悪臭を放った。
口は汚らわしく、舌も汚く
黄ばんだ牙がある。
目には弾丸の涙。
あなた怖がっている?

おそれるがいい。
わたしが愛するのはあなた
完璧な男、ギリシアの神、わたしの神
でもわたしは知っている、あなたが出て行くと、わたしを裏切り、
家を出ると。
だからあなたが石になってくれたほうがいい。

Carol Ann Duffy, 'Medusa'

最初の数行を読んだ時点でなんとなく感じたことがあったんだけど、それが"Are you terrified?--Be terrified."のところで確信に変わった。この詩はシルヴィア・プラス「レディ・ラザラス」'Lady Lazarus'の素晴らしいオマージュではないか。

Peel off the napkin
O my enemy.
Do I terrify?--

ナプキンを剥いでごらん
わたしの敵よ。
わたしが怖い?--

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

メデューサ」の"Are you terrified?"は間違いなく「レディ・ラザラス」の"Do I terrify?--"に呼応している。よく見ると、二つの詩は構造的にも似ている。プラスといえば、夫テッド・ヒューズの不倫によって結婚生活が破綻し、ヒューズへの憎悪を叩きつけた詩を離婚後にいくつも書いているんだけれど、「レディ・ラザラス」も例に漏れず、詩の最後で主人公レディ・ラザラスは「灰の中から赤毛を立てて浮上し、空気のように男を食らう("Out of the ash / I rise with my red hair / I eat men like air")」。他の女("your girls, your girls")のもとへ走る夫を石に変えてやろうと企むメデューサ妻の物語に、まあ相通じているじゃないか。

レディ・ラザラスは聖書に登場する、蘇る男=ラザロの女版で、死と再生を繰り返すことを特技としている。このキャラクターには20才で自殺を試み、死の淵から生還したプラス自身の経験が反映されていて、「レディ・ラザラス」はよく告白詩(confessional poetry、とことんまで「私(I)」を抉る詩のジャンル)の代表作に挙げられる。

I have done it again.
One year in every ten
I manage it--

またやった。
十年に一年
わたしはやり遂げる--

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

レディ・ラザラスは10年おきにいったん死んで蘇るのを繰り返していて、その死からの再生劇はまるで一大ストリップショー("big strip tease")のように見世物にされ、人気を博している。

The peanut-crunching crowd
Shoves in to see

Them unwrap me hand and foot--
The big strip tease.
Gentlemen, ladies,

These are my hands
My knees.
I may be skin and bone

Nevertheless, I am the same, identical woman.

ピーナツをくちゃくちゃ噛む観衆が
押し寄せて見る

やつらがわたしの手や足を剥いでいくのを--
一大ストリップショー。
紳士、淑女の皆さん。

これがわたしの手
わたしの膝。
わたしは骨と皮になるでしょう

でも、わたしは同じ、まったく同じ女。

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

どんどんと腕や足を剥かれていく身体解体ショーの描写は痛々しく衝撃的だけれど、レディ・ラザラスは驚くことに骨と皮だけになっても見事に復活できるという。

It's the theatrical

Comeback in broad day
To the same place, the same face, the
same brute
Amused shout:

'A miracle!'
That knocks me out.

劇的な

真昼間のカムバック
同じ場所、同じ顔、同じろくでなしのもとに
やつらは驚嘆して叫ぶ:

「奇跡だ!」
これにはくらっときちゃう。

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

ここまでいくつか引用してきて、読んでくださっている方はお気づきになっていると思うのだけれど、この詩もまた劇的独白で書かれている。わたしはこの詩が大好きで、もう何度も読んでいるのに、今回「メデューサ」と比較するまでこれが劇的独白であることに気づかなかった。バカですねえ。それはさておき、ここでの語り手は当然死と再生の名手レディ・ラザラスで、聞き手は彼女の敵("my enemy")。敵は彼女を解体するやつら*2であり、またそれを眺める観衆(わたしたち読者含む)でもある。プラスはレディ・ラザラスというペルソナに劇的な独白をさせることで、どんな意味や効果を持たせようとしたのだろう?

プラスの劇的独白というと、「応募者」'The Applicant'という詩が印象深い(そう、わたしは過去に彼女の劇的独白について考えたことがあるのに、「レディ・ラザラス」が劇的独白だと気づいてなかった!おばか!)。この詩の語り手はある面接官で、面接を受けにきた応募者を聞き手に話し始める。ここで応募者が志願するのは夫になることで、面接官は応募者を品定めしながら妻をあてがおうとするのだが、この描写の恐ろしさったらない。

Come here, sweetie, out of the closet.
Well, what do you think of that?
Naked as paper to start

But in twenty-five years she'll be silver,
In fifty, gold.
A living doll, everywhere you look.
It can sew, it can cook,
It can talk, talk, talk.

It works, there is nothing wrong with it.
You have a hole, it's a poultice.
You have an eye, it's an image.
My boy, it's your last resort.
Will you marry it, marry it, marry it.

出ておいで、お嬢ちゃん、クローゼットから。
さあ、どう思うかね?
最初は紙のようにまっさらだが

25年もすれば彼女は銀になる
50年後は金さ。
どこを見ても、りっぱな生き人形だよ。
これは裁縫も、料理も
おしゃべりもできる。

しっかり働くよ、何も悪いところはない。
君には穴がある、これが湿布になってやる。
君には目がある、これがイメージを与えてやる。
わたしの坊やよ、これが最後だ。
これと結婚するかい、結婚を、結婚を?

Sylvia Plath, 'The Applicant'

語り手は女を生き人形('A living doll')と称して代名詞itで呼び、まるで自分の店のイチオシ商品のように応募者に売り込む。ここでの女はまったく人間性を否定された「モノ」で、紛れもなくこの詩には結婚という制度と妻たちが受ける抑圧への皮肉や批判が込められている(よく知られているようにプラスはフェミニズム詩人の先駆けとも言われる)。しかしここで本当におもしろいのは、主体性や人間性を奪われているのは女だけではないということ。夫となる応募者も望んで妻を得ようとはしているものの、選択権はなく、いささか強引に面接官に妻を売りつけられている。それに彼が売られるのは妻だけじゃない。

Open your hand.
Empty? Empty. Here is a hand

To fill it and willing
To bring teacups and roll away headaches
And do whatever you tell it.

手を開いてごらん。
空っぽ?空っぽだね。さあ手をやろう

空っぽを埋め、喜んで
ティーカップを持ち、頭痛をどこかへやってくれる
それに君が教えたことは何でもするよ。

Sylvia Plath, 'The Applicant'

I notice you are stark naked.
How about this suit -

Black and stiff, but not a bad fit.

君は丸裸じゃないか。
このスーツはどうだい--

黒くて固いが、悪くない。

Sylvia Plath, 'The Applicant'

面接官は応募者を欠損のある人間と見なして、彼に手やスーツを与えようとする。特にスーツは社会における男性らしさ、夫らしさを保証するものといえ、応募者はこのスーツを外から与えられることで初めて男/夫としての役目を果たすことができる。つまり女らしさの神話と同じように、男性らしさというものもまた紛いものなんだとプラスはコミカルに、アイロニカルに表現している。

女が生き人形として商品化されている一方、応募者も面接官によって身体中をいじられ、様々なパーツをくっつけられて、まるで何かの製品のように扱われている。何せ彼が与えられた手は塩から再生産することができる("We make new stock from the salt")。このように代替可能・再製可能なモノ化された人間観・身体観はプラスの詩の大きな特徴で、彼女は常に「自分(の身体)が自分でなくなってしまう」脅威と恐怖を描いてきた。それは女性として生き、抑圧を肌で感じてきた日々の反映であり、また自殺未遂後の精神病院での経験に基づいてもいる。プラスの詩や自伝的小説『ベル・ジャー』The Bell Jarには、彼女の医者嫌い、病院側が彼らの基準で勝手に彼女の問題を規定し、心や身体をいじくりまわすことへの嫌悪感がよく表れている(ベル・ジャーにはロボトミー手術を受けた女の子が出てくるのだけれど、まだそういう時代の医療であることは明記しておきたい)。

この話を続けると長くなるのでここでやめるけど、つまり乱暴にまとめると、プラスは「社会がいかにわたしたちの心身のあり方を規定・限定し、わたしたちからわたしたちらしさを奪いうるか」*3にとても意識的な詩人で、そうした個の抑圧の結果として取り替え可能なパーツの寄せ集めのような自律性のない身体像が彼女の詩世界には現出する。

こういったことを表現する上で、「応募者」では劇的独白がとてもいい働きをしている。すでに書いたように、この詩は面接官の発言のみで構成されている。そのため強引な売り込みを続ける面接官に対して応募者や女のリアクション・レスポンスはまったく言葉として表れてこない。モノのように扱われる応募者と女は詩の形式の上でも声=主体性を奪われていて、劇的独白は面接官の饒舌を際立たせる一方で、声なき者の存在を浮き彫りにする。

ひるがえって「レディ・ラザラス」では、この一人の声だけが強く主張する劇的独白の特徴がまた別の効果を生んでいる。ちなみにレディ・ラザラスは再生の名人だと紹介してきたけれども、彼女の再生劇も本当は再製劇と言ったほうがいいかもしれない。阿部公彦さんは『英詩のわかり方』で、レディ・ラザラスについて「皮膚や足や顔といった部分ばかりが突出し、それらを統一する全体性が欠落し」ているとして、この詩には「自己同一性を得られなくて、身体がばらばらになっていく感覚」が描かれていると分析している。レディ・ラザラスの身体ストリップショーはすでに見てきた通りで、たしかにレディ・ラザラスの身体も応募者同様にバラバラのパーツに分解された統一性・自律性のないものになっている。

A sort of walking miracle, my skin
Bright as a Nazi lampshade,
My right foot

A paperweight,
My face a featureless, fine
Jew linen.

一種の歩く奇跡、わたしの肌は
ナチのランプの笠のように明るく、
わたしの右足は

文鎮、
わたしの顔は特徴のない、良質な
ユダヤのリネン。

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

レディ・ラザラスをユダヤ人に喩えた箇所についてはものすごくいろんな意見があるのだけれど、ここで確認したいのは、レディ・ラザラスが自分の身体を、ナチスによって亡骸の一部を再利用・製品化されたと言われる強制収容所のユダヤ人に喩えることで、再生産可能なモノとして認識しているということ。彼女の復活は奇跡と称賛されるけれども、詩を読み進めていくと、この再生劇には新しい人間として生まれ変わる肯定的な響きよりも、むしろ解体・再生産を否応なく繰り返させられる"再製"劇としての皮肉なトーンを感じとってしまう。

しかしこのようにバラバラに分解され、どんどん自分を失っていくレディ・ラザラスだけれども、彼女の「声」だけは詩を通して変わらずに聞き続けることができる。それは当然、劇的独白という形式で書かれているから。「応募者」では劇的独白によって応募者や女の個がいかに圧し殺されているかが際立つけれど、「レディ・ラザラス」では逆にレディ・ラザラスに声を持たせることで、自分であることを剥奪され、崩壊していく身体にもたしかにその持ち主であるはずの「私」が存在しているのを感じさせる。

レディ・ラザラスは詩の中で何度も「私は(I)」と声を絞る。この「私」の多さが真の告白詩と称される所以でもある。劇的独白と普通の叙情詩の違いは、それが単なる心情の描写や吐露ではなく、ペルソナが聞き手を意識して語っていることにあるから、レディ・ラザラスははっきりと、わたしたちに向かって「私」を主張している。私、私、私…と声高に叫ばれる肥大した自意識は大袈裟でもうお腹いっぱいと感じる人もいるかもしれない。けれどもこれだけ私を押し出さなければ、自分の心身が自分のものではなくなってしまうような切迫した恐怖をわたしは他人事だとは思えない。わたしたちからわたしたちらしさが奪われるとき、きまってわたしたちは鈍感になる。自分に対しても、他者に対しても。しかしそこには確実に押し潰される「私」があることに、プラスは「レディ・ラザラス」を通して、劇的独白を効果的に用いて、光りを当てている。

最終行「空気のように男を食う("I eat men like air")」の「空気のよう(like air)」が「男(men)」にかかるのか、「食う(eat)」という行為にかかるのかは微妙なところだけど、わたしは「食う」にかかると思う。この結びを読むとわたしの頭に広がるのは、あの"Beware / Beware"という不気味な警告(これはここで紹介した「クーブラ・カーン」の有名な言葉からきている)とともにレディ・ラザラスの声が燻る灰の中からまるで煙のように、超自然的に立ち上り、食いかかってくる、そんなイメージ。ここで彼女の声はもはや肉体を超越して、ただただ自己の塊へとある意味では純化されているようにわたしには思える。そこにある主張はただひとつ。「私(I)」の声を聴け。




文献リスト!わたしの恣意的な引用ではあれなので、ぜひ原詩を
Lady-lazarus Poems
The Applicant by Sylvia Plath | Poetry Foundation
Carol Ann Duffy – Medusa | Genius

広本勝也『シルヴィア・プラス:軽薄と絶望』
皆見昭,渥美育子編『シルヴィア・プラスの世界』南雲堂 1982

*1:1932年、マサチューセッツでドイツ系の父とオーストリア系の母のもとに生まれる。主に執筆を行っていたのは50年代終わりから60年代はじめ。62年、桂冠詩人である夫テッド・ヒューズとの結婚の破綻後、詩才の絶頂期を迎え、素晴らしい作品を多数残した。63年、未曾有の寒さに見舞われた真冬のロンドンでオーブンに頭を突っ込み、ガス中毒死。奇しくもそれはベティ・フリーダンの『女らしさの神話』The Feminine Mistiqueが出版される年だった。

*2:これがナチスに喩えられ、レディ・ラザラスがユダヤ人に喩えられている点には様々な批判があります。個人の苦しみをユダヤ人の民族的な苦痛に安易に重ね、ホロコーストという歴史的事件を矮小化しているというのが主です。この点についてわたしもいろいろ思うところがあるのですが、今回は控えます。皆さんはユダヤ人ではなかったプラスがホロコーストのイメージを使用することでどんな効果が生まれると思いますか?本当にプラスはただ自分の苦しみはユダヤ人がナチスからの弾圧で味わったものと同等だと言ってのけてしまうナルシシズムだけで、こんな比喩を用いているのでしょうか?

*3:さらにプラスは自分がこれに加担しうることについても本当は自覚的だった、とわたしは思っている

The right man for the right time/『ハドソン川の奇跡』

クリント・イーストウッド監督の『ハドソン川の奇跡』、もといSullyを見た。前回感想あげたMechanic: Resurrectionもそうなんだけど、この邦題だと作品の意図が伝わりにくくなってしまうと思う。なぜならこれは紛れもなくチェスリー・"サリー"・サレンバーガーその人の物語でありながら、同時に様々な"サリー"たちの物語でもあるから。


左右両エンジンを喪失し、絶体絶命に陥った旅客機を見事ハドソン川に着水させ、乗員乗客全155人を救ったサレンバーガー機長。メディアが当然のように彼をヒーローと崇める一方で、彼の行動が本当に正しかったのかの調査が行われる。


英雄視された人物の名を冠した映画ということで、なんとなく一人の男によって(傲慢にも)語られるアメリカ神話なのかと思っていたら、違った。むしろその逆だった。たしかにある男の人生の蓄積に基づいてはいるんだけれど、その軌跡を通してかえって「彼一人の物語」ではありえなかったことが否応なく露わになっていく。そこがおもしろい。

物語を通じて「サリー」という英雄像が出来上がっていくのではなく、サリーは最初っからアンタ英雄だよと讃えられている。でも彼は本当にヒーローか。そんな問いから始まるから、わたしたちは当該の事故を見つめなおさなきゃいけない。ということで、鳥との衝突〜エンジン喪失〜ハドソン川着水という一連の事故の流れが様々な角度からスライスされ、サリーのフラッシュバックという形で何度も反復される。その度に着水のモチーフには少しずつ違う意味合いが付与され、徐々に物語が"構築"されていくのに、同時に核心に迫って"解体"されてもいく。

解体される物語は神話、英雄の物語。一連の事故の状況が明らかになっていくごとに、そこにはサリー以外のたくさんの人が関わっていたことが見えてくる。副操縦士やCAといった他のクルーはもちろん、乗客、管制官、フェリーの乗組員、警察... 彼ら一人一人が自分の仕事を為してこそ起こった乗員乗客全155人の救出。機長が全員を救ったのではなく、「155人が生き延びた」。

作中を通して繰り返し仄めかされ、またクライマックスの公聴会の場面でサリー自身が明言する通り、たった一人のアメリカン・ヒーローが世界を救うなんてあり得ないよ、とサリーという英雄像は映画を通じてどんどん解きほぐされる。そしてそれと同時進行で、Heroではなく"the right man for the right time"(正しい時に正しい人、適材適所)のそれとして物語は再構築されていく。まずそこに人がいて、彼/彼女が的確に行動する。the right man for the right timeはサリーだけじゃなく、そこには他にもたくさんのサリーがいたことを、この映画は反復を通して丁寧に丁寧に語っていく。

その積み重ねがあるので、最後に公聴会で聴く208秒ははじめに見た208秒とまるで違って聴こえる。特にここでは(同じコクピットに座っていながらなぜか機長に比べて扱いが小さくなりがちな)副操縦士のジェフとのやりとりが、あのときのサリーの冷静な決断・行動に作用していたことが息遣いや間合いから感じとれるようになっている。このあとサリーがジェフを讃える描写をわざわざ入れるまでもなく、ジェフもまた彼の仕事を全うしていたということ。また最後まで情報を提供し続ける管制官の声、CAたちが鼓舞するように唱える"Brace! Brace! Brace! Heads down! Stay down!"のリフレインも、これまで反復されてきた事故〜着水までのシークエンスを思い出させ、あの208秒の中に本当にたくさんの「正しい仕事」があったことを想像させる。


解きほぐすことで紡がれるこのアメリカの語り直しの物語は、紛れもなく9.11を反転して(NY上空を低空飛行する旅客機を眺める人々の心中はどんなものだっただろうか?)希望を照らそうとしている。その希望の中心にいるのは一人の英雄ではなく、個々の人だったんだと気づかせる映画を撮る人たちがいるアメリカは、NYは、幸福だよね、となんかやっかみにも似た気持ちが生まれたのだった。

蘇るイサム/『007 スカイフォール』パロディとしての『メカニック:ワールドミッション』

ジェイソン・ステイサムが好きです。『ハミングバード』の感想でも書いた通り、大学時代は足繁く劇場に通ってイサム追っかけをしていました。話はあってないようなものであることも多いイサム映画を見るときのポイントはただ一つ。いかにジェイソン・ステイサムという素材を活かし、イサム映画というジャンルを更新していくか。(と言うわりには見ていないのも多い。せめて前くらいには追っかけしたいから『SPY』も見なきゃ。)



そんなわけで『メカニック:ワールドミッション』を見た。

チャールズ・ブロンソン主演の同名作のリメイク『メカニック』は、キュートな弟子ベン・フォスターとのコンビが素晴らしいイサム映画の快作だった。その続編ということで、さあ今回はどんなイサムを見せてくれるのかな!?と前情報一切入れず見に行ったんだけど、いや、これまさかのイサム版スカイフォールじゃないか。タイトルクレジットで原題Mechanic: Resurrection(改めて言うまでもないけど、『007 スカイフォール』のなかでジェームズ・ボンドは「お前のhobbyは?*1」と聞かれて"resurrection"(復活)と答えていて、この映画はボンドの再生を描いていますよね)と映し出された瞬間からおや?と思ったんだが、出来はともかくとして、これは明らかにスカイフォール・パロディとして意識的に作られている、よね?

ここからは一応前作のネタバレというか、オチを踏まえての話。




死んだはずの男が決別した世界に再び引きずり出される話。しかもそこで敵になるのは同じ境遇の、鏡に映るもう一人の自分。その鏡像と対峙し、打破することで再生を果たす、というストーリーはまさにスカイフォールそのもの。主人公ビショップが南の島に身を潜める点や、繰り返される水に落ちるイメージもスカイフォールを連想させる。ただし、スカイフォールでは鏡像を通してスパイの実存を巡る問いを投げていたのに対して、メカニックには鏡の中の自分を打倒することの意味や効果は特別用意されていなくて、基本的にはいつものイサム、イサム&イサムな徹頭徹尾イサム映画なので、スカイフォール・パロディといっても実際は話の骨格を借りているだけ。今回追加された父の話も幼少時代の設定も超唐突で都合がいい!とはいえ半世紀以上スパイをやってきたボンドがこれからもスパイであるために一度死んで蘇ったように、 キャリア約15年の間「無敵の仕事人」イメージを再生産し続けてきたイサムにもここらで生まれ直しが必要だったのではないかなと思う。最近は『SAFE』で涙を流したり、『ハミングバード』で地獄の天使を演じたりと無敵じゃないイサムも見せていたから、そろそろ再生譚を語っていいタイミングだっただろう。

それにしても全方向からの止まぬイサムの乱れ打ちにクラクラする一時間半だった。冒頭のリオでのアクションは対象とカメラの距離が近くてややガチャガチャしているかなと思ったけど、だんだんにイサムの躍動する肉体全体を捉えるような撮り方になって見やすかった。途中まで「ベン・フォスター不在の今、これが『メカニック』続編である必然とは…?(でも楽しいからいっか、そもそも前作の話そんなにちゃんと覚えてない)」と考えてしまったんだが、そうかこれもともとは事故に見せかけた暗殺を専門にする超一流殺し屋の話だったね。前作ではベン・フォスターのおかげでどの殺しもしっちゃかめっちゃかだったけど、今回はイサム一人なのでちゃんと事故に偽装させているのにド派手な暗殺を完遂していた。え?屋上プールの底が抜けるなんて事故にしか見えないでしょ?プールから落下するところを動画に撮られてるならイサムも映り込んでるんじゃないかなんて野暮なことを言うのはだれ?あ、でもごめんなさい、これだけは言わせてください。サメよけクリームって!サメよけ!!クリームって!!!


※※最後に結末に関して



爆発に巻き込まれて死んだと思いきや実は生きていて、しかもそれが監視カメラにちらりと映ってしまっているというオチは、きちんと前作を踏襲しながら、さらに「再生」のイメージもちゃんと伴って描かれている。クレイン=残虐なもう一人の自分に勝ったイサムは胎内を思わせる人間一人ぶんの小さなアンカー収納庫に守られて蘇り、海=産湯に浸かって再び地上に現れる。いろいろ足りない点はあれど、復活の物語としてちゃんと機能していると思う。たとえ監視カメラに映るイサムの目がたったいま再生を果たした人間のものとは思えぬほど鋭く殺りにきていたとしても。そもそもビショップはなぜアンカー収納庫からの脱出方法なんて知っていたのかな?超一流の殺し屋だからそれくらい知っていて当然、かもしれないけど、かつてギャングに拐われ少年兵とした育てられた彼はそこから逃げ出すためのあらゆる方法を調べていたのかもしれない。一方ジェシカ・アルバ演じるヒロイン、ジーナの救出も小さな脱出船(?あれはなんと形容すべきものなの?)に乗って、ぷかりと海に浮かび上がってくるという、ビショップと同じような再生のイメージを纏っている。アフガン従軍*2を経てカンボジアの子どもたちのための施設を運営する彼女にとっても、これは過去を清算し新たなスタートを切るための物語でありえたかもしれない。というようなことを考えると、今作は再生を目指す男女のやおい映画としてもっとやれたのではないかなとも思う。もちろん余すところなくイサム特盛な今作にはとても満足しているけれど、また別の企画でそういう話が撮られてもいいんじゃないかな。というか、わたしが見たい。

*1:ここ文脈を正確に記憶してないから訳せないんだけど、どう捉えるのが一番いいのでしょう?教えてくださる方がもしいたらとても嬉しい

*2:ここも記憶が曖昧なのでアフガンじゃないよ!って場合はご指摘をください。

ららぽーとで問答/Reflection on the INTEGRATE advert and how women live in this society

また何か詩の翻訳でもしようかなー、と特に紹介したい作品があるわけでもないのに考えていて、はたと気がついたのは、詩の翻訳はわたしにとって精神安定剤の役割があるということだ。詩を読み返し、改めて素晴らしい言葉に共感し、揺り動かされ、勇気をもらい、初めてその詩に感動したときのことを追体験する。その作業過程が好きで、落ち着かない心をひとまず置いておけるポケットを作れるから、わたしはへたくそなくせに詩の翻訳を止めない。つまり、今わたしの心は落ち着いていない。理由はわかっている。


昨日バイト時代の友人・マネージャーとランチをするために、地元のららぽーとに行った。どこのららぽーともそうなのかはわからないけど、我が地元の客層はファミリーとティーンが大半だ。わたしと同じように最寄駅からぞろぞろとららぽーとまで歩いているのはたいていティーン層(ファミリー層はやっぱり車が多い)で、わたしはいつも最寄駅に降り立つとそわそわしてしまう。あのデカデカとした建物まで歩いている間ずっと居心地が悪く、目的のお店(というより映画館であることが多いが)に辿り着くか友人と落ち合うまで、その感覚は消えない。

先日24才になったわたしはららぽのメインターゲット層から外れているから自分の居場所じゃないと感じるのは当然だろう。それにしても、ファッションもメイクも話し方も身振り手振りもすべて、わたしのそれと、彼氏・友人らと意気揚々とららぽに向かう女子たちのそれとが丸っ切りかけ離れているのをまざまざと見せられると、その価値観のギャップの大きさに「わたしはここにいていいんだろうか、、」と自信を失う。わたしは服装は極力シンプルなスウェットとジーパンでメイクだけ少し凝るという力の抜き具合・入れ具合が好きなんだけど、そういう姿で歩いていると、頭から爪先まで100%全力を投入したファッションの女の子たちには、近所の公園に散歩しにいくような格好でららぽに来ちゃってると思われているかもしれない、と卑屈な被害妄想が広がる。

インテグレートの件のCMを見て、来年25才のわたしは特に傷つくことはなかった。と自分では思ったものの、ららぽーとでこんな卑屈なことを考えているんだから本当に気にしてないのかは甚だ怪しい。ティーンの頃でさえ、映画館の暗闇を除いては、ららぽーとに居場所を見出したことなんてなかった。自分はここにいる子たちとは違うとずっと思っていたし、それが優越感になることも孤独感になることもあった。大学に入り、いろんな人と作品に出会い、なんかよくわからない病気になったりしてるうちに、緩やかに今ある自分を受け入れることができるようになったけれど、ららぽーとに来ると自分はまるでこの世界の住人ではないかのように思える。そしてここにいる女子の多くはわたしと違ってこの世界に溶け込んでいるように感じてしまうけれど、本当のところはどうなのだろうといらぬ勘繰りをしてしまう。

ららぽ最寄駅のトイレで誰かと待ち合わせているのだろう高校生くらいの女の子が何分も髪を直していた。わたしにはその前髪が数ミリずれることで何の違いが生まれるのかわからないけれど、自分とは何かというアイデンティティの問答の只中にある10代には大きな意味があるのはわかっている。インテグレートはもともとそれくらいの、お小遣いでコスメを買うような年齢層もターゲットに入れていたブランドだと思う。今回ターゲット層の年齢を引き上げたとはいっても、これまでインテグレートを使ってきた女子高生だってあの広告を目にするだろう。それを考えると、やっぱりあんなCMは間違っているよと声を張らなきゃいけないと思う。まだ何者でもない若者にとって周囲の一言は重いのに、突然「25才になったら女の子は終わり、もうチヤホヤされないし、価値の下落待ったなし!」と勝手に人生を限定され、勝手に25才で人生を終了されたら、いったい女の子たちはどこへ向かえばいいのだろうか。

インテグレートのCMの、企業側が言う真意というのは、そんな行き場を失った女子にコスメで救いを、ということなんだろう。確かに女性の価値は25才までという価値観が存在していた/している一方、25までに結婚して母になってという女性がどんどん減り、働く女性が増えているのは事実で、社会構造の変化とともに価値観もアップデートされるべきだし、その際にコスメは一つの助けになりうるはずだ。けれども、その救いの方向性が圧倒的に間違っている。それどころか、この社会でいう女性活躍は女性がもっと多様に自由になることではなく、女性をまた違うやり方で搾取することだということを思い知らせ、さらにはそれを助長してしまっている。

だから25才の誕生日のCMよりも、その続編の「疲れが顔に出ているうちはプロじゃない」のほうがわたしにはより恐ろしい。顔に出るほど疲れが溜まっているのを隠す化粧は全然女の子の救いになんかなっていなくて、本来身体を癒やすための風邪薬が、休めない仕事に向かわせ、さらに身体を過酷な状況に追い込むのとまったく同じように、自分の心身をより不自由にさせるものだ。女性であるがゆえに見た目に求められるものが男性よりも大きく、「女の子なんだからオフィスに花をもたせてよ」という無言のプレッシャーもこのCMの背景にはあるかもしれない。しかしここまでいってしまうと、根本にあるのは「24時間働けますか」とまるで変わらない、性別を問わない社会構造の問題に波及していると思う*1

奇しくも自殺した電通の女性社員が男性上司から「女子力がない」「ボサボサの髪で出社するな」と罵倒されていたと報道があり、インテグレートのCMの暴力性が辛すぎる形で証明されてしまった。それなのに「お洒落や恋愛だけじゃなく仕事も頑張る女子(そのためには心身の負荷は致し方ない)」が無邪気にメディアで信奉されたり、CMの問題が女性だけのものとして片付けられたりするのが何よりも嫌だし、恐ろしい。今さかんに発信されている頑張る女子像は結局旧来の価値観を解体するものじゃなく、むしろお洒落や恋愛に生きるという古臭い女子像に、これまで男性が課されてきた役割を乗っけただけで、女性が求められることはさらに増えてしまったんではないかとさえ思える。この社会が向かっているのは「お洒落でも恋愛でも趣味でも仕事でも自分の好きなものに力を入れればいい」ではなく、「お洒落も恋愛も仕事も全力じゃなくちゃだめ、女だからって甘えていられない」という新たな、そしてより厳しい抑圧じゃないか。問題は何一つ解決していない。女性にとっても、男性にとっても。



罪悪感があって書くのを迷ったのだけれど、彼女のツイッターを見つけて全部読んでしまった。終わりの見えない激務から救ってくれるのは素敵な男性との結婚だと考えているらしかったのが辛かった。価値観の刷り込みは本当に人を殺すのだと思う。



詩に逃げるのはやめようと思って書いてみたけれど、こういった人の尊厳や命に関わる話題でさえ、素直に思ったことを言うことができず、どうしたらもっと的確な表現ができるか、クリアな文章構成になるかを考えてしまう自分がすごく嫌いだ。今だって最後にこういう自分の心境の吐露をわざわざ持ってきて文章をまとめようとしている。詩の翻訳は一から自分で書くよりも言葉に対して負う責任が小さいような錯覚に陥るから気が楽なんだろう。本当はそうじゃなくて等しく責任を負うべきなのに。数日前には好きな詩を紹介して言葉に勇気づけられたのに、今日はまた言葉への信頼を失っている。そしてこうやって書いているうちに、これまで論じてきた真に重要な問題からどんどんかけ離れていってしまって、自分は本当にこの問題と向き合えているのかわからなくなる。そんな人間の言っている戯言だから何ら信用はできないけれど、書いてしまったものはやっぱり誰かに読んでほしいのだった。

*1:朝マックのアニメのCMとか男性主人公でめちゃくちゃ狂気を感じます。山積みになった仕事がモンスターボックスもびっくりな高さの跳び箱に見立てられ、それを目を血走らせた男性が朝マックでエネルギーチャージして跳び越えるというやつ

My Favourite Encouraging / Inspiring Poems/勇気をくれる詩3選

落ち込んだとき、挫折したとき、自分の存在価値が信じられなくなったとき、読むとよい詩。


Emily Dickinson, 'If I can stop one heart from breaking"


POEM: IF I CAN STOP ONE HEART FROM BREAKING, BY EMILY DICKINSON

祖父はアマースト大学の創始者の一人、父は弁護士というマサチューセッツの名家に生まれながら、18歳のとき信仰告白の拒否をきっかけにマウント・ホリヨーク女学校を退学して以降、生涯の大半を家に引きこもるようにして過ごしたエミリ・ディキンソン。今でこそアメリカの大詩人としての評価を確立しているけれど、生前は約10篇の詩を発表するに留まり、世にほとんど知られることがなかった彼女にこんな詩を書かれたら涙するしかない。

ディキンソンの詩はすべて無題なので、便宜上最初の行がタイトル代わりとされる。"If I can stop one heart from breaking"(「一つの心が壊れるのを止めることができたなら」)--2行目はこう続く。

I shall not live in vain

わたしの人生は無駄にならない

誰かの心を癒し、痛みを和らげられたなら、あるいは気絶したコマドリを巣に帰してあげられたなら、わたしの人生は無駄にならない。誰であれ自分の無力さや自分は何者でもないという事実に打ちのめされ、心折れた経験があると思う。それでも、たった一人でも、誰かを救うことができたなら、あるいはそんな大それたことは言わず、ほんの少しでも痛みや苦しみを取り除き、誰かのために何かを為せたなら、それがわたしの存在意義になる。そんなこの上なくささやかな人生の価値が、たった7行のなかにいくぶん挫折の色を滲ませながらも力強く綴られる。わたしの人生は無意味かもしれない--そんな疑いがなければ、この詩はスタートしない。厳しい現実認識があり、ただ「誰しもが素晴らしい」とか「人を助けることが人生の価値だから皆助け合おう」というような耳に甘い言葉を並べたものではない。だからこの詩を過剰に美化したくはないし、実際ディキンソンの他の詩にはもっと辛辣でシビアなものも多いけれど、優秀で才能豊かな詩人でありながら世に出ず、また生涯未婚だった(当時このことがどういう意味を持ったかは、たとえばこないだ訳したゴブリンを読んでもなんとなくわかるかと思う)彼女が、かといって社会から完全に孤絶せず、どこかの誰かに手を伸ばし、働きかけることの希望を抱いていたことに感動し、勇気づけられる。何もかもダメかも、と思ったときに読んでほしい一篇です。

Samuel Taylor Coleridge, "Kubla Khan"


POEM: KUBLA KHAN BY SAMUEL TAYLOR COLERIDGE

ウィリアム・ワーズワースと並ぶ英ロマン派詩人の代表作の一つで、アヘンの幻覚作用により、クビライ・ハンが造った都ザナドゥの夢を見たコールリッジがその情景を描いた詩。前半部分もおもしろいけれど、何より圧倒されるのは最終連。

A damsel with a dulcimer
In a vision once I saw :
It was an Abyssinian maid,
And on her dulcimer she played,
Singing of Mount Abora.
Could I revive within me
Her symphony and song,
To such a deep delight 'twould win me,
That with music loud and long,
I would build that dome in air,
That sunny dome ! those caves of ice !
And all who heard should see them there,
And all should cry, Beware ! Beware !
His flashing eyes, his floating hair !
Weave a circle round him thrice,
And close your eyes with holy dread,
For he on honey-dew hath fed,
And drunk the milk of Paradise.

かつて見た幻影に現れた
ダルシマーを持った乙女
それはアビシニアの娘だ
彼女はダルシマーを弾き
アボラ山について唄う
その調べと唄を私のうちに
蘇らせることができたなら
私は深い歓びに引き入れられよう
高く、長く響く音楽とともに
私は調べのなかにあの宮殿を打ち建てることができる
あの日を浴びた宮殿を!氷の洞窟を!
聞く者すべての目に浮かぶはずだ
そして彼らはこう叫ぶ 気をつけろ!気をつけろ!
あの閃く瞳、たなびく髪に!
彼の周りに三重の輪を描き
畏怖の念をもって目を閉じろ
なぜなら彼は蜜の滴りを味わい
極楽の乳を飲んだのだから

アビシニアの娘の音楽(≒詩の女神ミューズからのインスピレーション、かな)を再び呼び起こすことができたら、夢に見たザナドゥの荘厳な宮殿をair=旋律=詩のうちに再現できる、とコールリッジは言う。クビライが現実世界の皇帝として都を造営し権力を誇った一方、詩人にはそんな力はないけれど、想像力の世界にならあのクビライの立派な宮殿だって打ち建てることができるんだという詩人の誇りと想像力への信頼がある--ようでいてない、いややっぱりあるような、そんな微妙さがこの詩の肝で、泣けてくるところだと思う。

コールリッジはここで仮定法を使っているから、彼は失われたアビシニアの娘をre-vive(蘇らせる)することはできないと考えていて、詩の力を信じているようで、自分にはその力がないと言っている。この後に続くのは見事な宮殿を描き出した詩人に対する人々の畏怖の言葉なのだけれど、そもそも彼には宮殿を再現することはできないのだから、それは乱暴に言ってしまえばすべて妄想の産物であって、幻から覚めた詩人には無力な現実が残る。ディキンソンの詩と同じように、やっぱりクーブラ・カーンのスタート地点にも挫折や喪失感がある。

けれども読者からすれば、詩の前半でコールリッジはザナドゥの情景を見事に唄いあげているじゃないかと思う。自分にはもうミューズは降りてこないのではないか、楽園を夢見るばかりで現実で何かを成せていないのではないか、そんな不安や焦燥に絡めとられながら、それでも彼がもがき吐き出す言葉にはちゃんと魔法が宿っている。それがこの詩の何よりの希望。想像力への信頼と不信が不思議に同居する詩なので、自分の言葉や創作に自信がなくなったとき、行き詰まったときに読むと刺さります。

Carol Ann Duffy, 'Words, Wide Night"


POEM: WORDS, WIDE NIGHT BY CAROL ANN DUFFY

女性として、またLGBTであることを公言した人物として初めて桂冠詩人になったキャロル・アン・ダフィのこの詩は、wordsとwideで頭韻を、wideとnightで母音韻を踏むシンプルで美しい響きのタイトルからもう完璧。先に紹介した2篇と共通しているのは、この詩も疑いや不信に端を発しながら、それでも--と詩に向き合う姿勢があることで、わたしが共感し勇気を与えられるのは、そういうふうに挫けながらも書くことをやめない、言葉をめぐる格闘なのだと思う。

遠く離れた地の恋人を思う恋愛詩。二人を隔てる距離はどんなに言葉を尽くしても埋まらない。言葉は無力なのかもしれない。「言葉」と「広い夜」を並べたタイトルは覆りようのない絶対的な夜=距離に対して、言葉の心許なさを表している。

[...] In one of the tenses I singing
an impossible song of desire that you cannot hear.

La lala la. See? I close my eyes and imagine the dark hills I would have to cross
to reach you. For I am in love with you
and this is what it is like or what it is like in words.

[...] ある時制のなかでわたしは歌う
あなたには聞こえない、欲望のかなわぬ歌を

ラ ララ ラ。ほらね?わたしは目を閉じて
あなたのもとに辿り着くために超えなきゃいけない暗い山々を
想像する だってわたしはあなたに恋しているし
その恋心はこういうもの、言葉にすれば、こういうものだから

"I singing"と書いたのは誤植ではなく。ふつう英語はamとかwasとかwill beといった語句を伴って特定の時制の中で話されるけれど、それは言葉が時制という一つのルールの内に限定されていることを意味している。ダフィは時制を取っ払ってしまうことで、たぶんその限界を超えようとしている。それでも結局彼女の歌はimpossibleで、恋人の耳には届かず、ラララ...と中空に消えていってしまうのだけれど。

最終行、「わたしのあなたへの恋心は言葉にすればこんなかんじ」と締め括る詩人の心境にはいささか諦念もこもっている。思いをしたためた言葉は当然言葉以上のものにはならず、時制に限らずいろんなものに縛られているからわたしとあなたを分かつ夜を越えられない。でもそんな言葉の不可能性を指摘することも言葉によってしかなされないし、不可能性を超えようとする試み(これは成功しないのが肝)のなかで、少なくとも言葉にならないものに焦点を当て、ともすれば何か別の可能性の切れ目を見つけることができるやもしれない。いずれにせよ書くことから始めるしかないという詩人が詩を書く理由がこの簡潔な恋愛詩には完璧に提示されているから好きだ。他者との埋まらない距離にもどかしさを感じたときは、ぜひこの詩を。



書いているうちに自分が詩に求めているものは何か、なぜ詩を読むかを問答し始めてしまった。わたしが求めるのは、ここで書いたように負けから始まる詩。だって20年くらい生きいると、人生最初から負けてるって思えてきますよね?(そんなことない?)

言葉は想像力の可能性と希望を示してくれるのに、同時に人間の限界と無力を突きつけてもくる。その矛盾に悶えながら、それでも何かを言わずにはいられないからと言葉を吐き出す詩人の格闘をわたしは読みたいし、一度書くことを諦めてしまった人間にはとかく刺さりまくる。簡単な紹介文なのでいささか主観的で見落としてる点も多いだろうけど、英詩への接点の拡大を少しでもできたら嬉しいなと思う。まあ完全に趣味の文章だけど。おわり。

抱き合う女の今と昔/『アナと雪の女王』とChristina Rossetti, _Goblin Market_

先日、超今更ながら『アナと雪の女王』を見ました。(以下とってもネタバレ注意)

アナ雪といえば、「白馬の王子様はいらない」と自ら行動し困難を乗り越える現代のプリンセス像を決定づけた、テン年代ディズニーの代表作であるのは言わずもがな。けれど今から150年前、英国ヴィクトリア朝の女性詩人クリスティナ・ロセッティ(Christina Rossetti)が、アナ雪と同じように固い絆で結ばれた二人の姉妹を主人公に、おとぎ話のフォーマットを借りながら、従来それが描いてきた「少女かくあるべき」の規範に意を唱えた、「女が女を救う」物語詩を書いていたことは、日本ではそれほど知られていないと思う。そこで今回はロセッティの『ゴブリン・マーケット』(Goblin Market)のことをちょこっと書いてみたい。

クリスティナ・ロセッティ『ゴブリン・マーケット』和訳 - Who's Gonna Save a Little LOVE for Me?

へたくそな訳だけど、この詩を読んだことがない人はよかったら上の記事を一読してほしい。

主人公はリジーとローラの姉妹。とっても簡単にいうと、小鬼が売る禁断の果物を食べて衰弱していくローラを救うために、リジーが小鬼に立ち向かう話。形式上は誘惑に負けた愚かなローラと彼女のために自己犠牲を払う勇敢で賢明なリジーとの対比が効いた教訓話になっているけれど、実際はそう単純な詩ではない。

Frozen Meets Goblin Market | British Literature 1700-1900, A Course Blog

こちらの記事は、アナ雪とゴブリンの類似点をまとめながら、アナ雪ではアナとエルサが担うローラ/リジーの役割が途中でスイッチしている(最初はアナ=ローラ/エルサ=リジー、途中からアナ=リジー/エルサ=ローラ)と書いている。しかし、わたし個人としては役割が入れ替わったというよりも、アナとエルサはどちらもリジー的性質、ローラ的性質を持ちあわせていると思う。氷の能力ゆえに社会から呪われた者と見なされたエルサと、エルサの一撃を受け、衰弱していくアナはどちらも窮地に瀕したローラのようだし*1、姉として「いい子」を演じ続けたエルサ、自分を犠牲にして姉を救ったアナの双方に、優等生で英雄であるリジー的な一面がある。クライマックスで、アナは自分を犠牲にしてエルサを救うけれど、同時に自分自身をも救っていて*2、ここでは「救うもの/救われるもの」の安易で二元的な構図(これは従来「男/女」の関係を示すものであることが多かった)はない。女性は男性に救われるだけの存在ではないし、もっと言えば救いを待つのではなく、自ら行動して危機を打ち破ることができるんだ、ということをアナ雪は描いている。

そしておもしろいことに、賢明なリジーが堕落したローラを救済するという一見わかりやすい二項対立があるゴブリンでも、実は救うもの/救われるものは不可分だということを見落としちゃいけない。ともにLで始まる名と、黄金の髪に白い肌をもったリジーとローラは、"Like two pigeons in one nest"とか"Like two blossoms on one stem"と喩えられているとおり、一心同体、二人で一つの存在で、それぞれ一人の少女の表と裏を表象している。慎み深く小鬼の誘惑を無視するリジーが理性=表で、小鬼に関心を持ち誘いにのるローラが好奇心、欲望=裏だ*3。ゴブリンは、このように分裂した心を抱える少女が小鬼との対峙を通して、自己の再統合を図る成長譚として読むことができる。またここで大切なのは、リジー=理性がローラ=好奇心・欲求を押し殺すことによってではなく、むしろローラと向き合い受け入れることによって、彼女を救い、姉妹の絆を再度深めているということ。

“Oh,” cried Lizzie, “Laura, Laura,
You should not peep at goblin men.”
[…]
Curious Laura chose to linger
Wondering at each merchant man.

「ああ」リジーは嘆いた、「ローラ、ローラ」
「ゴブリンたちを覗き見てはいけない」
[…]
好奇心旺盛なローラは立ち去らなかった
商人たちについて不思議そうに考えながら。

And for the first time in her life
Began to listen and look.

Laugh’d every goblin
When they spied her peeping:

生まれて初めて
[リジーは]耳を澄ませ、目を凝らしはじめた。

彼女が覗き見ているのを見つけて
ゴブリンは皆笑った

一つ目の引用はローラがリジーの制止を聞かず、小鬼に惹きつけられていく詩の冒頭部で、二つ目の引用はリジーがローラを救うために小鬼を探す場面なのだけれど、どちらにおいても"peep"(覗き見る)という動詞が使われている。覗き見る行為は、禁じられた果物に対する関心や興味の表れで、ローラの罪の発端とも言える*4。しかしリジーがローラを救うとき、彼女もまた小鬼を覗き見、今まで目も耳も背けて小鬼から逃げていたのとは対照的に、生まれて初めて自分の感覚を通して主体的に世界と対峙する。つまりローラの救済というのは、リジーがこれまでの従順で慎ましい態度を変え、もう一人の自分=ローラが持つ好奇心や行動力を呼び起こすこと、罪と見なされた自分の内なる逸脱を受け入れることから始まっている。こうして考えると、ゴブリンもやっぱりアナ雪同様、誰かに救われるのではなく、自分で自分を救う女性の物語であるし、もちろんローラを救い出してくれる王子様は出てこない。


と、ここまで書いてきたように、両作には相通じるものがあるけれど、当然アナ雪ではゴブリンが描いたテーマを引き継ぎつつアップデートしている箇所があるので、簡単に2点挙げる。

一つは、ゴブリンではリジーとローラは一人の少女の分裂した自己を表象しているのに対して、アナ雪ではアナとエルサは強い絆で結ばれているものの基本的には他者として描かれている点。ゴブリンが書かれたヴィクトリア朝期が、規範にうるさく、特に女性にとっては常に謙虚で従順な存在であることを求めた抑圧的な時代だったことはよく知られている。そうした時代にあって、普段は自己を押し殺しながらも内なる情熱や欲望に気づかずにいられなかったロセッティ(彼女は自己滅却的な敬虔なクリスチャンであり、同時に才能豊かな詩人でもあった)自身がゴブリンの姉妹像には投影されているし、自分の中の異質さに向き合い、新しい自分を切り拓くという弁証法的な物語構造は非常に19世紀的だなと思う。一方、アナ雪でも最後に抑圧されていたエルサの力が解放されるけれど、アナとエルサは別の人間として描かれているので、こちらは自分の内なる異質さではなく自分とは違う他者の異質さを受け入れるという形になっていて、"多様性"が一大テーマになっている現代アメリカ映画らしい。

二点目は、ゴブリンでは小鬼以外の男性が徹底的に排除されているのに対して、アナ雪は「王子様はいらない」けれど「男はいらない」とは言っていないこと。ご存知のように、アナ雪ではエルサのセクシュアリティが明言されない一方、アナには男性との結婚が用意されている。ところが、ゴブリンでは物語の最後でリジーもローラも妻・母になっているのに男性の影が奇妙なほど見られない(二人の子どももどうやらみんな女の子らしい)。

ロセッティは二人の男性と婚約しながらどちらとも宗教的な理由などから結婚に至らず、最後まで家庭を持つことはなかった。またゴブリンは修道女になった彼女の姉に捧げられている。生涯妻になることがなかった女性がどのような思いでこんな物語を書いたのか、時代が19世紀ヴィクトリア朝であることを踏まえて考えてほしい。男性に頼らず才能ある作家として生きる情熱、自負、一方で女性としての役割や期待に応えられない葛藤、子を持つことへの特別な感情--これらが絡みあい、ゴブリンの物語は複雑で倒錯的な形で表れる。その一つの例が不気味なほどの男性の不在じゃなかろうか。男性に助けてもらう必要はないと言いつつ妻になり母になることへの思いを捨てられず、ロセッティは夫不在の妻と父不在の娘による不思議なユートピアを作り出した。

クライマックスのリジーとローラの交わりも倒錯的で、一筋縄ではいかない。リジーの身体中になじりつけられた果物をローラが舐めとっていく描写はとても官能的で、二人は象徴的なレズビアンカップルとも言えるのだけれど、彼女たちの性的接触には小鬼の果物=男性のものが媒介として必要になる。描写自体ははじめにローラが果物を食べる場面に対応していて、リジーとローラの女性同士の行為は小鬼=男性との行為の代替ともとれる。*5同性の性的接触が描かれている点には社会規範への挑戦が窺えるけれど、小鬼という媒介がなければ成立しないことを考えると、女性の性的主体性というのは存在しないようにも感じられるし、これについては様々な意見があって然るべきだと思う。*6



アナとエルサのシスターフッドに重きを置きながらも、姉はシングルでいつづけ、妹は王子ではない男性と結婚するというアナ雪の結びには「愛の形は様々でいい」というやさしさと自由が感じられる。王子様不要は男性不要とイコールじゃないし、男性を愛することは当然フェミニストの罪じゃない。女性だけの世界を作り、男性を排除してしまったゴブリンの頑なさと旧さを乗り越え、アナ雪はもう一歩、二歩先へ進んでいる。時代はここまできた。ロセッティの格闘は今も日々更新され、実を結んでいっていると彼女に伝えられたらいいのに、と思う。

*1:アナもローラも弱っていく中で髪が白くなる点は見逃せない。おとぎ話において少女が白髪になるということは、女性が若さ(処女性や元気な子どもを生む健やかさなども含まれる)を失うことを意味する。エルサの魔力とは女を老いさせる力ともいえるわけで、それが社会で呪われた力と見なされるのであれば、その社会が女性にとって最大の価値は若さだとしていることの証明と言える。

*2:エルサのためなら自分を投げ打ってもいいという、アナの真の愛の行為が彼女の魔法を解く。

*3:このあたりについては齋藤美和さんの「花嫁の反逆:反-童話としてのGoblin Market」(http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2024/1/AN00035771_V28_PP1-18.pdf)が参考になる。ゴブリンでは好奇心は不服従や怠惰といったローラの罪の根源となっている。

*4:こちらについても齋藤さんの論を参照されたい。

*5:もちろん行為が持つ意味はそれぞれでまったく異なる。小鬼との交わりがローラの破滅を招くのに対して、リジーとの交わりは再生を促している。

*6:そもそも果物を買うために身体の一部を売ったローラ(髪を切る行為は処女喪失を意味する)も、小鬼から苛烈な暴力を受けたリジーも、性的搾取や性暴力の被害者であり、リジーは小鬼に勝利したことになっているものの打ち負かしたわけではなく、むしろ大きな傷を負わされている。ふつう消極性の表れとされる押し黙るという行為を抵抗に転化したのは見事だけれど、ひたすら受難を耐え忍ぶことでしか女性が勝利する道はないのだとすると、その認識はかなり辛いものである。