読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

抱き合う女の今と昔/『アナと雪の女王』とChristina Rossetti, _Goblin Market_

先日、超今更ながら『アナと雪の女王』を見ました。(以下とってもネタバレ注意)

アナ雪といえば、「白馬の王子様はいらない」と自ら行動し困難を乗り越える現代のプリンセス像を決定づけた、テン年代ディズニーの代表作であるのは言わずもがな。けれど今から150年前、英国ヴィクトリア朝の女性詩人クリスティナ・ロセッティ(Christina Rossetti)が、アナ雪と同じように固い絆で結ばれた二人の姉妹を主人公に、おとぎ話のフォーマットを借りながら、従来それが描いてきた「少女かくあるべき」の規範に意を唱えた、「女が女を救う」物語詩を書いていたことは、日本ではそれほど知られていないと思う。そこで今回はロセッティの『ゴブリン・マーケット』(Goblin Market)のことをちょこっと書いてみたい。

クリスティナ・ロセッティ『ゴブリン・マーケット』和訳 - Who's Gonna Save a Little LOVE for Me?

へたくそな訳だけど、この詩を読んだことがない人はよかったら上の記事を一読してほしい。

主人公はリジーとローラの姉妹。とっても簡単にいうと、小鬼が売る禁断の果物を食べて衰弱していくローラを救うために、リジーが小鬼に立ち向かう話。形式上は誘惑に負けた愚かなローラと彼女のために自己犠牲を払う勇敢で賢明なリジーとの対比が効いた教訓話になっているけれど、実際はそう単純な詩ではない。

Frozen Meets Goblin Market | British Literature 1700-1900, A Course Blog

こちらの記事は、アナ雪とゴブリンの類似点をまとめながら、アナ雪ではアナとエルサが担うローラ/リジーの役割が途中でスイッチしている(最初はアナ=ローラ/エルサ=リジー、途中からアナ=リジー/エルサ=ローラ)と書いている。しかし、わたし個人としては役割が入れ替わったというよりも、アナとエルサはどちらもリジー的性質、ローラ的性質を持ちあわせていると思う。氷の能力ゆえに社会から呪われた者と見なされたエルサと、エルサの一撃を受け、衰弱していくアナはどちらも窮地に瀕したローラのようだし*1、姉として「いい子」を演じ続けたエルサ、自分を犠牲にして姉を救ったアナの双方に、優等生で英雄であるリジー的な一面がある。クライマックスで、アナは自分を犠牲にしてエルサを救うけれど、同時に自分自身をも救っていて*2、ここでは「救うもの/救われるもの」の安易で二元的な構図(これは従来「男/女」の関係を示すものであることが多かった)はない。女性は男性に救われるだけの存在ではないし、もっと言えば救いを待つのではなく、自ら行動して危機を打ち破ることができるんだ、ということをアナ雪は描いている。

そしておもしろいことに、賢明なリジーが堕落したローラを救済するという一見わかりやすい二項対立があるゴブリンでも、実は救うもの/救われるものは不可分だということを見落としちゃいけない。ともにLで始まる名と、黄金の髪に白い肌をもったリジーとローラは、"Like two pigeons in one nest"とか"Like two blossoms on one stem"と喩えられているとおり、一心同体、二人で一つの存在で、それぞれ一人の少女の表と裏を表象している。慎み深く小鬼の誘惑を無視するリジーが理性=表で、小鬼に関心を持ち誘いにのるローラが好奇心、欲望=裏だ*3。ゴブリンは、このように分裂した心を抱える少女が小鬼との対峙を通して、自己の再統合を図る成長譚として読むことができる。またここで大切なのは、リジー=理性がローラ=好奇心・欲求を押し殺すことによってではなく、むしろローラと向き合い受け入れることによって、彼女を救い、姉妹の絆を再度深めているということ。

“Oh,” cried Lizzie, “Laura, Laura,
You should not peep at goblin men.”
[…]
Curious Laura chose to linger
Wondering at each merchant man.

「ああ」リジーは嘆いた、「ローラ、ローラ」
「ゴブリンたちを覗き見てはいけない」
[…]
好奇心旺盛なローラは立ち去らなかった
商人たちについて不思議そうに考えながら。

And for the first time in her life
Began to listen and look.

Laugh’d every goblin
When they spied her peeping:

生まれて初めて
[リジーは]耳を澄ませ、目を凝らしはじめた。

彼女が覗き見ているのを見つけて
ゴブリンは皆笑った

一つ目の引用はローラがリジーの制止を聞かず、小鬼に惹きつけられていく詩の冒頭部で、二つ目の引用はリジーがローラを救うために小鬼を探す場面なのだけれど、どちらにおいても"peep"(覗き見る)という動詞が使われている。覗き見る行為は、禁じられた果物に対する関心や興味の表れで、ローラの罪の発端とも言える*4。しかしリジーがローラを救うとき、彼女もまた小鬼を覗き見、今まで目も耳も背けて小鬼から逃げていたのとは対照的に、生まれて初めて自分の感覚を通して主体的に世界と対峙する。つまりローラの救済というのは、リジーがこれまでの従順で慎ましい態度を変え、もう一人の自分=ローラが持つ好奇心や行動力を呼び起こすこと、罪と見なされた自分の内なる逸脱を受け入れることから始まっている。こうして考えると、ゴブリンもやっぱりアナ雪同様、誰かに救われるのではなく、自分で自分を救う女性の物語であるし、もちろんローラを救い出してくれる王子様は出てこない。


と、ここまで書いてきたように、両作には相通じるものがあるけれど、当然アナ雪ではゴブリンが描いたテーマを引き継ぎつつアップデートしている箇所があるので、簡単に2点挙げる。

一つは、ゴブリンではリジーとローラは一人の少女の分裂した自己を表象しているのに対して、アナ雪ではアナとエルサは強い絆で結ばれているものの基本的には他者として描かれている点。ゴブリンが書かれたヴィクトリア朝期が、規範にうるさく、特に女性にとっては常に謙虚で従順な存在であることを求めた抑圧的な時代だったことはよく知られている。そうした時代にあって、普段は自己を押し殺しながらも内なる情熱や欲望に気づかずにいられなかったロセッティ(彼女は自己滅却的な敬虔なクリスチャンであり、同時に才能豊かな詩人でもあった)自身がゴブリンの姉妹像には投影されているし、自分の中の異質さに向き合い、新しい自分を切り拓くという弁証法的な物語構造は非常に19世紀的だなと思う。一方、アナ雪でも最後に抑圧されていたエルサの力が解放されるけれど、アナとエルサは別の人間として描かれているので、こちらは自分の内なる異質さではなく自分とは違う他者の異質さを受け入れるという形になっていて、"多様性"が一大テーマになっている現代アメリカ映画らしい。

二点目は、ゴブリンでは小鬼以外の男性が徹底的に排除されているのに対して、アナ雪は「王子様はいらない」けれど「男はいらない」とは言っていないこと。ご存知のように、アナ雪ではエルサのセクシュアリティが明言されない一方、アナには男性との結婚が用意されている。ところが、ゴブリンでは物語の最後でリジーもローラも妻・母になっているのに男性の影が奇妙なほど見られない(二人の子どももどうやらみんな女の子らしい)。

ロセッティは二人の男性と婚約しながらどちらとも宗教的な理由などから結婚に至らず、最後まで家庭を持つことはなかった。またゴブリンは修道女になった彼女の姉に捧げられている。生涯妻になることがなかった女性がどのような思いでこんな物語を書いたのか、時代が19世紀ヴィクトリア朝であることを踏まえて考えてほしい。男性に頼らず才能ある作家として生きる情熱、自負、一方で女性としての役割や期待に応えられない葛藤、子を持つことへの特別な感情--これらが絡みあい、ゴブリンの物語は複雑で倒錯的な形で表れる。その一つの例が不気味なほどの男性の不在じゃなかろうか。男性に助けてもらう必要はないと言いつつ妻になり母になることへの思いを捨てられず、ロセッティは夫不在の妻と父不在の娘による不思議なユートピアを作り出した。

クライマックスのリジーとローラの交わりも倒錯的で、一筋縄ではいかない。リジーの身体中になじりつけられた果物をローラが舐めとっていく描写はとても官能的で、二人は象徴的なレズビアンカップルとも言えるのだけれど、彼女たちの性的接触には小鬼の果物=男性のものが媒介として必要になる。描写自体ははじめにローラが果物を食べる場面に対応していて、リジーとローラの女性同士の行為は小鬼=男性との行為の代替ともとれる。*5同性の性的接触が描かれている点には社会規範への挑戦が窺えるけれど、小鬼という媒介がなければ成立しないことを考えると、女性の性的主体性というのは存在しないようにも感じられるし、これについては様々な意見があって然るべきだと思う。*6



アナとエルサのシスターフッドに重きを置きながらも、姉はシングルでいつづけ、妹は王子ではない男性と結婚するというアナ雪の結びには「愛の形は様々でいい」というやさしさと自由が感じられる。王子様不要は男性不要とイコールじゃないし、男性を愛することは当然フェミニストの罪じゃない。女性だけの世界を作り、男性を排除してしまったゴブリンの頑なさと旧さを乗り越え、アナ雪はもう一歩、二歩先へ進んでいる。時代はここまできた。ロセッティの格闘は今も日々更新され、実を結んでいっていると彼女に伝えられたらいいのに、と思う。

*1:アナもローラも弱っていく中で髪が白くなる点は見逃せない。おとぎ話において少女が白髪になるということは、女性が若さ(処女性や元気な子どもを生む健やかさなども含まれる)を失うことを意味する。エルサの魔力とは女を老いさせる力ともいえるわけで、それが社会で呪われた力と見なされるのであれば、その社会が女性にとって最大の価値は若さだとしていることの証明と言える。

*2:エルサのためなら自分を投げ打ってもいいという、アナの真の愛の行為が彼女の魔法を解く。

*3:このあたりについては齋藤美和さんの「花嫁の反逆:反-童話としてのGoblin Market」(http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2024/1/AN00035771_V28_PP1-18.pdf)が参考になる。ゴブリンでは好奇心は不服従や怠惰といったローラの罪の根源となっている。

*4:こちらについても齋藤さんの論を参照されたい。

*5:もちろん行為が持つ意味はそれぞれでまったく異なる。小鬼との交わりがローラの破滅を招くのに対して、リジーとの交わりは再生を促している。

*6:そもそも果物を買うために身体の一部を売ったローラ(髪を切る行為は処女喪失を意味する)も、小鬼から苛烈な暴力を受けたリジーも、性的搾取や性暴力の被害者であり、リジーは小鬼に勝利したことになっているものの打ち負かしたわけではなく、むしろ大きな傷を負わされている。ふつう消極性の表れとされる押し黙るという行為を抵抗に転化したのは見事だけれど、ひたすら受難を耐え忍ぶことでしか女性が勝利する道はないのだとすると、その認識はかなり辛いものである。