タヴィ・ゲヴィンソンがうらやましい/10代と『17才の肖像』を振り返る

タイトル通り。最近ちょっと日記化してきたのは、やっぱり書くのが好きだから。

先日リスニングの勉強がてらタヴィ・ゲヴィンソンのTEDでの講演を見た。

http://youtube.com/watch?v=E22icGCvGXk

タイトルは“Still Figuring it Out”(まだ模索中)。

当然、以前から存在は知っていたし、まあ好きかなというくらいの距離感で見ていたけれど、正直どんな考えを持ち、どんな言葉を話すのかよく知らなかった。けれども、このビデオを見て、本当に感心した、というか感動した。ビデオの後半でタヴィは「フェミニズムはルールブックではなく、議論であり、会話であり、プロセスなのだ」と言っている。そう、フェミニズムというのは女性という視点から人間の生き方についてアプローチする方法を指す言葉なんだよね。こうあるべき、というルールはフェミニズムには本来ないはずなのだ。

という話はさておき、それ以来タヴィちゃんが急に好きになってツイッターもフォローしたし、Vanity Fairのインタビューも読んだ。なんでこんなに惹かれるのかなあ、と考えていて一つの答えに至った。わたしはタヴィ・ゲヴィンソンがうらやましいのである。96年生まれ、まだ10代の彼女がこんなにも世界を鋭い視点で見ているということ(この講演のときは16才)、またそうして得た考えを自分の言葉で、手法で世界中とシェアしているということ、それがたぶんうらやましい。

何をするにしても遅すぎるということはない。という言葉は確かにその通りなのだけれど、若いうちから自分の言葉やアイディアを発信し、タレントを発揮できる環境があることはとても大きいと思う。まあつまり、タヴィちゃんを見ていると、自分はどうしてもっと早く始めなかったんだろう、気づかなかったんだろうと思わさせられるということだ。

わたしの10代はタヴィちゃんに比べれば本当にミクロレベルにちっぽけなものだが、昔を振り返っていてふと19のときに『17歳の肖像』について文章を書いたことを思い出した。探し出して読んでみたら、思った以上にひどくて目も当てられなかったけれど(というかあからさまに当事者的な書き方で気持ち悪かった)、よくわからないガムシャラな勢いはあった。

17歳の肖像』ほどstill figuring it outな10代女子に見てほしい映画はない。わたしがこの映画から学んだ最大のことは、自分のセンスや、言葉や、行動に対して大人の承認はまったく必要ないんだということ。パリに行きたければ自分で行けばいい。誰かに連れていってもらう必要はない。だってあなたにはそれができる力があるのだから。

とかく学校に居場所を見出せない類の女子にとって、「センスのある大人」からの承認は心地がよい。ただでさえ10代のうちは大人に憧れるから、同年代と趣味や考えを分かち合えないと感じればなおさら大人の重要度が増す。でも別に大人が「君はセンスがいいね」と言ったところで、それはなんら自分の価値にはならない。価値は自分が持っている考え、言葉、それらによって構成される自分自身なんだという気づきを『17歳の肖像』はもたらしてくれた。

この話には脈絡もオチもない。10代のときわたしは『17歳の肖像』を見て、ある答えを見つけた。つまりfigure it outした。そのことを文章にし、またそのときわたしはまた別の10代の女の子がこれを読んでくれれば、と思った。

タヴィちゃんは「10代の女の子たちに答えや、答えを探す許可を与えたいわけではない、ただ彼女たちが答えを模索する助けになれれば」と言う。「答えを模索する助け」はどうしたらできるのか。それは自分自身が答えを模索する過程、その結果見えてきたものをシェアすることだとわたしは思う。そこに文章を書く意味がある。

「ロックンロールの自殺者」追記

先日David Bowieの‘Rock ‘n’ Roll Suicide’を訳していて、ずっとどういう意味なのかわからなかった箇所の謎がやっと解けた。というお話を駆け足でする。

Chev brakes are snarling as you stumble across the road
But the day breaks instead so you hurry home
Don't let the sun blast your shadow
Don't let the milk float ride your mind
They're so natural - religiously unkind

“Oh no love!”の絶唱の前にくるこのヴァースの最後の一行。これの意味がいつもよくわからなかった。特にreligiously unkindの部分。「滲み出る薄情さ」とか「宗教的なまでに無慈悲」とか訳されているのを見たが、それでは意味が通らない。どう訳そうかと悩んでいていたところ、religiouslyには「定期的に、決まって、きちんと」というような意味があることを知った。ああ、なるほど、とそれですべてが解決した。religiously unkindーーきちんと不親切ーーということは、つまり何もかもが規則正しく、きちんと為されていて、心がこもっていない様を意味している。

では何が「きちんと不親切(前記事の訳では、決まって不親切とした)」なのか。それは前2行に出てくるthe sunとthe milk float(牛乳配達車)だ。太陽や牛乳配達車は規則正しく、決まった時間に現れては、いつも通りの一日をスタートさせる。そんな味気ない、unkindな「日常」にあなたの個性や心を潰させないで、とボウイは歌う。だから日があける前に、いつもの毎日が始まる前に、家へと帰らなくてはならないのだ、と。

どうやらロックスターというのは日常には存在しえないものらしい。だからこそ、ロックスター=ロックンロールの自殺者という等式が成り立つ。このヴァースは正直オフィシャルの対訳を見ても何を言っているのかよくわからないが、英語の文を一つ一つ読み解くと、ロックンロールの自殺者の本質が見えてくる。という意味で、この記事には音楽タグではなく、文学タグをつけておこうと思う。

私的「救い」の歌

音楽に「救われる」という体験を挙げるとしたら、私にとってはそれは間違いなくこの歌を聴いたときなのである。「あなたは一人じゃない」。これ以上に力強い言葉を私はあまり知らない。

デヴィッド・ボウイ「ロックンロールの自殺者」
The original lyrics are from here.

時は煙草を手にとり、あなたの口に運ぶ
あなたは指をくわえ、また別の指をくわえ、やっと煙草をくわえる
部屋一面に響く音、その余韻、でもまたあなたは忘れてしまう
ああ なんという あなたはロックンロールの自殺者

失うには年老いすぎ、選ぶには若すぎる
時計はあなたの歌を忍耐強く待っている
あなたはカフェを通り過ぎるが、食事はしない あなたは長く生きすぎたから
ああ あなたはロックンロールの自殺者

よろめきながら道を渡ると、シボレーのブレーキが唸りを上げる
でも日が明けようとしているから、あなたは家路を急ぐ
太陽にあなたの影を枯らさせないで
牛乳配達車に心を乗っ取られないで
彼らはなんとも自然ーー決まって不親切


ああ愛する人よ!あなたは一人じゃない!
あなたは自分自身を見つめているけれど、それは真っ当じゃない
あなたの頭はめちゃくちゃに混乱しているけれど、僕が君に気づかせてやれれば
ああ愛する人よ!あなたは一人じゃないんだ!
あなたがなんであろうと、誰であろうと
いつ、どこにいようとも
ナイフがよってたかってあなたの脳を切り裂くかのようだ
僕にもそんなことがあった
その痛みを分かち合うことができるから
あなたは一人じゃないんだ!

さあ僕と一緒に、あなたは一人じゃないんだ
僕と一緒にはじめよう、あなたは一人じゃないんだ(すばらしい)
さあ手をだして、だってあなたは素晴らしいんだ(すばらしい)
手を差し出して、あなたは素晴らしい(すばらしい)
さあ手を差し出して

David Bowie, “Rock 'N' Roll Suicide”.
(拙訳)

『キングスマン』/わが愛しのマシュー・ヴォーンと、『ワールズ・エンド』、G・K・チェスタトン、そしてアーサー王

大好きなマシュー・ヴォーン監督の『キングスマン』をやっとこさ見に行った。以下ややネタバレ注意というか、私のとりとめない妄言と脱線がかなりひどい。

キック・アス』で「子どものファンタジーが大人のリアルを食い殺す瞬間をこそ撮りたいのだ」と宣言したかのようだったヴォーンの嗜好あるいは志向がいよいよ高次元で実を結んだ、そんな映画であるように思えて、なんというか見ていてとにかく嬉しくなった。映画館に行くどころか、映画を見ることさえちょっと久々になっていて、観賞前は無駄にソワソワしていたのだけれど、そんな居心地の悪さとか緊張とかすべて吹き飛ばして、映画の楽しさとは何たるかを一瞬にして蘇らせてくれた素晴らしい映画体験になった。

リアルとファンタジーーーこの二者の線引きと混在をマシュー・ヴォーンは非常に意識的に行っている。『キック・アス』の冒頭、ヒーローを夢見た青年がビルの屋上から真っ逆さまに墜落する様は、この世界が魔法も特殊能力も存在しない「現実」であることを見せつけている。にもかかわらず等身大ヒーローであるはずの主人公デイヴはあまりにも身軽に日常と非日常の壁を越え、無垢で無神経な想像力がヒット・ガールとなって駆け巡る「虚構」の世界に観客を引き込んでいく。結局「虚構」でのデイヴの行いに対して「現実」側からの罰はなく、「現実」は最終的に影を潜める*1。それは近年のリアル志向・シリアス志向のヒーロー映画のトレンドを確信犯的に利用した、ほとんど「等身大ヒーロー映画」の皮をかぶったカルトムービーだった。

キングスマン』でもヴォーンは同じようなことをしているが、その切れ味は『キック・アス』よりも鋭くなっている。コリン・ファース演じるエージェントのハリーとサミュエル・L・ジャクソン演じるヴィランのヴァレンタインがスパイ映画について語らう場面。「最近のスパイ映画はシリアスすぎてあんまり好きじゃないね」と明言させている通り、本作はヒーロー映画同様シリアス&リアル路線を強めているスパイ映画に対する批評になっている。また同時にスパイ映画へのラブレターでもある。「最近のスパイムービーはあーだこーだ」とのたまい、「これは映画じゃない、現実だ」などと嘯きながら(いったいどの口でこんなことが言えるんだろうか)、誰よりも荒唐無稽なスパイ映画愛を迸らせているのは他ならぬマシュー・ヴォーンだ。魅力的なガジェットの数々、教会での激しく、それでいて明快なアクション、謎の義足の女とのラストバトルーーまさに「俺ならこう撮る」007。「リアルのふりをして全力でフィクションをやる」というのは『キック・アス』でも同じだけれど、さらに一歩先をいって21世紀型スパイ映画のオルタナティヴを提示してみせた点は、ヒーロー映画としての着地点をやや見失っていた『キック・アス』にはなかったものだ。

キングスマン』では『キック・アス』以上に人の命が簡単に吹き飛んでいく。けれども『キック・アス』よりも一本筋が通っているように思えるのは、実際物語の核に一本筋が通っているからである。本作のコアにあるのはおそらくワーキングクラスの誇りや階級社会への批判というよりも、「リーダー面して俺たちを枠にはめようとしたり、世界を牛耳ろうとしたりする奴らは全員消え失せろ」という英国的な抵抗の精神だと思う。ヴァレンタインが全世界に配布する無料のSIMカード。確かに世界中のどこでも無料で誰かとコミュニケートできるのはこの上なく便利だが、世界が一つになるというのは恐ろしいことでもある。「いつでも、どこでも、誰とでも」を可能にするグローバル社会。で、結局それを仕切ってるのって一部の人間でしょ?凸凹な個性を平らにし、人の生き方を「真っ直ぐに」しようとする「画一化」に対する嫌悪感が確かに『キングスマン』には嗅ぎとれる。

これと同じ感覚を共有するのが、エドガー・ライトの『ワールズ・エンド』だ。こちらのほうがより反グローバリズムの姿勢を色濃く感じる。どこへ行っても同じような店、同じような人。これのいったいどこが楽しいんだと嘆きながら、サイモン・ペグ演じるゲイリーは真っ向から「俺たちの生き方」を勝手に規定しようとするものに抵抗する。呑んだくれて、騒いで、失敗してーーでもそれが人生、指図するなよ、と。上から定められた生き方を甘んじて受け入れるような真似は、彼らは絶対にしないのである。『キングスマン』を見てまず想起したのは『ワールズ・エンド』であり、また『ワールズ・エンド』を見てまず想起したのはG・K・チェスタトンのこの詩だった。

「うねるイングランドの道」

ローマ人がライにやって来る前、セヴァーン川まで迫る前に
よろけたイングランドの呑んだくれは、うねるイングランドの道を創った
ぐねぐねした道、うねった道 あてもなく邦をさまよう
奴の後に牧師が続き、寺男や地主が続いた
陽気な道、入り組んだ道、それはまるで僕たちが通ったような道だ
ビーチー・ヘッドを経てバーミンガムまで行った夜に

ボナパルトと軍勢には害はないと思っていた
それにフランス人と戦いたくはなかった
しかし僕は彼らの武具を打った なぜなら奴らは軍勢をなして
イングランドの呑んだくれが創った曲がりくねった道を真っ直ぐにしようとしたからだ
それは君と僕がエールのカップを手に通った道だ
グッドウィン・サンズを経由してグラストンベリーまで行った夜に

彼の罪は赦される そうでなければどうして花が咲くだろう
彼の後ろに またどうして生垣がどれも日を浴びて力を増しているのだろう
荒々しいものが左から右へと過ぎ、何が何だかわからなくなる
しかし、どぶで彼が見つかったとき、その頭上には野ばらが咲いていた
神よ赦したまえ、無情にはせずに 僕らの視界ははっきりしていなかった
ブライトン・ピアを通ってバノックバーンまで行った夜には

友よ、もうあんなことをしたり、昔の激しさを真似たりはしない
若気の至りを世代の恥にはしないように
澄んだ目と耳でこのさまよえる道を歩き
酩酊することなく、宵の光の中にやさしい死の宿を見るのだ
なぜならまだ聞くべき良き報せが、見るべき良きものがあるのだから
ケンセル・グリーンを通って天国(paradise)へ行くまでに
(拙訳)


G. K. Chesterton, ‘The Rolling English Road’
http://www.poetryfoundation.org/poem/177820

第2連、「ナポレオンと戦いたかったわけじゃないが、奴らが俺たちの'曲がった'道を'真っ直ぐに'しようとするのが許せなかった」という部分はまさに『ワールズ・エンド』に込められたメッセージそのものだ。

この詩は当時(20世紀頭)イギリスで起こっていた禁酒運動に反対するものとして書かれた滑稽詩の一種である。チェスタトンはここで無邪気に「酒はいいもんだ!」と言っているわけではない。第3連のしょうもなさには笑ってしまう。この連で言っているのは、つまり「酔いつぶれて右も左もわからない状態になって、翌朝どぶで発見される呑んだくれ」のこと。しかしチェスタトンは酔っ払いのしょうもなさを面白おかしく書きながら、同時に「それでも呑んだくれの背後には綺麗な野ばらが咲いているじゃないか。これもまた人生、神はきっと許してくれる」と言っているのである。そしてよろけて曲がりくねった生き方こそ「イングランド的」だと評している。

キングスマン』からだいぶ逸れてしまったが、映画の本質からはそう遠くない話をしていると思う。『キングスマン』の核にあるのも、歪な人間を真っ直ぐにしようとする輩への反骨ではないか。私はどうしてもこれを「英国的な精神」と表現したくなる。

キングスマン』と『ワールズ・エンド』はともにアーサー王伝説を映画のエッセンスとして利用している。アーサー王伝説の受容と発展には、侵略と征服が繰り返されてきたブリテン島の歴史が大きく絡んでいる。民族間の支配/被支配関係が複雑に変化するなかで、アーサー王(と円卓の騎士)はブリテン島における被支配民族の抵抗のアイコンにもなった。アーサー王、『キングスマン』、『ワールズ・エンド』、‘The Rolling English Road’ーーなんとなくこれらすべてに相通じる精神が存在するような、そんな気がしてしまうのは、私が「英国的な何か」に取り憑かれているからだろうか。

*1:前半に「ヒーローごっこをして刺される」という罰を受けてましたね。でも最後の彼の行動に対して「現実」の反動はありませんでした

もう一つ

スティーヴィー・スミスを。シルヴィア・プラスもスミスが好きだったようだ。

Stevie Smith, ‘Not Waving but Drowning’

Nobody heard him, the dead man,
But still he lay moaning:
I was much further out than you thought
And not waving but drowning.

Poor chap, he always loved larking
And now he’s dead
It must have been too cold for him his heart gave way,
They said.

Oh, no no no, it was too cold always
(Still the dead one lay moaning)
I was much too far out all my life
And not waving but drowning.

スティーヴィー・スミス「手を振っていたんじゃない、溺れていたんだ」(拙訳)

誰も彼に、その死者に耳を貸さなかった、
でも彼はまだ横たわって呻いていた
僕は君らが思っているよりずっと遠くにいたんだ
そして手を振っていたんじゃない、溺れていたんだ。

かわいそうなやつ、あいつはいつもふざけるのが好きだった
それが今や死んでしまった
彼には冷たすぎたに違いない、彼の心臓は破裂してしまった
そう彼らは言った。

ああ、違う、そうじゃない、いつだって冷たすぎたんだ
(死者はまだ横たわって呻いていた)
僕はこの人生ずっと、はるか遠くにいたんだ
そして手を振っていたんじゃない、溺れていたんだ。

ただのワガママとも言うが

スティーヴィー・スミスの魅力が少しわかってきたかな。

Stevie Smith, ‘In My Dreams’

In my dreams I am always saying goodbye and riding away,
Whither and why I know not nor do I care.
And the parting is sweet and the parting over is sweeter,
And sweetest of all is the night and the rushing air.

In my dreams they are always waving their hands and saying goodbye,
And they give me the stirrup cup and I smile as I drink,
I am glad the journey is set, I am glad I am going,
I am glad, I am glad, that my friends don't know what I think.

スティーヴィー・スミス「夢の中で」(拙訳)

夢の中で、わたしはいつもさよならを言い、馬に乗って走り去っていく、
どこへ行くか、なぜ行くかはわからないし気にもしていない。
別れは甘美で、別れを繰り返すことはもっと甘美、
そして何よりも甘美なのは夜と慌ただしい空気。

夢の中で、彼らはいつも手を振り、さよならを言う、
彼らはわたしに別れの杯をくれ、わたしはそれを飲んで微笑んでいる、
わたしは嬉しい、旅が始まることが わたしは嬉しい、出発することが
わたしは嬉しい、嬉しいんだ わたしが何を考えているか友が知らないことが。

それなりの仕事はあるけど、キャリアじゃない/Lily Allen, “22”

http://youtube.com/watch?v=tWjNFC-FinU

歌詞は毎度おなじみgeniusさん

彼女が22歳のとき、未来は輝いて見えた
でも30歳が近づいた今、彼女は毎晩夜遊びに出る
彼女の顔に、瞳に、そんな表情が浮かんでる
彼女はわたしがどうやって、なぜここへ来たのか考えあぐねてる

悲しいけど、これが現実
社会が彼女の人生はもう終わったと言っている
するべきことも、言うべきこともない
夢の男性が現れて、彼女を拾い上げて、担いでくれるまで
でもこの時代、そんなこと起こりそうにないみたい

それなりの仕事はあるけど、キャリアじゃない
そのことを考えると、いつも涙がこぼれる
彼女は恋人がほしいのに
一夜限りの関係ばかり
彼女はわたしがどうやってここへ来たのか考えてる
わたしは自分にできることをやってるだけ

悲しいけど、これが現実
社会が彼女の人生はもう終わったと言っている
するべきことも、言うべきこともない
夢の男性が現れて、彼女を拾い上げて、担いでくれるまで
でもこの時代、そんなこと起こりそうにないみたい

22歳という年齢に特別な意味を見出そうとしてしまうのは、きっとこの曲のせいもあるだろう。でも実際ここがターニングポイントなんだろうと思う。