Warsan Shire, 'Backwards'(2017年7月①)

人生が過去から現在未来へと無情に流れていく時間の堆積である以上、いかに時に抗うかは常に詩人の命題の一つであり続けるだろう、というような話を再び。

ワーザン・シャイア「後ろ向きに」


サーイド・シャイアへ

後ろ向きに部屋へと歩いてくる彼の姿で詩を始めてみよう。
彼はジャケットを脱ぎ、そこに生涯腰を落ち着ける、
こうやってわたしたちはパパを取り戻そう。
わたしは出た鼻血を戻すこともできる、蟻が巣穴に駆け込むみたいに。
わたしたちの体は小さくなり、わたしの胸は消え、
頬は柔らかくなって、歯はまたガムを噛む。
(今度は)わたしたちを愛される存在にできる、ただ望みを言葉にして。
彼らが一度でも同意なしにわたしたちに触れたなら、手を切り落としてしまおう、
わたしは詩を書いて、消し去ってしまえるんだから。
義理の父さんは酒をグラスに吐き戻し、
ママの体は階段を転がり上がって、骨は正常な位置に戻る
ママはたぶん赤ちゃんを産む。
わたしたちもたぶん大丈夫だよね?
わたしはこの人生を丸ごと書き直して、今度は愛に溢れたものにする
その先は見越せない。

その向こうは見越せない、
わたしはこの人生を丸ごと書き直して、今度は愛に溢れたものにする。
たぶんわたしたちは大丈夫。
たぶん彼女は赤ちゃんを産む。
ママの体は階段を転がり上がって、骨は正常な位置に戻り、
義理の父さんは酒をグラスに吐き戻す。
わたしは詩を書いて、消し去ってしまえるんだ
一度でも同意なしにわたしたちに触れたなら手を切り落としてしまおう、
わたしたちは愛される存在になれる、ただ望みを言葉にして。
頬や柔らかくなり、歯はまたガムを噛み
わたしたちの体は小さくなって、わたしの胸は消えていく。
出た鼻血を戻すことだってできる、蟻が巣穴に駆け込むみたいに
そうやってわたしたちはパパを取り戻す。
彼はジャケットを脱いで、そこに生涯腰を落ち着ける。
後ろ向きに部屋へ歩いてくる彼の姿でこの詩を始めてみよう。


拙訳
Texts from here
Backwards by Warsan Shire | Poetry Foundation


ワーザン・シャイア(Warsan Shire)といえば、ビヨンセのヴィジュアル・アルバム Lemonadeでその詩がフィーチャーされたことで有名な、イギリス国籍のソマリ人詩人。わたしにとっては読みたいなーと思いつつも積んでしまっている詩人の一人で、他に読んだことがあるのは難民として祖国を離れざるを得なくなることについて書かれた'Home'や女性性を扱った'For Women Who Are Difficult to Love'、'The House'など。どれも力強く痛切な、この時代の詩。


今回和訳してみた'Backwards'はワーザンの兄弟サーイドに捧げられていて*1、ここに出てくるweはこのきょうだい二人を指している。

that's how we bring Dad back

そうやってわたしたちはパパを取り戻す

どうやらこれは家を出ていった二人の父を取り戻さんとする詩らしい。では「そうやって」とはどうやってだろうか。


タイトル'Backwards'が指し示す通り、ワーザンは時を「後ろ向きに」動かすことで、失われた父を呼び戻し、人生を語り直そうとする。父が家を出ていく様子を巻き戻すところからこの詩は始まり、現実には帰ってくることのなかった父はかわりに一生家に留まる。そこから続く第一連、ワーザンはこれまでの記憶・経験をなぞりながら、わたしは過去を書き換えられるんだと繰り返す。

I can write the poem and make it disappear

わたしは詩を書いて(過去の出来事を詩にして)、それを消し去ってしまえる

I'll rewrite this whole life

わたしはこの人生を丸ごと書き直す

父が出ていったことも、義父が酒に酔って家族に暴力を振るったことも、そのせいなのか、母がお腹の赤ん坊を喪ったことも、ワーザンはすべてなかったことにして、まるで違う人生の物語を語ることができる、という。とはいえ、この第一連では彼女はまだ時系列に沿って過去を綴っている点に注目してほしい。父が出ていき、義父がやってきて、酒に酔い、暴力を振るい、母は胎児を喪う、というふうに、個々の出来事は過去から現在への流れに従って配置されている。

しかし"you won't be able to see beyond it"の一節で詩は突如折り返し、今度は現在から過去に向かって記憶をなぞり返していく。これまでダフィ*2や『メッセージ』*3についての記事で、英語は時制のルールに則り、過去→現在という線軌道を描く言語だと書いてきたけれど、では一度書かれた言葉をそのままひっくり返してみたら、もしかして言葉はその軌跡を逆走することができるのではないか?

この「巻き戻し」の演出は映画などの映像表現ではよく見るし、たとえば『メメント』なんかを具体例として想起する人も多いと思う。この詩でやっていることといえば、単にここまで書かれたことをそのまま遡るという至極シンプルなもので、『メメント』のような複雑さはない。けれども、この小さなアイディア一つで、ワーザンは時間を巡る言葉の不可能性にブレイクスルーを見出そうとしている。「わたしは過去を語り直す」と言いつつも時系列通りの語りをする第一連は、実はそれを丸ごとひっくり返してしまう第二連のために周到に用意されたもの。おそらくこういった構成をとったのは、言葉は一方通行の時の流れに忠実であることを踏まえているからだと思う。一度語られた言葉は先に語られたことから順に過去になっていく--のであれば、それを逆さまにしてしまえば言葉は過去に向かって遡上していくはず。この詩のアイディアはまさにそれだ。


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自分で書いていてよくわからなくなってきたし、なんだか詩の魅力を殺しそうなのでそろそろ閉じようかと思ったんだけど、一点読んでいて気になったところがある。折り返し地点にあたる"you won't be able to see beyond it"(その先は見越せない)というフレーズの「その先」とは何なのかということ。時の流れに沿って書かれた第一連のおわりにくるので、ふつうに考えると未来のことを言っているのかなと思うけど、どうかな。また、だとするとこの詩は言葉の不可能性に挑戦しつつ、それを突きつけてもきている。

結びのフレーズは当然一行目と同じなので、この詩は過去→現在→過去という円環軌道を描き、最後はまた始まりと同じ地点に戻る。そして「未来は見越せない」のであれば、詩は永遠に父が出ていってから現在までの記憶をぐるぐる巡ることになる。ここで示される言葉の力は過去を語り直す力であって、未来を拓く力にはなり得ない。それは語り手自身が未来よりも過去を見、父が出ていったときの記憶にある種囚われていることと不可分でもある。そうやって読んでいくと、人生を語り直して今度は愛に溢れたものにすると一見前を向いているようなこの詩が、実は心理的な面でもいくぶん「後ろ向き」であることがわかる。

しかし、このブログでは繰り返し言っている通り、「言葉は想像力の可能性と希望を示してくれるのに、同時に人間の限界と無力を突きつけてもくる」けれど「そんな言葉の不可能性を指摘することも言葉によってしかなされない」のだ。可能性と不可能性、希望と絶望/失望は常に混在している。あるところに突破口が見出せても、その先はまた袋小路かもしれない。でもそんな人生のままならなさにああでもないこうでもないと格闘する姿こそ、わたしが詩に求めるものなのだと思う。