記事翻訳「リナ・サワヤマ、自身のパンセクシュアリティを表現する準備はできている」

Zing Tsjeng, "Singer Rina Sawayama Is Ready to Rep Her Pansexuality", Broadly


リナ・サワヤマちゃんの最新シングルはこちらから!今回も最高にギラギラしたシュガーポップでとにかく最高です(語彙力)。
Rina Sawayama - Cherry

以下記事はキャプションを除く本文のみ翻訳しました。文中のリンクは反映しておりません。

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ニューシングル"Cherry"のリリースに際して、イギリス-日本の注目ポップシンガーが(セクシュアリティをめぐる)羞恥、カミングアウト、そしてアジア系クィアの可視化を重要視する理由を初めて語った。

ロイヤル・ボクスホール・タバーン(Royal Vauxhall Tavern, RVT)でリナ・サワヤマ(Rina Sawayama)に会ったとき、ロンドンは1976年以来の長引く熱波で茹っていた。気温はほぼ90°Fに達し、150年の歴史を持つそのパブ(ダイアナ妃が男装してフレディ・マーキュリーと踊りにきたことで知られる、ロンドンの最も歴史あるLGBTQヴェニューの一つ)は、涙目になってしまうほどの猛烈な日差しを浴びていた。

会ってみて、サワヤマ(訳注:原文ではイギリス-日本のR&Bポップシンガー)側がインタビューの場所にRVTを提案した理由がよくわかった。ニューシングル"Cherry"のリリースを控えていたときだが、彼女は別のこと、自身のパンセクシュアリティについて語ろうとしていたからだ。

「自分の経験について常に正直でいたい」と、幸いにも涼しかったパブの一角に無事身を落ち着けたところで、彼女はきっぱり言った。

『ヴォーグ』(Vogue)、『ガーディアン』(Guardian)、『FADER』(The Fader)、そしてNoiseyなどの寵愛を受け、サワヤマはまずオレンジ色の髪に、サイバーパンク風の雰囲気を持つミュージシャン/モデルとしてシーンに登場した。"Cyber Stockholm Syndrome"や"Where U Are"といった曲はこのインターネット中心の社会におけるロマンスと孤立を探究し、批評家の賞賛を得た。デビュー・ミニアルバムRINAの一曲"Tunnel Vision"では、「あなたが悲しく孤独なのは知ってる/でも100個ものタブが/わたしの心の内には開かれている(ビジネスはお断りだけど)/あなたに気づいてもらえるように*1」と囁くように歌い、ピッチフォーク(Pitchfork)はこのアルバムを2017年のベストポップ/R&Bアルバム20の一枚に選んでいる。

最新シングルは、ガツンとエモーショナルなパンチのある後味を添えた、目眩のするようなコンフェッショナル・ポップ*2の高揚とでも評すべきだろうか。多幸感あるシンセの煌めきにのって、「地下鉄を降りていくと/あなたがこっちを見てる/女の子の視線/その日/何もかもが変わった*3」とサワヤマは歌う。しかし彼女の曲の多くと同様に、ビタースイートなつかみ(マックス・マーティンが嫉妬して泣くくらいにキャッチーなフックだが)もある。"Cherry"の歌い手はクィアな欲求の高揚を感じつつ、羞恥心にも見舞われている。「満足はしているけれど/わたしの人生は/偽りのうち/感情にしがみつく/感じることに慣れてない/だって生きているって実感させられるから。*4

「90年代後半の音楽様式が大好きだし、メロディーも大好き。でも当時って露骨に【わたしとこの男の子、ああ彼にフラれた】っていうかんじでしょ?」とサワヤマは言う。「だからちょっとポリティカルにしてみたらどうだろう?って。こんなふうにカモフラージュするのが好きで。」彼女はゆっくり、思慮を巡らせながら炭酸水を一口含んだ。「間違いなくこの"Cherry"はわたしにとって最もパーソナルかつポリティカルな曲。」

サワヤマは以前はバイセクシャルを自称していたが、現在では自身をパンセクシュアルと見なしている。記録に残る形ではセクシュアリティについて語ってこなかったが、彼女は自分の曲を聴いていれば誰にでもそれは明白ではないかと考えている。「いつも女の子についての曲を書いてきたから。自分の曲の中で男の子について触れたことってない気がするし、だからそれについて話したかった。」

ではなぜ今語るのか?ポップ・ミュージックの歴史では長きにわたり女性スターたちがカミングアウトを伴わずに女と女の関係を綴った曲をリリースしてきた。例えばケイティ・ペリーKaty Perry)の"I Kissed a Girl"や、リタ・オラ(Rita Ora)、チャーリーXCX(Charli XCX)、ビービー・レクサ(Bebe Rexha)、カーディB(Cardi B)という4人のシンガーをフィーチャーし、最近賛否を呼んだ"Girls"などがある(4人のうち一人(オラ)だけはのちにバイセクシャルだと明らかにされた)。サワヤマはパンセクシュアリティに触れずともシングルをリリースできたが、彼女はこれを自身のアイデンティティを議論する機会としたかった。

「わたしからすると、まだまだリプレゼンテーションが十分じゃない」とサワヤマは言う。「わたしが自分のセクシュアリティについて居心地悪く感じていたのは、テレビにもどこにも、指差して『ママ見て!これがわたしの言ってた人!』と言えるような人がいなかったからだと思う。」

彼女の声は落ち着き、さらに思慮深くなった。「クィアとして自己認識できることは素晴らしいと本当に思っているけど、現実的には、今でもすごく恥ずかしさを感じるーー親とか、過去の経験とかから。」例えばどんな?彼女は「恥の瞬間」と称するものの最初期の例を挙げてくれた。

「8才か9才のとき、ある女の子と一緒にいて。わたしたちは、平たく言うと、キスをしていた。」彼女の母親がそれに気づき、彼女を引き剥がした、とサワヤマは言う。「母とこれまでそのことについて話したことはない、一度も。」時が経ち、女の子とデートしていると母親に言ったときは「どうしてそれをわたしに話すの?」と返されたという。

「『男の子とデートするんだ』なんて言えば、『あらいいじゃない、どんな人?』ってかんじなのに」とサワヤマは詳しく話す。彼女は日本で生まれ、5才のときに家族と緑深いロンドン北西部に移住してきた。「両親はお金を巡ってしょっちゅう喧嘩していた」と彼女は思い返す。サワヤマが10代のとき二人は離婚した。「かなりいい暮らしから、全然よくない暮らしに転じた。15才まで母と一つの部屋をシェアしてたから。」サワヤマの母はインテリアデザイナーとして自身の事業を興し、非常に厳しい職業観を持っていたという。「午後10時に寝て、午前2時に起きて一日中働いてた。」

両親の別れによるストレスはサワヤマを読書へと向かわせた。「とにかく超オタクになった」と彼女は言う。「本による自助だよね。」彼女はケンブリッジ政治学・心理学・社会学を学んだが、大学社交クラブのポッシュな女の子集団からのいじめをほぼ絶えず受け、「自殺したいほどの抑うつ」に陥った。

「在学中はずっと、自分が誰よりも醜いやつだと感じてた」とサワヤマは大学について語る。「とにかく醜くて、とにかくーー性的な意味じゃなくーー望まれてないと感じてた。本来そこにいるはずじゃないっていうかんじ。いていいはずなのに、まるで自分が数字みたいだった。」

ケンブリッジといえばエスニシティと階級の双方において多様性に欠くことで悪名高い。新しいデータでは、同大学の5つに1つのカレッジで2012〜16年の間に受け入れた黒人学生は10人を下回っている。60%を超える学生が白人のイギリス人で、その多くが(もちろん全員ではないが)イギリスの上流私立校から選り抜かれている。「ずっと『あれが知の頂点、ケンブリッジだ』と言われ続けて」サワヤマはこう続ける。「実際辿り着いたら、『わあ、なんて荒涼としてるんだろう』っていうかんじ。」

しかし憂うつの中にありながら、彼女はどうにか地域のLGBTQヴェニューの一つ、カウ(the Cow)で自由を見出した。「いつもカウにいた」と彼女は言う。「ケンブリッジはある意味ではわたしを変革させた。あれがわたしが初めて通うようになって、とても居心地よく感じたゲイナイト(イベント)だったから。」サワヤマはクィアな友人たちと小さなサークルを作った。「わたしたちはみんな大学で辛い時を過ごし、隅に追いやられていた。」親友のトム・ラスムッセン(Tom Rasmussen)は、のちにエディンバラ・フリンジを圧巻したドラァグ一座に発展したデニム(Denim)というドラァグ・イベントの共同創始者になっている。

サワヤマは現在男性と付き合っており、 異性愛関係にある状態でパンセクシュアルであると公表することがもたらす影響についてじっくり注意深く考えてきた。しかし、だからこそ彼女は"Cherry"を書きたかったのだ。「多くのバイやパンセクシュアルの人が異性愛関係にあるとき自分は真にクィアじゃないと感じていて、この曲はそのことについて歌ってる。」

今でもストレートを装った*5関係にあるLGBTQの人はパレードに来るべきではない、あるいはまったくもってクィアな空間にいるべきではないと主張する声は大きい。しかしSlateのライター、ダナ・シタール(Dana Sitar)が指摘するように、「わたしのパートナー抜きでしかわたしを受け入れないというクィアな空間はわたしのすべてを受け入れてくれていない。それは男性を腕に抱いている限りはわたしのクィアネスをまるで無視するほかの世界となんら変わりない。わたしはやっと自由にゲイでいられるーーほんとうのわたしを犠牲にすれば。」

サワヤマはすかさず彼女が経験してきたバイフォビアはホモフォビアやほかの身体的暴力をもたらす差別とは異なると強調した。ときには自分自身が最悪の敵になるのだ。「本当のことを言うと、このシングルを出してカムアウトすることにものすごく神経を悩ませた」と彼女はためらいがちに話した。「つまり、バイフォビアは真にわたしの内にある。なんでこんなことしてるの?いいじゃない、こんなことしなくても…というかんじで。でもいや、わたしはこの話をしなきゃ。わたし自身を表に出して、心配しなくていいんだって。だってたくさんの人がこういう感情を経験してるんだから。

サワヤマがプレッシャーを感じるのはもっともだ。西洋のポップ音楽界に身を置く日本-イギリス女性として、彼女は非常に明確な、独自の路線を切り開いている。00年代前半のR&Bシンガー、ココ・リー(Coco Lee、"Do You Want My Love"で有名)以外に、このジャンルで継続的な名声や成功を収めた東アジア系女性はほとんどいない。母国韓国ではKポップのスーパースターであるCLのようなシンガーさえアメリカ進出には苦戦してきた。

しかし潮目はゆっくりと変わってきているようだ。ミツキ(Mitski)、ヘイリー・キヨコ(Hayley Kiyoko)、イージ(Yaeji)といった新進のミュージシャンたちは皆異なるジャンル(それぞれインディー・ロック、堂々たるスタジアム・ポップ、ハウス)で活動しているが、若くマルチカルチュラルな感性を持った世代のファンに支持されている。

私たちの面会がCrazy Rich Asians(ほかと表記を揃えるなら邦題『クレイジー・リッチ!』を先に持ってくるべきですが。理由はみんなわかるはず)のプレミアの2週間前だったのも意義がある。

「この前イージと遊んで、この話をした」とサワヤマはアジア系、より具体的に言えばクィア-アジア系音楽のニューウェーブについて語った。「わたしたちは自分たちの空間をすごく守ってる。誰と契約するか、誰を通してリリースするか、誰と仕事をするかまで。わたしたちにとっては本当に重要なことだから。クィアなアジア系としては、わたしたちのような人は多くないし、正しくやり遂げたい。」

彼女のファン層、あるいはその言い方に倣うならピクセル(Pixels)の多くは、クィアかつ/またはアジア系であり、カムアウトすると決断したときサワヤマは当然ファンのことを考慮に入れた。「わたしは自分をストレートウォッシュ(非クィア化と仮訳してみる)*6してアジア系と称したくない。単に"アジア系"ではなくて、クィア-アジア系を表象していることがわたしには重要。そうでなければわたしのある一面がごっそり剥ぎ取られてしまうから。」インスタグラムのいいねからシタロプラムの処方箋まであらゆることを歌うなかで、このことに触れることはこれまでなかった。

「ポップ・ミュージックで世界をクィアにしていくことができると思う」とサワヤマはつけ加える。「トロイ・シヴァン(Troye Sivan)とかヘイリー・キヨコとかカムアウトした最高のミュージシャンたちがいるでしょ。それが集合的な力になって、クィアネスをメインストリームに浸透させていけると思う。地中深くに埋められてしまうんじゃなくてね。」

いまやサワヤマがその列に肩を並べていることを思えば、それは長くはかからないと私は思う。


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ということで、とてもいいインタビュー記事だったので曲と合わせて紹介したく翻訳してみました。歌詞も訳してみようかと思ったけど意外とこっちのが難しい。。"Cherry"はセクシュアリティについての曲なんだけれど、同時に非常に日本的・日本オンリーなアイディアであるところの「桜ソング」「桜モチーフ」へのパロディにもなっているように感じます。リリースに際して、リナ氏はinstagramで自身のことをa queer jaPANese cherry blossomと称していて、つまりこれはクィアな桜ソングでもあるのかななんて。

翻訳は最後のほうかなり自信がなく、かつLGBTQ関連の用語は訳をあてるのが難しかったので、誰かもっとわかる人がいたらご教授願いたい。。まあでもわたしの訳の質はさておき、偶然にも今日はリナ氏の誕生日だそうなので、みんな"Cherry"を聴いてお祝いしましょう🍒

*1:I know you're sad and lonely / But I got one hundred tabs / Open in my mind but closed for business / Just so you're aware

*2:原文confessional pop。confessional poetry(告白詩)と同じような意味合いの言葉かなとは思うが、コンセンサスのとれた定訳はあるのかしら?

*3:Down the subway / You looked my way / With your girl gaze / That was the day / Everything changed

*4:Even though I’m satisfied / I live my life / Within a lie / Holding on to feelings / I’m not used to feeling / Cos ooh they make me feel alive.

*5:原文straight-passing。passingは人種の話題でも登場する日本語にしづらい概念である。社会的な承認を得る、"パス"するための行為。これも日本語の定訳ってあるのだろうか?

*6:原文straightwashも日本語にしづらい。。whitewashと同構造の語。straight-passingにも近い?

『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』/ コートでは誰でもひとり ひとりきり

このタイトルが書きたくて久々にブログ記事を立てたようなものです。つまり出落ちだし、中身はあまりない。
(ネタバレ?というか、試合結果には触れていますので、一応ご注意ください。)



そう本来コートに立てば、男か女かは関係なく、誰しもがひとりひとり、一人間、一選手と対面するのであって、その目の前にいる選手に向き合い、勝ることがテニスマッチ(に限らないが)の目的であるはずだ。

1973年に行われたビリー・ジーン・キングとボビー・リッグスのエキシビションマッチは"Battle of the Sexes" = 男と女の一大バトルと銘打たれ、そのままこの映画のタイトルになっている。けれども劇中、実際の二者の対戦はメディアで煽られたような二つの性の争いではなく、「たまたま女だったテニス選手*1」と「たまたま男だったテニス選手」の1on1の白熱した闘いとして描き出される。着実にやるべきことを積み重ねてボビーを追い込んでいくビリー・ジーン。勝負を仕掛けて状況を打開していこうとするボビー。それでもビリー・ジーンが上回っていく。手詰まりになるボビー。マッチポイントへーー。コート上の駆け引きや試合展開をダイジェスト形式ながらうまく掴んでいて、単純にテニスマッチの描き方がおもしろい。

よく女性の活躍推進なんたらとかで、「女性の声をもっと社会に採り入れるべきだ、女性的な細やかさや感性が必要だ」という言い方がされる。これはまたちゃんちゃらおかしな話で、女性が活躍する、優秀な働きをするのは、「女性である」からでも、「女性的な感性」のおかげでもなく、その人が優秀な個人であったり、十分な努力をしたからだ。同様にビリー・ジーンがボビーに勝ったのは「女性らしさ」のためではない。ろくに練習せずパーティーとメディア露出三昧だったボビーに対して、ビリー・ジーンは露出を控え、途中体調を崩しながらもリカバリーとトレーニングに集中して試合に備えたから。試合になれば、それまでの蓄積や備えが露わになる。そこに性差はあまり関係ない。にもかかわらず、1970年代初頭、女子選手が獲得する賞金は男子のたった1/8だった。"Battle of the Sexes"はこの格差がどれほど道理の通らないことかを雄弁に語る、世界への異議申し立てだったのだ、とこの映画を見て思う。


男子選手が女子の8倍の賞金を得ることについて、劇中ジャック・クレーマーは「男には養うべき家族がいるから」と説明する。家父長制と資本主義が問題の根源にある。またかつて男子トップクラスの選手だったボビー・リッグスは「シニアは稼げない」と言い、日中は妻プリシラの父の会社で時間を持て余し、ギャンブルでロールスロイスを手に入れる(プリシラに隠しているから乗れないけど)。彼がギャンブル中毒である背景は劇中で語られないし、専門家でもないわたしがあまり分析などするべきでもないが、稼ぐことが男性/夫/父の役割・尊厳・価値として刷り込まれた社会で、その稼ぐ手段を失うことがどれほどのインパクトを持つか、というのは考慮に入れておくべきことのように思う。またシニアになると途端に稼げないのであれば、それはエイジズムにも繋がる問題であるよね。

というように、昨今の米産エンタメでは当たり前になりつつあるのかもしれないけれど、この映画が扱う問題はセクシズムだけじゃない、というかあらゆる問題が関与しあってレイヤーを成しているというインターセクショナルな考えが行き届いている。またそれらが物語を動かすキャラクターの血肉になっている。

スティーブ・カレルによる笑いと哀しみのバランスが絶妙なボビー・リッグスも素晴らしいけれど、エマ・ストーンのビリー・ジーンもキャリアハイの演技だと思う。ビリー・ジーンは確かに強い人なんだけれど、彼女を取り巻くあらゆる差別や障壁をなんら気にしないという図太さがあるわけじゃない。彼女はボビーやクレーマーなどが発する女性蔑視の言動一つ一つに傷つき、動揺の表情を見せる。むしろ一人の人間として傷つくからこそ、差別に対して強くノーを言っていかなきゃいけない。そういう人間としての奥行きが丁寧に作り込まれていて、エマもそれにしっかり応えている。


わたしの一番お気に入りのシーンは、ジャック・クレーマーが"Battle of the Sexes"の解説者を務めると言ってきて、それならビリー・ジーンは試合をボイコットする、というやりとりだ。よくヘイトスピーチや差別的な発言も表現の自由に含まれるはずだと言う人がいる。ここでビリー・ジーンが説明するクレーマーの解説を拒否する理由は、こういう表現の自由を取り違えた考えに対する、非常に真摯で高潔な批正になっている。

あなたは女性がほんの少しでも権利を主張するのが許せない。
だから、わたしが一点、一ゲーム獲るごとにあなたが発するだろう言葉、それが全国に発信されると考えたら。
わたしはそれを容認できない。

*1:a tennis player who happens to be a woman 夜中に突然ボビーから電話がきて「君まだフェミニストなんだろ?」と言われたのに対してビリー・ジーンが返す言葉。最高

"Japan Is a Safe Country", or Great Modern Japanese Myths

"Japan is a safe country."
Then why do we get groped
when we are just commuting by train?

"Japan is a kind country.
People welcome and treat others with generosity."
Then why do I encounter xenophobia
quite often in everyday life?

One time someone said we shouldn't accept many immigrants.
They can threaten the safety and unity of our society.

It happened at an English chat cafe.
She was there to learn English
from "foreigners" living in Japan.
I always love this joke.


"Japan has the philosophy of mottainai."
Then why do we throw away loads of Christmas cake,
ehomaki, eels, and stuff
mass-produced for seasonal events
even though everyone knows
we don't need such a lot?

"Japan is a great country."
Then why, every year, do dozens of thousands of people
kill themselves?

My Best 10 Cinema Experiences in 2017 / 2017年劇場公開映画 私的ベスト10

新作鑑賞数がとても少ないし、ちまちまNetflix限定を見ていたりするので、はてさて昨年の映画ベストはどうやって出そうかなと思っていたんですが、昨年映画館で見た作品の半券をベスト入りするかしないかで適当に仕分けしていたら、ちょうど10本ベストに選出したいものが集まったので、今回は劇場公開作に限定して私的ベスト10をご紹介しようと思います。ランキング作るのはめんどくさかったので、シンプルに鑑賞順で。

ちなみに選出の基準は、作品の完成度や自分の好みに添うかよりも、「昨年このタイミングで見て、自分の中で発見や驚きがあったかもの」なので、なかには好きだけど引っかかる点が少なくない映画もあるし、以下のコメントも作品によって長さや熱量が違うと思うけれど、それと好きの度合いに相関はあまりありません。それとネタバレはないと思うけれど、テーマに触れたり、全体を通しての考察めいたものを書いたりはするので悪しからず!

  • 『未来を花束にして』 Suffragette

邦題発表時にかなり話題になりながら、いざ公開されると意外と反応が静かだった気がする本作ですが、わたしにとっては上半期のベストでした。

20世紀初め、イギリスで起こった女性参政権運動。その指導者的存在だったパンクハーストなど有名な活動家に焦点を当てるのではなく、あくまで活動の最前線でデモの列をなして警察と衝突し、地べたを這った歩兵たちの闘争を撮ることに徹した、ゴリッゴリに硬派な映画。同時に、「街を破壊でもしなきゃ男たちは見向きもしない」と非常に好戦的な女性活動家たちを描きながら、男性の描き方もフェアなのがいい。例えば、主人公モードの夫サニーは男としての夫としての体面を保つことに囚われ、苦悩する。あるいは、活動を取り締まるスティード警部はモードに再三「お前は活動の駒でしかない」「使い捨ての歩兵だ」と忠告するのだけれど、組織(警察)のために駒となって動く点は警部も変わらず、彼のモードへの言葉はすべて彼自身に返ってくる。ここでのモードの返答のかっこよさといったらーー「歩兵であるのはあなたも同じでしょう。」彼女は自分が歩兵であることを否定はしないんだけれど、同じくそれを自覚しながら権威と秩序を保守するための駒として回収されていく警部とは対照的に、反乱の活動の駒となることを自ら選ぶ。まるで「使い捨ての存在だろうとも、何のために散るかくらい自分で選べるでしょう」と言わんばかりに。連隊を示す花をつけた帽子をはじめとする衣装も、モードを演じるキャリー・マリガンの片方の口角だけ上げる不敵な笑みも、最高にかっこよくて、とにかくかっこいい映画。(語彙力)


  • 『ムーンライト』Moonlight

皆さんそうだと思いますが、すごく公開を楽しみにしていた映画。Who are you?ではなく、Who is you?のお話。「あなたは誰?(Who are you?)」と問われれば、わたしの名前は〇〇で、仕事はあれこれで、どこそこの出身で……適当な回答を出せるけれど、「あなたとは何者?(Who is you?)」と目の前の人に尋ねられたら困ってしまう。だってそんなの、わたしもほんとにはよく知らないんだから。

見ていて真っ先に想起したのは、同じくアメリカ社会における黒人のステロタイプとそこからはみ出す(に決まっているのだが)個々人のselfを扱っている『DOPE/ドープ‼︎』。しかし、こちらが10代を主人公にしてアイデンティティの模索を描いた文字通りの青春映画だったのに対して、主人公シャロンの子供時代〜学生時代〜大人までを描いた『ムーンライト』はさらに一歩踏み込んで、「結局自分が何者かはいくつになってもわからないんだ」という結論に至っている。だから最後まで主人公シャロンを「彼はこういう人間です」とは言わない、その誠実さ・優しさ。人種のステロタイプジェンダー規範の呪縛を破ろうとする映画だけれど、じゃあ周りに押し付けられたのとは違う「本当の自分」を明確に打ちだせるのかといえばそれも違って、自分を決めるのは自分、でも自分にも自分のことはよくわからないし、突き詰めれば、よくわからないままの自分をただ生きることがどうしてこんなに難しくなってしまうのという、そんなことを描いた作品だと思う。だからこそ紛れもなくパーソナルなシャロンの物語なのに、すべての人の物語になり得る普遍性と政治性がこの映画にはある。


……っていうかですよ、子どもの頃好きになったちょっとやんちゃな幼なじみがアンドレホランドに成長してたらですよ、それはもうちょっとずるすぎると思うんだよね。


こちらはちゃんと感想を書いているので、よかったら読んでください。

人生を物語れ/『T2 トレインスポッティング』 - Who's Gonna Save a Little LOVE for Me?

月並みですが、本当にこれほど完璧な続編映画というのもないと思う。Choose life. やけっぱちな希望と絶望をないまぜにしたこのフレーズは、今「選べなかった人生」となって返ってきた。それでもどうやらまだ人生は終わらないから。あと30年どうにか生きなきゃいけないから。

その30年を生かすための力はたぶん「物語」なんだ、と答えを見出していく終盤が好き。人生は選べなかった。ならば選べなかった人生を語れ。この20年、そしてこれからの30年の語り手として彼の存在感が大きくなるとは予想していなかったけれど、一作目から彼にはその資質があったのだなあ、と振り返って思う。(上の記事を読んでね)


  • 『スウィート17モンスター』The Edge of Seventeen

2017年、映画納めは『勝手にふるえてろ』だったんだけれど、こちらの主人公ヨシカが『スウィート17モンスター』の主人公ネイディーンにちょっと似ていた。つまり、自分は世界を一歩引いたところから見渡せていると思っていて、世の中みんなくそやろうで、でもわたしが一番残念なはみ出し者で(だから特別で)、だからわたしなんて後ろに引っ込んでたほうがいいですね、、、っていう。あれ、なんだろう、これわたしかもしれない。

そんな自意識を拗らせに拗らせたネイディーンが、友情にひびが入ったり、恋愛に興味をもって危なっかしいことをしたりと、いろんなやらかしを経て成長していくお話なのだけれど、背景にある倫理観がとても健やかで好ましい。それを支えているは、ウディ・ハレルソン演じるハイスクールの先生(好演!)、ネイディーンの兄、彼女に好意を寄せるアーウィンといった男性キャラクターたちで、彼らの背骨の倫理観が真っ当なので、ネイディーンがどんなにはちゃめちゃして失敗してもどこか安心して見ていられる。そんなふうに女の子が安全に冒険し成長できる映画ってすごくいいなあと思う。

また、これはネイディーンの物語だけれど、同時に彼女以外の人々の物語でもある。舐めてかかっていた先生には父や夫としての顔もあるし、リア充な兄貴だっていつも自慢の息子であることのプレッシャーを感じているし、母親も一人の人間で、娘と一緒にいくつになっても成長していくものーーそうやって誰にでも事情があることを知り、自分以外に目を向けることがネイディーンの成長の一歩目になるから彼女だけの物語にはなり得ない。そこがよかった。


正直もうマーヴェルの諸々にはまったくついていけてないし、前作はさほど思い入れがなく、今作も引っかかるところはあるよなあと思いつつベストに入れたのは、ある一点にとても嬉しくなったから。

その一点というのは、「父になる」ことについての物語でありながら、神話世界の父権主義には思いっきり中指を立てているところ。カート・ラッセル演じるエゴは様々な種族の女性と関係を持ち、理想の楽園を創り出す、まさに神話的な父/創造主として描かれているのだけれど、その名がまさに「エゴ」であるように、本作はそうした父権主義あるいは父権主義的な知性を、独善的で帝国主義的で、つまりはクソ喰らえだわと真っ向から否定している。だからこれは父性の映画であって、父権の映画ではない。神話の男性中心主義を解体するという点では『モアナと伝説の海』に通じてもいて、GotGシリーズはいろいろ危なっかしいところはあれどやっぱりモダンなのだなと思った。

あとOPが大好きすぎて、夏に旅行に行ったとき機内でずーっとそこだけリピートして再生していました。ベイビーグルートと一緒にダンスしたい。


  • 『メッセージ』Arrival

こちらは下の記事で言いたいこと全部書いているので、ぜひ読んでください。

映画『メッセージ』と、言葉、詩、物語 - Who's Gonna Save a Little LOVE for Me?

「時間と言葉/物語」というのが昨年わたしの中で一つ大きなテーマだったので、そういう映画や詩を特に好んで鑑賞していました。人間の不可能性や限界を突きつけるものとして古来から捉えられてきた「時間」に対して、人間の可能性や創造力である「言葉」あるいは「物語」は、時間を超えて人間を無限の領域に連れていってくれるものなのか、はたまた時間に縛られ、結局は人間の無力を証明するだけのものなのか。詩人やあらゆる表現者たちが、その狭間で揺れながら様々な答えを模索してきたけれど、この『メッセージ』もある一つの答えを提示してくれている。

それとジェレミー・レナーの美しさが昨今では特に際立っているので、それだけでも見る価値がある映画。久しぶりに見惚れてしまったよ。。


iPodで音楽を聴くということは、毎日の生活をサントラ化すること*1、プレイリストをカスタマイズすることで日々の一分一秒をカスタマイズすること。ちょっと歩いてコーヒーを買いに行くだけでも雰囲気や気分にあった音楽をプレイしたい。いろんなシチュエーションで、それに相応しい音楽を聴きたい/持ち運びたい。iPodはそれを可能にしてくれる。イヤホンを挿せばいつでもどこでも「自分だけのサントラ」が再生できる。

けれども、本当は生活のすべてを好きなようにカットして、エディットして、カスタマイズすることはできない。イヤホンはいつかどこかで外れてしまうし、人生には巻き戻しボタンも一曲戻るボタンもなく、一度汚れた手はそう簡単にきれいにならない。そういうことを、本当はまだ「ベイビー」なのに犯罪の世界に放り込まれ、自分の腕一つでどうにかするんで僕には構わないでくれてけっこうですよ、というおませな主人公(アンセル・エルゴートくんのベイビーフェイスがかわいい!)が知っていくビルドゥングスロマン。ラストバトルが"Brighton Rock"なのがQueenファンには嬉しかったね。これもGotG vol2と同じくOPをエンドレスに再生できる映画。


この10作で順位をつけるのは難しいのですが、本当は一位だけ決まっていて、それが『ダンケルク』なのです。クリストファー・ノーランの作品はだいたいどれも好きなんだけれど、年間の一位に選ぶほどのものはこれまでなかったのですが、これはやられてしまいました。

その理由の一つは、クリストファー・ノーランが常に「時間」とそれが人の意識にどう働きかけ、影響を残し、プリズムを形成するかといったことを探究している作家であり、それが時間と物語というわたしの昨年のテーマにうまいこと合流して、いろいろ考察を深めさせてくれたからだと思う。

『メッセージ』をはじめ、わたしがブログ・ツイッターで紹介してきた時と物語にまつわる映画や詩では、概して時間は過去から現在へ流れ過ぎ、人間の有限性を示すものであるのが前提になっているのだけれど、ノーランは時を「主観的に感知/認識される概念」として扱っている。どんな出来事もそれを体験したり目撃したりした人の主観によって認知される経験となり、それぞれの経験はそれぞれの視点や立場によって異なる多元的な時間世界(≒記憶)の中で広がりながら時おり収斂される。そこで描き出される物語、というよりロマンを、ノーランは追い求めている気がする。

本当はきちんとブログ記事にまとめていられたらよかったんですがタイミングを逃したので、以下ふせったーなどから切り貼りですが、ご参考程度に。

@Dktnianさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

@Dktnianさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

@Dktnianさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

Moooh(百) on Twitter: "ダンケルク。2ケルク目でわかった(し、誰かご指摘済みかもだ)けど、これ潮汐についての映画だったんだね。潮が干いては満ちるを繰り返すように、この映画には行くか引くかしかない。"

This film is dedicated to all those whose lives were impacted by the events at Dunkirk.

この映画を、ダンケルクでの出来事にその人生・生活が影響を受けたすべての人々に捧げる。

冒頭の献辞が非常にノーラン映画らしかった。この映画が捧げられているのはあの時ダンケルクにいた人だけではない。イギリスのどこかで兵士の帰りを待っていた家族、物資を支援した人々、もっと言えば、ダンケルクを生き延びた兵士の子孫や、さらには今こうやって日本の映画館でスクリーン越しに映画を見ているだけのわたしたちだって、ある意味では「ダンケルクでの出来事に影響を受けた」者だ。ダンケルクというフランスの街で行われた世紀の救出作戦が、あの時どのように人々の意識に刺さって根を張り、また外へと波及して、今に至るまで記憶のプリズムを分岐形成しているのか。そうした経験としてのダンケルクを描いた本作は、戦争映画というより戦争体験にまつわる映画だと思う。

…….こう小難しく考えずとも、とりあえず『インセプション』以来のイケメンハンターぶりを発揮してくれたノーラン先生に感謝しながら、ひたすら暖かそうな英国産ニットを愛でたり、真っ白い食パンに苺ジャムを塗り、マグにたっぷり紅茶を用意してダンケルク飯ごっこをしてりするだけでも楽しい一本です。


  • 『ゲット・アウト』Get Out

これはあんまりうだうだ書いちゃうとおもしろくないのでとりあえず見てください!それでもし気が向いたら下のリンクも読んでみてね!くれぐれも映画を見る前には開かないでね!

@Dktnianさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

@Dktnianさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

恐怖はどこからやってくる?(無)意識とアメリカン・ゴシック/Emily Dickinson, 'One need not be a chamber to be hauted'(少しだけ映画『ゲット・アウト』) - Who's Gonna Save a Little LOVE for Me?


ポスターにもはっきり記された、"Based on a true story"のフレーズ。実話に取材した映画ならばお決まりのこのフレーズに、本作ほど重みを持たせる映画も他にないだろう。これは「実際に起こった出来事・事実」に基づく話。それは、ホロコースト否定論を巡る裁判が実際にあったというだけではない。それは、ホロコーストは歴史的事実であること、その事実を否定し、生存者たちの尊厳を損ない傷つける動きがあったこと、事実を事実だと証明するのに裁判をするのはおかしな話かもしれないけれど、それを否定する者たちから守るために闘わなければならなかった/ならないことを、今一度明らかにする、そんな映画の清潔な態度を示した重要な言葉。

事実を嘘から守る話なので、法廷劇ではあるけれど、肯定派/否定派二者の駆け引き、どちらが勝つか、といって法廷のサスペンスは念入りに避けられていて、むしろ映画の焦点は尊厳とリプレゼントの正解なき問いに当てられている。誰のために誰が行う裁判なのか。実際に傷つけられ、権利が保障されるべき人の尊厳を守るには、どのような形で彼らはリプレゼント(表象/代表)されるべきなのか。そこにはっきりした正解はないけれど、時に「自分の良心を他人に受け渡し」、我慢をして、チームで闘うことも必要だという映画の結論は正直であり現実的であり、でもとことん真面目で誠実であった。

ダンケルク』以来みんな大好きなジャック・ロウデンもいい役で出演しています。

なにせ法廷では常にレイチェル・ワイズ演じる主人公デボラの横に座っているからね!ポストイットを加えつつページを繰るジャクロが見られるよ!


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以上、2017年劇場公開作のベスト10でした。他にも『ローガン・ラッキー』とか『アトミック・ブロンド』とか『ラビング 愛という名前のふたり』とか見た映画だいたいどれもよかったんだけれど、自分的にこれは!というワンダーの瞬間があったものを選びました。毎年言ってるけど今年は鑑賞数増やして、最近全然活用できてないNetflixでもいろいろ新しいものを見つけたいなあ。

*1:エドガー・ライト自身がそう言っているんだけれど、リンクの動画が切れてしまってたんで見つけられたら載せます。

恐怖はどこからやってくる?(無)意識とアメリカン・ゴシック/Emily Dickinson, 'One need not be a chamber to be hauted'(少しだけ映画『ゲット・アウト』)

エミリ・ディキンソンの詩でまた好きなものを一つ。翻訳するだけしてずーっと温めてたやつ。


エミリ・ディキンソン「取り憑かれるのに部屋である必要はない」


取り憑かれるのに部屋である必要はない、
家である必要はない、
だって脳には物質的な空間に優る
回廊があるから。

外界の霊に
深夜遭遇するほうがよっぽど安全、
いっそう白いあの主人との
内なる邂逅に比べたら。

石に追われて、
修道院を逃げるほうがよっぽど安全、
月明かりもなく、孤独な場所で
自分自身に出会ってしまうのに比べたら。

私たち自身、隠された私たち自身の向こう側、
それこそが最も驚異的なのだ
家の中に身を潜める暗殺者なんて
ちっとも恐ろしくはない。

用心深い者は、リボルバーを持ち、
扉に錠をかけながら、
もっと近くにいる
より恐ろしい霊を見逃している。


Translated by me.
Original texts here.
One Need Not Be A Chamber To Be Haunted, Poem by Emily Dickinson - Poem Hunter

わたしたちが何かを恐れるとき、その恐怖の源流はいったいどこにあるのか?

そんな恐怖のメカニズムを考える上で、この詩は短いながら示唆に富んでいる。取り憑かれる(to be haunted)のは屋敷や部屋といった物理的空間に限らない。人の頭の中にはそれよりも深く果てしない空間が広がっている--。ディキンソンはゴシック文学のお化け屋敷や幽霊を引き合いに出しながら、それら外的な表象よりも人の意識や内なる自己といった内的世界こそ深い闇を抱えた恐ろしいもの、恐怖の生まれる源なんだと淡々と語る。


大学時代、こうした外的なものへの恐れではなく、人間の意識や精神の"内なる恐怖"にフォーカスしているのがアメリカン・ゴシックの特徴だと習ったことがある。特にアメリカの歴史的特殊性を考慮して注目されるのが、開拓時代からのアメリカ先住民への恐怖、また奴隷制以来続く黒人への恐怖といった、異人種・異民族間のもの、要するに(言うまでもなく歴史的にアメリカ文学を独占してきた)白人文学に描かれる白人の非白人への(無)意識の恐怖だ。例えば、可愛がっていたはずの黒猫を虐待して殺した後、それとそっくりの黒猫が現れたことでいよいよ精神的に追い詰められていく男を描いた、エドガー・アラン・ポーの短編「黒猫」は、黒猫を黒人の表象として、黒人を恐れて攻撃する南部白人の心理を捉えた作品として読まれている。


ディキンソンの詩も、そんなアメリカの歴史を踏まえたゴシック詩としてやや政治的に読むことができるんじゃないかとわたしは思っている。最終連、「用心深いものは、リボルバーを持ち/扉に錠をかける」(The prudent carries a revolver, / He bolts the door)という箇所は、典型的なアメリカらしい自衛の態度を示している。銃をとり身を守れ、と。でも、本当は外界のものはそんなに恐くはないのだとディキンソンは言う。むしろどんなにしっかり錠をかけ、武器を装備しても、それでは自分の内にあるもっと恐ろしいもの、恐怖の源を見過ごすことになるのだと。ポーの「黒猫」で語り手を破滅させるのは、黒猫ではなく、黒猫を殺した語り手自身の罪悪感や悔恨であったし、先住民の居留地への強制移住をひとしきり終えた白人社会で流行したのは、先住民を懐かしむようなノスタルジックな冒険文学だったという。彼らが恐れていた対象は、彼らの恐怖を映し出す像であって、本当の恐怖の源流は彼らの意識深くを流れていたのかもしれない。





なんていうことを、先日『ゲット・アウト』を見ていてつらつら考えていた。内容を知ってしまうとおもしろさ半減なので、未見の方はここから先は読まないでもらいたいのですが、






ふせったーにて、『ゲット・アウト』はなかなかよくできたアメリカン・ゴシックだと思う、と書いたのは上のようなことを踏まえてでした。監督脚本のジョーダン・ピールがまさにこの映画を、アメリカ白人、とりわけリベラル層の無意識にある黒人への差別を描いた作品と評していたよね。

@Dktnianさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)


他者は自分の鏡であって、自分の欲望や憧憬、後悔、そして恐怖などを映し出す。その自己と他者の関係に構造的な力の不均衡が起こるとき、それは差別となって現れる。そんな差別する側の(無)意識にぐいっと踏み込んだ『ゲット・アウト』、モダンでありながら古典的なゴシックのナラティブに則っていているのではないかなと思う。

ちなみに映画を見てからずっとこのディキンソンの詩の翻訳を上げようと思っていたので、1ヶ月半も温めていたようですね。。まだ翻訳したきりアップしていない詩が何個かあるので、もし興味がある人がいれば年内に引き続き投稿しようかと思います。

Blythe Baird, 'Pocket-sized Feminism'(2017年12月①)

最近ちっとも詩が読めていないし翻訳もできていないので、以前ツイッターで紹介したら少し反響があったこちらを全文訳してみようと思います。ちなみに実際のパフォーマンス(slam poetry)では使われている言葉が少し違ったり、テクストにはない表現が含まれていたりするので、リンクのパフォーマンスの動画も見てみてね。

「ポケットに収まるフェミニズム


パーティーにいた、わたし以外の唯一の女の子が
フェミニズムを叫んでいる。観衆はこんなかんじ:
レイプをネタにしたジョークと、野球帽と、
発泡スチロールのカップの海、そしてわたし。
彼らはぽかんと眺めている、
彼女の口を、まるで大量の意見で
詰まりをおこした排水口みたいに。
わたしは彼女に共感の一瞥をくれるだけで
何も言いはしない。この家は
壁紙の女にふさわしい。話す壁紙なんて
何の得にもならないでしょう?
わたしは立ち上がりたいけれど、そしたら、
誰のコーヒーテーブルの静けさに
この男の子たちは足を置いて休むの?
わたしは立ち上がりたいけれど、それで
誰かがわたしの場所を取ってしまったらどうする?
わたしは立ち上がりたいけれど、それで
わたしがこれまでずっと座ってたことに
みんなが気づいたらどうする?わたしは罪悪感を覚える
自分のフェミニズムをポケットにしまっておくことに、
しまっておかなくても困らないとき、
ポエトリースラムや女性学の授業のとき以外は。
時には、世界を変えていくよりも
人から好かれたい日だってある。
時には、ドラッグ入りの飲み物に色を変えるマニュキュアや
夜に家まで送り届けてくれるようなアプリ、
口紅に見せかけた催涙ガスを作り出さなきゃいけなかった
事実を忘れたい日だってある。
ある時、わたしはパワフルだってある男の子に言ったら
減らず口叩くなと返された。
ある時、ある男の子にミサンドリーだと責められた。
世界を支配できるとでも思ってんの?わたしは答えた、いいえ、
わたしは世界を見たいだけ。
ただ知りたいんだ、
世界は誰かのためにあるってことを。
ある時、父はセクシズムは死んだと言いながら、
舌の根も乾かぬうちに、わたしに
常にペッパースプレーを携帯するよう注意した。
わたしたちはこの絶え間ない恐怖を
女の子であることの一部として受け入れている。
安全に家に帰り着いたらお互いにメッセージしあって、
男の子の友人たちは同じようにしなくてもいいってことは
考えもつかないでいる。
女を真っ二つに切断したら
それってマジックのトリックって呼ばれるんでしょ。
それがわたしたちをここに招待した理由、
そうじゃない?だって美人のアシスタントなしの
ショーなんて存在しないじゃない?
わたしたちは、わたしたちの裸のポスターを飾って
わたしたちの首を絞めることを空想し
わたしたちが殺される映画を見ている
男の子たちに囲まれている。わたしたちは
ニュースや、牛乳パックに載ってる行方不明の女の子、世界の端っこのほうで行方知れずのなった女の子について
わたしたちに警告する男の人たちの娘だ。
彼らはわたしたちに注意深くあれとせがむように言う。安全であれと。
そしてわたしたちの兄弟には、外に出て遊んでこいと言うんだ。


The texts are here:
Blythe Baird – POCKET-SIZED FEMINISM The only other girl at the...

The performance is here:
Blythe Baird - "Pocket-Sized Feminism" (Button Live) - YouTube


ワインスタインに始まる一連のセクハラ・性暴力の告発に関して、「普段フェミニズムを標榜していながら、なぜ今まで声をあげなかったのか?」という声が聞こえることもあったけれど、システムの問題をそのシステムの一員である人間が指摘すること、特にそのシステムにおいて大きな力を持つ者に異議を唱えることの難しさが、この詩を読めば/聴けばわかる。「席を立った隙に誰かがわたしの席に座ってしまったらどうする?」という箇所は、自分が身を落ち着かせた社会/コミュニティにおけるポジションを正義のためにやすやす手放すなんてできない、その恐怖をユーモラスな比喩で表現していて特に好きなところ。動画のパフォーマンスでは具体的な体験がいくつか引用されていて、その一つ一つがどこかで聞いた話、身に覚えのある話で身にしみる。彼女の他のパフォーマンスもとても大胆で率直で良いので、興味を持たれた方はいろいろ見てみてください。

Warsan Shire, 'Backwards'(2017年7月①)

人生が過去から現在未来へと無情に流れていく時間の堆積である以上、いかに時に抗うかは常に詩人の命題の一つであり続けるだろう、というような話を再び。

ワーザン・シャイア「後ろ向きに」


サーイド・シャイアへ

後ろ向きに部屋へと歩いてくる彼の姿で詩を始めてみよう。
彼はジャケットを脱ぎ、そこに生涯腰を落ち着ける、
こうやってわたしたちはパパを取り戻そう。
わたしは出た鼻血を戻すこともできる、蟻が巣穴に駆け込むみたいに。
わたしたちの体は小さくなり、わたしの胸は消え、
頬は柔らかくなって、歯はまたガムを噛む。
(今度は)わたしたちを愛される存在にできる、ただ望みを言葉にして。
彼らが一度でも同意なしにわたしたちに触れたなら、手を切り落としてしまおう、
わたしは詩を書いて、消し去ってしまえるんだから。
義理の父さんは酒をグラスに吐き戻し、
ママの体は階段を転がり上がって、骨は正常な位置に戻る
ママはたぶん赤ちゃんを産む。
わたしたちもたぶん大丈夫だよね?
わたしはこの人生を丸ごと書き直して、今度は愛に溢れたものにする
その先は見越せない。

その向こうは見越せない、
わたしはこの人生を丸ごと書き直して、今度は愛に溢れたものにする。
たぶんわたしたちは大丈夫。
たぶん彼女は赤ちゃんを産む。
ママの体は階段を転がり上がって、骨は正常な位置に戻り、
義理の父さんは酒をグラスに吐き戻す。
わたしは詩を書いて、消し去ってしまえるんだ
一度でも同意なしにわたしたちに触れたなら手を切り落としてしまおう、
わたしたちは愛される存在になれる、ただ望みを言葉にして。
頬や柔らかくなり、歯はまたガムを噛み
わたしたちの体は小さくなって、わたしの胸は消えていく。
出た鼻血を戻すことだってできる、蟻が巣穴に駆け込むみたいに
そうやってわたしたちはパパを取り戻す。
彼はジャケットを脱いで、そこに生涯腰を落ち着ける。
後ろ向きに部屋へ歩いてくる彼の姿でこの詩を始めてみよう。


拙訳
Texts from here
Backwards by Warsan Shire | Poetry Foundation


ワーザン・シャイア(Warsan Shire)といえば、ビヨンセのヴィジュアル・アルバム Lemonadeでその詩がフィーチャーされたことで有名な、イギリス国籍のソマリ人詩人。わたしにとっては読みたいなーと思いつつも積んでしまっている詩人の一人で、他に読んだことがあるのは難民として祖国を離れざるを得なくなることについて書かれた'Home'や女性性を扱った'For Women Who Are Difficult to Love'、'The House'など。どれも力強く痛切な、この時代の詩。


今回和訳してみた'Backwards'はワーザンの兄弟サーイドに捧げられていて*1、ここに出てくるweはこのきょうだい二人を指している。

that's how we bring Dad back

そうやってわたしたちはパパを取り戻す

どうやらこれは家を出ていった二人の父を取り戻さんとする詩らしい。では「そうやって」とはどうやってだろうか。


タイトル'Backwards'が指し示す通り、ワーザンは時を「後ろ向きに」動かすことで、失われた父を呼び戻し、人生を語り直そうとする。父が家を出ていく様子を巻き戻すところからこの詩は始まり、現実には帰ってくることのなかった父はかわりに一生家に留まる。そこから続く第一連、ワーザンはこれまでの記憶・経験をなぞりながら、わたしは過去を書き換えられるんだと繰り返す。

I can write the poem and make it disappear

わたしは詩を書いて(過去の出来事を詩にして)、それを消し去ってしまえる

I'll rewrite this whole life

わたしはこの人生を丸ごと書き直す

父が出ていったことも、義父が酒に酔って家族に暴力を振るったことも、そのせいなのか、母がお腹の赤ん坊を喪ったことも、ワーザンはすべてなかったことにして、まるで違う人生の物語を語ることができる、という。とはいえ、この第一連では彼女はまだ時系列に沿って過去を綴っている点に注目してほしい。父が出ていき、義父がやってきて、酒に酔い、暴力を振るい、母は胎児を喪う、というふうに、個々の出来事は過去から現在への流れに従って配置されている。

しかし"you won't be able to see beyond it"の一節で詩は突如折り返し、今度は現在から過去に向かって記憶をなぞり返していく。これまでダフィ*2や『メッセージ』*3についての記事で、英語は時制のルールに則り、過去→現在という線軌道を描く言語だと書いてきたけれど、では一度書かれた言葉をそのままひっくり返してみたら、もしかして言葉はその軌跡を逆走することができるのではないか?

この「巻き戻し」の演出は映画などの映像表現ではよく見るし、たとえば『メメント』なんかを具体例として想起する人も多いと思う。この詩でやっていることといえば、単にここまで書かれたことをそのまま遡るという至極シンプルなもので、『メメント』のような複雑さはない。けれども、この小さなアイディア一つで、ワーザンは時間を巡る言葉の不可能性にブレイクスルーを見出そうとしている。「わたしは過去を語り直す」と言いつつも時系列通りの語りをする第一連は、実はそれを丸ごとひっくり返してしまう第二連のために周到に用意されたもの。おそらくこういった構成をとったのは、言葉は一方通行の時の流れに忠実であることを踏まえているからだと思う。一度語られた言葉は先に語られたことから順に過去になっていく--のであれば、それを逆さまにしてしまえば言葉は過去に向かって遡上していくはず。この詩のアイディアはまさにそれだ。


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自分で書いていてよくわからなくなってきたし、なんだか詩の魅力を殺しそうなのでそろそろ閉じようかと思ったんだけど、一点読んでいて気になったところがある。折り返し地点にあたる"you won't be able to see beyond it"(その先は見越せない)というフレーズの「その先」とは何なのかということ。時の流れに沿って書かれた第一連のおわりにくるので、ふつうに考えると未来のことを言っているのかなと思うけど、どうかな。また、だとするとこの詩は言葉の不可能性に挑戦しつつ、それを突きつけてもきている。

結びのフレーズは当然一行目と同じなので、この詩は過去→現在→過去という円環軌道を描き、最後はまた始まりと同じ地点に戻る。そして「未来は見越せない」のであれば、詩は永遠に父が出ていってから現在までの記憶をぐるぐる巡ることになる。ここで示される言葉の力は過去を語り直す力であって、未来を拓く力にはなり得ない。それは語り手自身が未来よりも過去を見、父が出ていったときの記憶にある種囚われていることと不可分でもある。そうやって読んでいくと、人生を語り直して今度は愛に溢れたものにすると一見前を向いているようなこの詩が、実は心理的な面でもいくぶん「後ろ向き」であることがわかる。

しかし、このブログでは繰り返し言っている通り、「言葉は想像力の可能性と希望を示してくれるのに、同時に人間の限界と無力を突きつけてもくる」けれど「そんな言葉の不可能性を指摘することも言葉によってしかなされない」のだ。可能性と不可能性、希望と絶望/失望は常に混在している。あるところに突破口が見出せても、その先はまた袋小路かもしれない。でもそんな人生のままならなさにああでもないこうでもないと格闘する姿こそ、わたしが詩に求めるものなのだと思う。