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「新しい失敗」こそ進歩の証/"Try Everything"を助動詞にこだわってネチネチ読んでみる

音楽 映画 English

タイトル通りの内容です。一つの歌詞をネチネチ読み込むという完全に趣味の投稿になりますが、昨年ツイッターでちまちま書いていたことをまとめたものになるので、よかったら読んでみてください。なぜ今頃こんな記事を書くかというと、単純に自分の気分がのっているからというだけです。わたしのブログは基本そんなスタンス。

「トライ・エブリシング」


Oh Oh Oh Oh Oh...


今夜もダメだった、また戦いに負けた
未だに失敗するけど、そしたらやり直すだけ
また落っこちて、地面にぶつかり続けるけど
いつだって起き上がって次は何がくるか見てる

鳥はただ飛んでるんじゃない、落っこちては浮上してる
間違わずに学ぶ人なんていない

わたしは諦めない、降参したりしない
終わりに辿り着くまで そしてまたそこから始めるんだ
わたしは逃げない、なんだってトライしたい
失敗するとしてもトライしたい


Oh Oh Oh Oh Oh
すべてにトライしよう
Oh Oh Oh Oh Oh
あらゆることに


自分がどれだけ遠くに来たか見てみて 心は愛でいっぱい
あなたは十分やった 深呼吸して
自分を責めないで そんなに早く走らなくていい
時には最下位になるけど、わたしたち最善を尽くしたじゃない

わたしは諦めない、降参したりしない
終わりに辿り着くまで そしてまたそこから始めるんだ
わたしは逃げない、なんだってトライしたい
失敗するとしてもトライしたい


こういう新しい失敗をわたしはおかし続ける
毎日のようにおかす
こういう新しい失敗を


Oh Oh Oh Oh Oh
すべてにトライしよう
Oh Oh Oh Oh Oh
あらゆることに
Oh Oh Oh Oh Oh
すべてにトライしよう
Oh Oh Oh Oh Oh
あらゆることに



Shakira - Try Everything (Official Video) - YouTube


例えば和歌の字余りが、秩序だった五七五七七の形式から逸脱する思いを表すように、些細な修辞の下に深く大きな意味をたずさえられる点が詩の魅力だとわたしは捉えているんだけれど、この"Try Everything"にもそんなちょっとした言葉の技巧をマイクロスコープにして、そこから大きな詩世界が広がっていくおもしろさがあると思う。

一読すると、底抜けなポジティビティに満ち溢れた頑張るわたしへの応援歌にも聞こえるこの歌詞。しかし「多様な生物が生き、多様な意見や利害が入り乱れる社会では絶対の正解はないから、時に傷つき、傷つけるとしてもより良い世界を模索し続けよう」と言ったズートピアを見終わったあとでは、これが闇雲なオプティミズムや諦めないことの美徳を盲目的に礼賛しているのではなく、むしろ失敗と反省を前提にそれでも歩みをやめない覚悟を背景に持っているとわかる。そんな覚悟を歌詞のなかで特に感じる箇所があって、それがこの部分。

I'll keep on making those new mistakes.
I'll keep on making them every day.
Those new mistakes.

こういう新しい失敗をわたしはおかし続ける
毎日のようにおかす
こういう新しい失敗を

ここで"I might keep"でも"I could keep"でも"I would keep"でもなく、"I'll keep"と助動詞willを使っている、ただこの一点に着目してすごいなあと思う。たとえばmightなら「失敗し続けるかもしれない」、couldなら「失敗し続けうる」といった意味になり、歌い手が失敗を重ね続ける可能性は50/50*1。あるいはwillの過去形wouldが使われた場合は、現実から一線を置いた遠回しな表現になり、"I would keep on~ mistakes"の背後に"if I keep(kept) trying"のような仮定の意味合いが仄めかされる。そのため「仮にわたしがトライし続けるなら、何度も失敗をおかすだろう」という具合に「トライし続けること」の時点で仮定の話として留保される。

一方、willは「今この場では現実になっていない、あるいは話者からは認識できないけれど、ある時点、ある場で必ず現実になる」くらいの意味を持った、might/could/wouldに比べると実現の可能性がかなり強い推量の助動詞。たとえば"She'll turn 20 this August."(彼女はこの8月で20歳になる)は今後確実に現実になる未来の話だし、現在の話でも"He'll be attending a meeting now. He told me so yesterday."(彼は今頃会議に出ているはず。昨日そう言ってたから。)というように、話者が実際に目にしたわけではないけれど聞いた話などから現実にそうなっていると考えられることもwillを使って表現できる。ということを踏まえると、"I'll keep on making those new mistakes"と言ったとき、歌い手は自分が失敗し続けるのは間違いない、きっと現実になることなんだと宣言したと言える。

一見、これは「ミスは避けられないもん、しょうがないしょうがない」という開き直りにとれるかもしれない。でもwouldを使ったときトライすること自体に「仮にトライするとしたら」という留保が入るのと対照的に、willを使うことで「失敗し続ける未来」が確実になるならば、それは「トライし続ける未来」も確実に現実になるということを指す。失敗を繰り返すのは挑戦を繰り返すことの裏返しでもある。

この歌では失敗が次のスタートを切るきっかけになっていて、トライすれば失敗する→失敗があるから、それを反省してやり直すためにまたトライする→……というトライとミステイクの連続性が非常に意識されている。この二者の結びつきがとても密接で、失敗が必ずはじまりに繋がるので、"I'll keep on making those new mistakes"はほとんど"I'll keep on trying everything"と同義に聞こえてくる。この一節は「結果」としての失敗の正当化ではなく、「わたしたちは失敗する、ではどうするか」という「スタート地点」に立つための認識として機能していると思う。


ついでにもう一点興味深いと思うところ。それは"new" mistakesという箇所。"Try Everything"でいう失敗を重ねることは同じミスを何度も繰り返すこととは違う。トライしたことで生まれる失敗は常に「新しい」はず。たとえ失敗ばかりだとしても、それがまだ見ぬものであれば、少なくとも何かをアップデートすることは果たしたということだろう。「新しい失敗」こそきっと先に進んでいることを証明してくれるものに他ならない。




以上、とってもシンプルな歌詞をたった一行、たった一語にこだわって読む試みでした。こうやってネチネチと妄想に近い言葉の想像力を広げてものを考えるのはやはり楽しい。

*1:歌詞には"I wanna try even though I could fail"(失敗するかもしれないけれどトライしたい)という一節もあるが、これは「この試みが成功するか失敗するかは50/50だけど、それでもトライしたい」という意味でのcould。この歌でいう「トライし続ければ必ず失敗する」とうのは、個々の試みがうまくいくかどうかの話をしているのではなく、もっと全体的・長期的視野で見て、トライにはエラーがつきもので、挑戦し続ければどこかで必ず失敗するということを言っている。

We need a new song/神話の語り直しとしての『モアナと伝説の海』

映画

いよいよ日本公開された『モアナと伝説の海』見てきました。


近年のディズニーは自分たちが作ってきた「プリンセス像」をアップデートし続けていて、今作もその系譜に連なる一作。ですが、わたしは今回ちょっと視点を変えて、プリンセスものとしてではなく、古代の神話を現代のフェミニズム的な視点から語り直すものとしてこの映画を見ていました。そんな話をちょこちょこ書きたいんですが、神話について専門的な知識がないので、ほとんど妄言だと思ってお付き合いくださればと思います。特にポリネシアの神話はまったく無知なので、詳しい方がいらっしゃればズバズバ指摘をいただきたいところです。(以下、内容・結末に触れます)

                                    • -


公開前からずいぶん話題になったように、この映画ではポリネシア神話の半神半人の英雄マウイが、プリンセス・モアナと並ぶメインキャラクターに据えられている。彼はモアナに出会うと、過去の自分の超人的な活躍ぶり--神に与えられた魔法の釣り針の力で何にでも変身できたり、空が低すぎて人間が直立できないのを見かねて空を押し上げたり、あまりにも速く駆けていく太陽を捕まえ、ゆっくり行くように説得して昼を長くしたり、大鰻を退治して亡骸を地中に埋め、そこからポリネシアの大事な資源・食糧であるココナッツの木が育ったり--を突然歌い始める。

ここで描かれるマウイ*1のような英雄はわりとどんな神話・伝説にも共通して登場する。ギリシア神話の12の功業を達成するヘラクレスメデューサを殺したペルセウス、ゲルマン叙事詩ジークフリート、日本の神話であればヤマトタケルなど、魔法のような特別な能力や怪力の持ち主で、怪物退治など数多の難業を成し遂げる勇者は神話・叙事詩定番のキャラクターだ。

『モアナ』でおもしろいのは、マウイが過去の偉業に固執し、人々から崇拝される英雄というセルフイメージに強迫観念に近いこだわりを持っていること。その理由として、もともと彼は人間の両親に生まれた人間の子であったが、親に捨てられ、その後神に助けられて超人的な力を授けられたという生い立ちが中盤で明らかになる*2。彼が人間のために尽力してきたのは、かつて自分を捨てた人間に認められたい、感謝されたい一心ゆえであり、だからこそ彼は"ヒーロー"であることにこだわり続ける。まるで何者でもないように親に捨てられたマウイにとって、人間であった頃の自分は無力であり、魔法の釣り針を授けられ、半神半人になった自分にこそ価値がある。だから彼はしつこいほどにモアナに対してmortal(有限の者、人間)のお前に何ができると言うし、悪魔テカァの一撃を受け、釣り針が折れそうになると、自分を特別にしてくれる力を失うのを恐れて一度は退散してしまう。

このマウイによるmortality(人間の有限性、死すべきこと)の強調や親に対する複雑な感情にはギリシア神話的なものを感じる*3ギリシア神話といえば、mortalな人間とimmortal(不死)で圧倒的な力を有した神々との対比が特徴的で、古代ギリシアでは神々に近づこうと高みを目指すのが人間の崇高な使命と位置づけられていた。ここでいう人間は基本的に女性・子供を含まず成人男性のみを指していて、神話の英雄というのは「男子たるもの強く、勇敢たれ」という古代の男性の理想を体現したマスキュリニティの象徴のようなものだとわたしは解釈している。『モアナ』でも、すぐに訂正するものの、マウイははじめ自分を「男たちのヒーロー」と称する。しかし実際のところマウイはそうした自分のイメージ、英雄でいなければならないという呪縛に絡めとられ、自己イメージから乖離した現実の自分にぶつかり、尊厳を失いかけている。神話の男性中心主義は女性軽視であるだけでなく、男性にとってもプレッシャーが大きく息苦しいものではないか?


詩人キャロル・アン・ダフィはThe World's Wifeで男性によって語られてきた神話や伝説を女性の視点から語り直す試みをしているのだけれど、『モアナ』も似たようなことをやっているとわたしは思う。モアナは、自分は皆から愛されるヒーローだと言うマウイに対して、「あなたはもうヒーローじゃない、女神テフィティの心を盗んで災いを生んだ厄介者だ」と言ってのける。また彼女は、神の力がなければ自分は無価値な存在だと自信を喪失したマウイに対してこうも言う。「あなたを英雄にするのは他の誰かの力じゃない、あなた自身だ」と。

マウイはテカァとの戦いでモアナを手助けし、エンディングでは再び航海に出たモトゥヌイの民を導いている。けれども、彼がはじめに望んでいたような人々からの喝采や崇拝を受ける描写はない。それは、彼を英雄にするのはそうした喝采や崇拝によって迎えられる超人性や特別な能力ではなく、彼が実際にとったモアナを助けるという行動、そしてその証としてモアナから受け取った"Thank you."という一言だから。先述したマウイがモアナに出会ったときに歌う自慢話の歌のタイトルは"You're Welcome"。モアナを呆然とさせた、誰も感謝していないのに連呼する「どういたしまして」の意味が、彼の生い立ちが語られて明らかになったとき、わたしはとても切なくなった。彼が本当に望んでいたのは、誰かの役に立ち、感謝されること。でも誰もありがとうと言わないから、自分からどういたしましてと言ってしまう。モアナが「ありがとう」と言ったとき、マウイは救われ、本当の意味で英雄になったのだと思う。


こうやって、古典的な英雄像を解体し、かつての英雄を彼がはじめは侮っていた人間の女性(ギリシア神話や家父長制の文脈に添えば不完全で半人前の存在)との共闘によって救い、自己の尊厳を回復させることで、『モアナ』はマッチョな神話世界をフェミニスト的な視点から再構築しているのではないか。この映画で物語を先に進めようとするのはみんな女性だ。海に選ばれた、いや自ら海を選んだモアナは当然のこと、彼女を後押しする祖母、一度はモアナを引き止めながら、旅立ちを決断した彼女の手をとりそっと力を込めて送り出した母--この三代に渡る女性の動きがこの映画のキーになっている。序盤で歌われる"Where You Are"で旅することを忘れたモトゥヌイの人々は歌う。"Who needs a new song? / This old one's all we need"(新しい歌なんて誰が必要とするか?この昔からの歌で十分だ)

とんでもない、新しい歌はいつだって必要でしょう。新しい歌、新しい声、新しい物語こそ今ある世界を少しずつ動かしていく原動力に他ならないと『モアナ』は教えてくれている。






※追記
神話の英雄の解釈部分、自分で納得がいかなかったので少し書き換えました。推敲してから投稿しろよってな。

*1:あくまでこの映画で描かれるマウイに限定します。わたしはもともとの神話を読んだり聞いたりしたのではなく、ディズニーが解釈したものを見ただけなので。この点に留意することはすごく大切だと思う。

*2:この人間の両親に捨てられたという設定は少なくともポリネシア神話のポピュラーなものではないと思うんだけれど、映画オリジナルで考案されたものなんでしょうか。

*3:このギリシア神話っぽさがもともとのポリネシアの神話にも共通してあるものなのか、ディズニーの西洋文化の視点を通したことで付加されたものなのかは気になるところです。

Sarah Howe, 'Tame'(2017年1月①)

文学 English Poetry in 21st Century

昨年秋に購入してからなかなか読めていないサラ・ハウ(Sarha Howe)の詩集Loop of Jade(2015年のT.S. エリオット賞受賞作!)より1篇訳してみたいと思います。本当は最後まで読みきってからレビューしようと思ったのだけど、それだといつまでかかるかわからないので。わたしの訳でどこまで伝わるかわかりませんが、物語の展開力が凄まじい詩です。

Loop of Jade

Loop of Jade

サラ・ハウ「従順」


「娘よりもガチョウを育てる方が益になる。」
ー中国の諺


これは木こりの娘の物語。生まれたとき、ベッドの脇には灰の箱が置かれていた、

万一に備えて。赤ん坊が産声を上げる前に、彼はその顔を灰に巻き込み、押さえた。過多の出血で弱りながら

新生児の母は彼の手を止めようとした。彼は庭に彼女を引きずり出し、いつもの枝で

彼女を鞭打った。それが森の魔法であるなら、人々は決してそうは言わないけれど、しかし彼女は変身した



傷痕の波打った背は、鞭の下で、硬い外皮になり、裂けて樹皮の覆いになった。平伏した膝は

砂っぽい地面を掘って根を張り、水を求め、労働の染み入った指先は伸びて

枝となった。その木ーライチの木をー彼はまるで妻のように呪いつづけたーその無益で貧弱な

果実を。一方、少女は生き延びた。仄白い灰の産毛をつけ、顔をぐっと丸め込んだ、小さなガチョウの雛。



彼は彼女をメイ・ミン、名無しと呼んだ。彼女は話し方を習わなかった。その人生は父の悲しみに傷つけられた。

嘆きには力があるからー顧みられることのない対象にとってさえ。彼は娘を井戸に

落とすべきだったのだ。それなら少なくとも忘れられた。時折彼が仕事に取り掛かり、斧を持ち上げ、

弧の真っさらな清潔さを眺めていると、娘は彼の肘に頭突きをしたー何度も、何度もー落ち着きなく



怒りに達し、彼が彼女を振り払うまで。しかしこの無言の申し立てに意味があるのかは、どちらにもわからなかった。

子の唯一の慰めはライチの木の下で寛ぐことだった。揺れる枝が

言葉のない眠り歌を彼女に囁いた ライチは用心深く見つめ、頭上を野生のガチョウが往来していた。

果実と、ガチョウと。彼らは娘の成長を記録していた。彼女は鳥たちに加わることを熱望はしなかった、熱望が



盲目の本能を超えた意志を示唆するなら。秋が深まったとき、彼女は首を遠くまで伸ばした、ガチョウたちが

雲のかかった丘の間を旋回するのを見ようとしてー首は伸び続けたー口ばしになるまで。桃色のつま先は

水かきと爪を生やしはじめた 無力な腕は羽となり力を持った。ガチョウの娘は

飛び上がって矢のような群れに加わった 一つの目的と傾向によって

繋がった者たち、彼女は彼らの向かう先を知っていた



そして彼らの求めも。彼らは一年以上、空を渡った、しかしどこへなのかーどのツンドラの荒野を渡ったのかー

わたしは聞いたことがない。物語はそこで終わるという人もいる。しかし野生のガチョウの行く道を知る者は

帰る義務も知っている、最初に暮らした場所へ戻る義務も。さあこの話を完成させよう。春のおわり、木こりは

庭に飛び込んだガチョウを罠にかけるーまるで知っていたように。筋の張った首を掴み



肉切り台に、ライチの幹から切り落とされた十字の木に押し付ける。一撃で。益は、損失になる。




the original text is from Sarah Howe - Poems.

"Let this suffice"(さあこの話を完成させよう)から一気に糸を手繰り寄せる圧倒的な展開力にわたしは度肝を抜かれたんですが、いかがでしょうか。非常に酷なお話なんだけど、甘い解放の夢想で終わらせずに簡単じゃない現実を見せつけつつも、女性の犠牲をロマンティサイズすることもなく、酷い暴力や出口の見えない家父長制に対する納得のいかなさを滲ませながら素晴らしく制御された筆致で物語を語り切っていて、なんていうかとにかく凄い。

また、この詩を読んだ後にハン・ガンの小説『菜食主義者』を読んだんだけれど、あの小説で見られる女性への暴力や抑圧、それに対して植物化していく女性の表象なんかは、この詩の冒頭で描かれる母のライチへの変身を思い出させた。たぶん『菜食主義者』を読んだ人にはなんとなく言わんとしてることが通じるんじゃないかと思うんだけど、どうだろう。現実のわたしたちが植物化していくことはないけれど、これらで描かれた暴力や、もう植物になってしまいたいと肉体も心も外皮に覆われて閉ざされていく感覚は決して他人事ではないとわたしは思う。


ほんとはもっと考えるべきことがある詩だと思うんだけど、わたしの頭が回らないので(たぶん寒すぎるのも一因だし、サラ・ハウの詩は正直かなり難しい)とりあえず紹介するに留めておく。今年はできるだけ多く、コンテンポラリーな詩を紹介したい。

Day 3: My 1st diaversary, or a diagnosis story

English A day in the life of a type 1 diabetic

Let me talk about this topic in English, even though it might prevent people who visit the blog from reading this post. After getting type one diabetes, I became even more eager in learning the English language because I wanted to be able to talk about my disease in the language. Maybe now is the time to prove my improvement and practice writing about my life with diabetes.

 

So, I was diagnosed with type one diabetes on January 3 last year. But the very first sign appeared on December 27 in the previous year. I cleaned up our bathroom and it was quite a pain (the bathroom was terribly dirty). I felt so exhausted that I fell asleep right away and couldn't do anything next day. At that point I thought it was because cleaning the bathroom was a tough job. But apparently, it was actually because of diabetes. Getting tired easily is a typical symptom.

On the new year's eve, it happened. I already didn't feel good when I woke up in the morning. It was difficult for me just to sit straight on the chair and have breakfast. The whole of my body hurt, especially my back. I was supposed to go to part time job, but I threw up what I'd eaten and decided not to go. I couldn' t eat or drink so I got seriously dehydrated. You might suspect I got the stomach flu but I never suffered from diarrhea. I had no idea what was going on.

Instead, I suffered from nightmares. I had a poor, dystopian SF-ish dream at night. It's a little sad that my brain tried to persuade me of the cause of my critical situation by producing a silly story. The year of 2016 had already come. Can't think of any worse way to start a new year than this.

In the early morning on the new year's day, I decided to have an ambulance called because my sight was getting yellow. The whole world was turning into the works of Van Gogh. I felt death at that moment.

Actually I don't remember clearly what happened afterwards. I finally suffered from impaired consciousness. What I can recall vividly is that a doctor told us my blood sugar was over 1100. We were confused because we didn't know what average blood sugar was. Normally, it is around 100. Now you know how lucky it was that I was alive with this extremely high blood sugar. Then I was taken to the ICU, and the doctors and nurses worked hard to get my blood sugar back to nomal level. To tell the truth, throughout this, I was very defiant. I complained about everything and even swore. It's embarrassing but couldn't be helped because my brain didn't work properly. (Besides, some of the staff were rude.)

On January 3, I moved back to the hospital which I was first taken to and my doctor said I had developed type one diabetes. Soon I started studying about the disease. I'm good at studying so I learned a lot quickly. But what helped me most to accept the life with diabetes was a novel, The Martian. I talked about how it geve me courage before so I'm not going to do that here. Instead what I want to say here is that stories can defenitely help you. Even if our bodies and minds constantly change, stories are always there, stories that we can ask for a help.

 

It's been a year since I was diagnosed with type one diabetes. Today I went to see my doctor and my latest A1c is 6.5, which is not bad. I treated myself to a nice lunch and a piece of tasty cheese cake because I worked hard for this past year. This is how I celebrated my 1st anniversary.

Top 5 Films in 2016(好きだった2016年の新作映画)

映画

あけましておめでとうございます。気づけば2017年が始まってしまいました。昨年後半はブログを本格的に再開し、思いがけずいろいろな方に読んでいただける機会に恵まれ、書いていて非常に楽しい下半期でした。まあ年末にかけてほとんど書けなくなってしまい相変わらず自分は勤勉さに欠けるなあと思うのですが、趣味でやってる以上自分が楽しく書けるのが一番なのでね。今年もちまちま書いていくと思うので、よかったらお付き合いください。

 

 

前置きが長くなりましたが(なぜなら無計画に書いているから)、本題の2016年ベスト映画5本いきたいと思います。母数が少ない上に、評判のいいもの中心だったのでどれもだいたい気に入ってるんですけど、一応昨年日本で公開(Netflix含む)されたものから5作特に好きなものを選んで軽くコメントします。

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  1. 『ディア・ホワイト・ピープル』
  2. 『シング・ストリート 未来へのうた』
  3. ズートピア
  4. スター・トレック BEYOND』
  5.  『メカニック:ワールドミッション』

 

ベスト4まではすんなり選べたのですが、5番手を選ぶのに難儀しました。特に『ディア~』や『シング・ストリート』と対になっていると言える『DOPE/ドープ!!』を入れるべきかどうかでかなり悩んだのですが、最終的にせっかくならわたしらしいのがいいよね、と思って『メカニック』にしてしまいました。

 

dakotanian.hatenablog.com

 上で書いたように、めちゃくちゃだけど『スカイフォール』パロディとしてどうにか機能している本作はアクションスター、ジェイソン・ステイサムの生まれ直しを徹頭徹尾イサムてんこもりで祝福する最高の一作です。

4位は『スター・トレック』新作を。ソフィア・ブテラ演じるジェイラのアクション、彼女とサイモン・ペグ=スコットとの友情、カーク・スポック・マッコイのトライアングル、合言葉のLet's make some noise!などなど、最高だった箇所を断片的に挙げてくだけでもキリがないんですが、ストーリー自体は現代版にアップデートされた古典的アメリカン・ナラティブ=mobility(移動性・動き続けること)のお話であったように思います。mobilityはフロンティアを求め開拓を続けてきたアメリカ社会伝統の価値観・精神性なわけですが、『ズートピア』のような映画が撮られるようになった現代のコンテクスト(ちょっと後述しますけど)に沿えば、それは"try everything"し続ける精神とも呼応するわけで、実際この『スター・トレック』もいろいろな試みや多様な社会の表現(スールーの同性婚やあらゆる種族から形成される共同体とか)がありますよね。今回カークやスポックが直面する「この旅を続けることに意味はあるのか?」という問いは彼らの私的な領域を超えて、「終わらない旅/試みを続けること」それ自体の物語として様々なレベルで読むことができるのがいいなと思ったのでした。

長くなってしまったのでさくさくいきたい。3位『ズートピア』は好きというよりも、こういう映画をディズニーが撮ってくれたということもあり、わたしのなかである種のスタンダードになった作品です。ツイッターに以前書いたことをそのまま書きますが、この映画、そして主題歌"Try Everything"の好きなところは、トライする以上失敗は避けられない、と差別的な言動をとったり偏見を持ってしまったりすることへの「許し」がある点。多様な社会には多様な意見や利害があり、絶対の正解なんて存在しません。だから誰だって間違いうるけれど、それで終わりじゃない。むしろそこからがスタートなんだと後押してくれるこの映画は十分に正しくはないかもしれないけれど誠実であると思います。

2位『シング・ストリート』は昨日サントラを聴き直しはじめて、やっぱり最高だなあと急浮上した一作。ジョン・カーニーは前々作『ONCE ダブリンの街角で』と前作『はじまりのうた』である男女が再スタートを切るために期間限定のボーイ・ミーツ・ガールを果たす話を描いていて、主人公らには最後に戻るべき現実や関係性がありましたが、ティーンの物語である本作ではボーイ・ミーツ・ガールが期間限定のものではなく、その後にも踏み込まれていて、夢が夢で終わらず広がっていくファンタジーの色合いが濃くなっています。あんまり書いてしまうとだいぶネタバレになるので難しいんですが、最後に流れる"Go Now"という曲は『ONCE』主演のグレン・ハンサードと『はじまりのうた』で好演していたアダム・レヴィーンの合作で、アダムが歌っています。これを知ると、ああやはり『シング・ストリート』のラストは過去作あってのものなんだなあ、グレンとアダムが背中を押してくれているんだなあと感慨深くなります。 

1位はですね、Netflix配信の『ディア・ホワイト・ピープル』です。10月にいよいよネトフリ様に加入してしまい、見たいものが多すぎて逆にてんやわんや、今もまったく使いこなせてなかったりするんですが、加入時のお目当ての一つがこれでした。テーマとしては『ズートピア』なんかと相通じていて、人種・性・階級・趣味・能力etc.が複雑に入り組んだ多様な社会では誰もかれも白であり黒であるということを、矢継ぎ早に問いを投げ、変容しつづける多層・多面体の社会の動きを止まることなく追い続けることで容赦なく語り切った、もう圧巻というほかない映画。新しいけれど、若者たちが「自分ってなに?」を探す青春映画のフォーマットもきっちり押さえていて、クライマックスにパーティーを設定し、学園ものとして着地する手さばきもお見事でした。スピード感あるダイアログが気持ちいいので、たまにiPhoneで断片的に好きなシーンだけ見たりしています。

  

以上、昨年のお気に入り映画5本でした。今年はもう少し見る本数を増やして年末にベスト10を選べればいいな(あくまで希望的観測)。それと昨年は当日にチケットを譲っていただいてという形ではあったものの、初めて東京国際映画祭に行きました。今年は自力で映画祭もいくつかチェックできれば、と思います。

二つのスーツケース/『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』

映画

相変わらずの周回遅れぶりですが、『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』を見ました。ちなみにわたくしハリー・ポッターはど真ん中の世代ですが、これまでほぼ完全にスルーしています。特に理由はないんだけどなんとなくね、、でも新シリーズが始まるし、いい機会かなと思い、遅ればせながら映画館に足を運びました。ちゃんと公開中に見に行ってよかった。


1926年、アメリカでは魔力を脅威に感じるノーマジ(人間)と魔法使いとの衝突を避けるため、評議会MACUSAが魔力の存在を非魔法界から隠し通している。これに対して闇の魔法使いグリンデルバルドはノーマジとの戦争を起こすべく、各地で襲撃を行う。こうした社会背景のもと、主人公の英国人魔法使いニュート・スキャマンダーはNYに降り立ち、持ち込んだ魔法動物たちをスーツケースから逃してしまう。彼はノーマジと魔法使いの交流を固く禁じるMACUSAの態度を批判し、魔法動物の研究者として魔力や魔法動物は危険なものではないと理解・共存を訴える。


まさに魔法使い版X-MENといった趣で、人種隔離、公民権運動、セクシャルマイノリティへの差別などの現実の歴史・政治社会問題の寓意が作中あちこちに散りばめられている。見た目にはノーマジと変わらないけれどその能力をひた隠しにし、ノーマジと一切交わってはいけない魔法使いは、抑圧されたセクシャルマイノリティとも、白人からセグリゲイトされた有色人種の人々とも解釈できる。そんな中、中身が漏れてしまうニュートのスーツケースは、社会的に疎まれる個性や特性に対して正直であり、自己を圧し殺さないニュートの柔軟さを象徴している、といったことは各所で指摘されている通り。こちら↓の記事でも、これらのことがまとめられています。

革命的ドジっ子の物語におけるセクシュアリティとトランクの認識論〜『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(ネタバレあり) - Commentarius Saevus

こちらを読んでいて思ったのだけれど、このスーツケースの特徴あるいはニュートの稀有さとして、中身が漏れ出ることに加えて、他者をその内側に招き入れられるというのがある。スーツケースの中にはニュートの研究室があり、また魔法動物たちの生息地が広がっている。中に足を踏み入れたノーマジのコワルスキーが「こんなの僕の頭じゃ思いつかない」と感嘆するように、まさにファンタスティックな世界がそこにはあるわけだ。もちろんスーツケースの中はプライベートな領域(魔力=性的指向とするなら特に)なので必ずしも他者を招き入れてやる必要はない。けれども、コワルスキーや観客のわたしたちみたいなノーマジからすれば、その内に入れてもらうことで魔法のおもしろさや魔法動物たちの雄大さ・美しさを知ることができる。自分をオープンにできるニュートの稀有さは、この物語で個人の多様性や多様であることの本来的な素晴らしさを理解する助けになってくれていると思う。


そして作中にもう一人、スーツケースを持ち歩き、その中身を見せてくれるキャラクターがいることも見逃せない。缶詰工場で働きながらパン屋開業を夢見るジェイコブ・コワルスキーは手づくりのパンをスーツケースに詰め、融資を望んで銀行を訪れる。魔法使いのスーツケースの中身が、例えばセクシュアリティを示唆するとしたら、コワルスキーのそれは創造力や夢を表象していると言えるんじゃないか。いずれにしてもスーツケースはその人らしさ、アイデンティティやパーソナリティと密接に結びついている。その中に他者を招き入れることを厭わないニュートと、中身を見せ自分の夢として語るコワルスキーの間に友情が芽生え共闘できたのは、きっと必然でしょう。


しかしニュートが魔法動物たちを逃がさないようスーツケースを固く閉ざしておかなくてはならないように、コワルスキーも融資を得られず、夢の詰まったスーツケースを一度は閉じることを強いられる。生きていると、わたしたちの荷物=個性は様々な理由から小さなスーツケースに押し込められ、その表出を社会や、時には自分自身によって禁じられてしまう。

先に書いたようにスーツケースの中身は私的なものだから、いつでもどこでも全てを晒け出す必要はない。だから鍵がついているし、他人の鞄を勝手に開ける人はまずいない。ニュートだって何でもかんでもオープンにしているわけではなく、彼にも公にしない過去がある。でもスーツケースは、例えば家の奥深くに大事にしまわれた金庫とは違い、手荷物としていろんなところに持ち運べ、リンクの記事でもご指摘があるように、必要とあらば中身を入れ替えたりできるし、鍵が壊れて中身が出る可能性もある。

個性とかアイデンティティと呼ばれるものはそれくらい不安定で、だからこそフレキシブルなんじゃないだろうか。わたしたちはそれを公にしてもしなくてもいいのだけれど、ニュートのようにその表出を恥じず、時にはコワルスキーのように、自分の創ったものを誇らしげに掲げ、夢を語ることができたらーーそんな願いが、この物語には込められていると思う。

A handful of Christmas poems by Wendy Cope

文学

Translated by me.



ウェンディ・コープ「クリスマスの詩」

クリスマス、小さな子どもたちは歌い、陽気に鐘が鳴る
冷たい風に手や顔はひりりと痛み
幸せな家族たちは教会に行き、愉しげに交友を深める
こういうことの全部が驚くほど不快でしょうがない、あなたがシングルなら。


The original poem: 'A Christmas poem' is here.
The Great Christmas Compendium: A Christmas Poem - Telegraph

ウェンディ・コープ「もう一つのクリスマスの詩」

クリスマスのやつが、またやってきた。
親愛の杯を掲げよう:
地球に平和を、人には思いやりを、
そして男たちに皿洗いを。


The original poem: 'Another Christmas Poem' is here.
Poetry Friday: Another Christmas Poem by Wendy Cope |

クリスマスですね。最近全然更新できていないのですが、せっかくなのでクリスマスの詩を2篇紹介して、ささやかなクリスマス・ギフトとしたいと思います。どちらもウェンディ・コープ(Wendy Cope)というイギリス人詩人のシャープなユーモアが光る小品。1篇目は、ああ独り身のクリスマスが惨めと言われるのはイギリスでも同じなのだなあと感慨深くなります。4行きっちり脚韻を踏む律儀なリズムの良さが、なんというかいい意味で癪にさわる。2篇目は"goodwill to men"(人には思いやりを)のmenの意味を次の行で「男」として拾って、「彼ら(男たち)に皿洗いをさせよう」とさらりとフェミいことを言っています。こういう軽やかでユーモラスなフェミニズムのあり方ってイギリスらしいなと思う。


Thank you for coming to my blog. I hope you've had a wonderful Christmas :)