My Best 10 Cinema Experiences in 2017 / 2017年劇場公開映画 私的ベスト10

新作鑑賞数がとても少ないし、ちまちまNetflix限定を見ていたりするので、はてさて昨年の映画ベストはどうやって出そうかなと思っていたんですが、昨年映画館で見た作品の半券をベスト入りするかしないかで適当に仕分けしていたら、ちょうど10本ベストに選出したいものが集まったので、今回は劇場公開作に限定して私的ベスト10をご紹介しようと思います。ランキング作るのはめんどくさかったので、シンプルに鑑賞順で。

ちなみに選出の基準は、作品の完成度や自分の好みに添うかよりも、「昨年このタイミングで見て、自分の中で発見や驚きがあったかもの」なので、なかには好きだけど引っかかる点が少なくない映画もあるし、以下のコメントも作品によって長さや熱量が違うと思うけれど、それと好きの度合いに相関はあまりありません。それとネタバレはないと思うけれど、テーマに触れたり、全体を通しての考察めいたものを書いたりはするので悪しからず!

  • 『未来を花束にして』 Suffragette

邦題発表時にかなり話題になりながら、いざ公開されると意外と反応が静かだった気がする本作ですが、わたしにとっては上半期のベストでした。

20世紀初め、イギリスで起こった女性参政権運動。その指導者的存在だったパンクハーストなど有名な活動家に焦点を当てるのではなく、あくまで活動の最前線でデモの列をなして警察と衝突し、地べたを這った歩兵たちの闘争を撮ることに徹した、ゴリッゴリに硬派な映画。同時に、「街を破壊でもしなきゃ男たちは見向きもしない」と非常に好戦的な女性活動家たちを描きながら、男性の描き方もフェアなのがいい。例えば、主人公モードの夫サニーは男としての夫としての体面を保つことに囚われ、苦悩する。あるいは、活動を取り締まるスティード警部はモードに再三「お前は活動の駒でしかない」「使い捨ての歩兵だ」と忠告するのだけれど、組織(警察)のために駒となって動く点は警部も変わらず、彼のモードへの言葉はすべて彼自身に返ってくる。ここでのモードの返答のかっこよさといったらーー「歩兵であるのはあなたも同じでしょう。」彼女は自分が歩兵であることを否定はしないんだけれど、同じくそれを自覚しながら権威と秩序を保守するための駒として回収されていく警部とは対照的に、反乱の活動の駒となることを自ら選ぶ。まるで「使い捨ての存在だろうとも、何のために散るかくらい自分で選べるでしょう」と言わんばかりに。連隊を示す花をつけた帽子をはじめとする衣装も、モードを演じるキャリー・マリガンの片方の口角だけ上げる不敵な笑みも、最高にかっこよくて、とにかくかっこいい映画。(語彙力)


  • 『ムーンライト』Moonlight

皆さんそうだと思いますが、すごく公開を楽しみにしていた映画。Who are you?ではなく、Who is you?のお話。「あなたは誰?(Who are you?)」と問われれば、わたしの名前は〇〇で、仕事はあれこれで、どこそこの出身で……適当な回答を出せるけれど、「あなたとは何者?(Who is you?)」と目の前の人に尋ねられたら困ってしまう。だってそんなの、わたしもほんとにはよく知らないんだから。

見ていて真っ先に想起したのは、同じくアメリカ社会における黒人のステロタイプとそこからはみ出す(に決まっているのだが)個々人のselfを扱っている『DOPE/ドープ‼︎』。しかし、こちらが10代を主人公にしてアイデンティティの模索を描いた文字通りの青春映画だったのに対して、主人公シャロンの子供時代〜学生時代〜大人までを描いた『ムーンライト』はさらに一歩踏み込んで、「結局自分が何者かはいくつになってもわからないんだ」という結論に至っている。だから最後まで主人公シャロンを「彼はこういう人間です」とは言わない、その誠実さ・優しさ。人種のステロタイプジェンダー規範の呪縛を破ろうとする映画だけれど、じゃあ周りに押し付けられたのとは違う「本当の自分」を明確に打ちだせるのかといえばそれも違って、自分を決めるのは自分、でも自分にも自分のことはよくわからないし、突き詰めれば、よくわからないままの自分をただ生きることがどうしてこんなに難しくなってしまうのという、そんなことを描いた作品だと思う。だからこそ紛れもなくパーソナルなシャロンの物語なのに、すべての人の物語になり得る普遍性と政治性がこの映画にはある。


……っていうかですよ、子どもの頃好きになったちょっとやんちゃな幼なじみがアンドレホランドに成長してたらですよ、それはもうちょっとずるすぎると思うんだよね。


こちらはちゃんと感想を書いているので、よかったら読んでください。

人生を物語れ/『T2 トレインスポッティング』 - Who's Gonna Save a Little LOVE for Me?

月並みですが、本当にこれほど完璧な続編映画というのもないと思う。Choose life. やけっぱちな希望と絶望をないまぜにしたこのフレーズは、今「選べなかった人生」となって返ってきた。それでもどうやらまだ人生は終わらないから。あと30年どうにか生きなきゃいけないから。

その30年を生かすための力はたぶん「物語」なんだ、と答えを見出していく終盤が好き。人生は選べなかった。ならば選べなかった人生を語れ。この20年、そしてこれからの30年の語り手として彼の存在感が大きくなるとは予想していなかったけれど、一作目から彼にはその資質があったのだなあ、と振り返って思う。(上の記事を読んでね)


  • 『スウィート17モンスター』The Edge of Seventeen

2017年、映画納めは『勝手にふるえてろ』だったんだけれど、こちらの主人公ヨシカが『スウィート17モンスター』の主人公ネイディーンにちょっと似ていた。つまり、自分は世界を一歩引いたところから見渡せていると思っていて、世の中みんなくそやろうで、でもわたしが一番残念なはみ出し者で(だから特別で)、だからわたしなんて後ろに引っ込んでたほうがいいですね、、、っていう。あれ、なんだろう、これわたしかもしれない。

そんな自意識を拗らせに拗らせたネイディーンが、友情にひびが入ったり、恋愛に興味をもって危なっかしいことをしたりと、いろんなやらかしを経て成長していくお話なのだけれど、背景にある倫理観がとても健やかで好ましい。それを支えているは、ウディ・ハレルソン演じるハイスクールの先生(好演!)、ネイディーンの兄、彼女に好意を寄せるアーウィンといった男性キャラクターたちで、彼らの背骨の倫理観が真っ当なので、ネイディーンがどんなにはちゃめちゃして失敗してもどこか安心して見ていられる。そんなふうに女の子が安全に冒険し成長できる映画ってすごくいいなあと思う。

また、これはネイディーンの物語だけれど、同時に彼女以外の人々の物語でもある。舐めてかかっていた先生には父や夫としての顔もあるし、リア充な兄貴だっていつも自慢の息子であることのプレッシャーを感じているし、母親も一人の人間で、娘と一緒にいくつになっても成長していくものーーそうやって誰にでも事情があることを知り、自分以外に目を向けることがネイディーンの成長の一歩目になるから彼女だけの物語にはなり得ない。そこがよかった。


正直もうマーヴェルの諸々にはまったくついていけてないし、前作はさほど思い入れがなく、今作も引っかかるところはあるよなあと思いつつベストに入れたのは、ある一点にとても嬉しくなったから。

その一点というのは、「父になる」ことについての物語でありながら、神話世界の父権主義には思いっきり中指を立てているところ。カート・ラッセル演じるエゴは様々な種族の女性と関係を持ち、理想の楽園を創り出す、まさに神話的な父/創造主として描かれているのだけれど、その名がまさに「エゴ」であるように、本作はそうした父権主義あるいは父権主義的な知性を、独善的で帝国主義的で、つまりはクソ喰らえだわと真っ向から否定している。だからこれは父性の映画であって、父権の映画ではない。神話の男性中心主義を解体するという点では『モアナと伝説の海』に通じてもいて、GotGシリーズはいろいろ危なっかしいところはあれどやっぱりモダンなのだなと思った。

あとOPが大好きすぎて、夏に旅行に行ったとき機内でずーっとそこだけリピートして再生していました。ベイビーグルートと一緒にダンスしたい。


  • 『メッセージ』Arrival

こちらは下の記事で言いたいこと全部書いているので、ぜひ読んでください。

映画『メッセージ』と、言葉、詩、物語 - Who's Gonna Save a Little LOVE for Me?

「時間と言葉/物語」というのが昨年わたしの中で一つ大きなテーマだったので、そういう映画や詩を特に好んで鑑賞していました。人間の不可能性や限界を突きつけるものとして古来から捉えられてきた「時間」に対して、人間の可能性や創造力である「言葉」あるいは「物語」は、時間を超えて人間を無限の領域に連れていってくれるものなのか、はたまた時間に縛られ、結局は人間の無力を証明するだけのものなのか。詩人やあらゆる表現者たちが、その狭間で揺れながら様々な答えを模索してきたけれど、この『メッセージ』もある一つの答えを提示してくれている。

それとジェレミー・レナーの美しさが昨今では特に際立っているので、それだけでも見る価値がある映画。久しぶりに見惚れてしまったよ。。


iPodで音楽を聴くということは、毎日の生活をサントラ化すること*1、プレイリストをカスタマイズすることで日々の一分一秒をカスタマイズすること。ちょっと歩いてコーヒーを買いに行くだけでも雰囲気や気分にあった音楽をプレイしたい。いろんなシチュエーションで、それに相応しい音楽を聴きたい/持ち運びたい。iPodはそれを可能にしてくれる。イヤホンを挿せばいつでもどこでも「自分だけのサントラ」が再生できる。

けれども、本当は生活のすべてを好きなようにカットして、エディットして、カスタマイズすることはできない。イヤホンはいつかどこかで外れてしまうし、人生には巻き戻しボタンも一曲戻るボタンもなく、一度汚れた手はそう簡単にきれいにならない。そういうことを、本当はまだ「ベイビー」なのに犯罪の世界に放り込まれ、自分の腕一つでどうにかするんで僕には構わないでくれてけっこうですよ、というおませな主人公(アンセル・エルゴートくんのベイビーフェイスがかわいい!)が知っていくビルドゥングスロマン。ラストバトルが"Brighton Rock"なのがQueenファンには嬉しかったね。これもGotG vol2と同じくOPをエンドレスに再生できる映画。


この10作で順位をつけるのは難しいのですが、本当は一位だけ決まっていて、それが『ダンケルク』なのです。クリストファー・ノーランの作品はだいたいどれも好きなんだけれど、年間の一位に選ぶほどのものはこれまでなかったのですが、これはやられてしまいました。

その理由の一つは、クリストファー・ノーランが常に「時間」とそれが人の意識にどう働きかけ、影響を残し、プリズムを形成するかといったことを探究している作家であり、それが時間と物語というわたしの昨年のテーマにうまいこと合流して、いろいろ考察を深めさせてくれたからだと思う。

『メッセージ』をはじめ、わたしがブログ・ツイッターで紹介してきた時と物語にまつわる映画や詩では、概して時間は過去から現在へ流れ過ぎ、人間の有限性を示すものであるのが前提になっているのだけれど、ノーランは時を「主観的に感知/認識される概念」として扱っている。どんな出来事もそれを体験したり目撃したりした人の主観によって認知される経験となり、それぞれの経験はそれぞれの視点や立場によって異なる多元的な時間世界(≒記憶)の中で広がりながら時おり収斂される。そこで描き出される物語、というよりロマンを、ノーランは追い求めている気がする。

本当はきちんとブログ記事にまとめていられたらよかったんですがタイミングを逃したので、以下ふせったーなどから切り貼りですが、ご参考程度に。

@Dktnianさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

@Dktnianさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

@Dktnianさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

Moooh(百) on Twitter: "ダンケルク。2ケルク目でわかった(し、誰かご指摘済みかもだ)けど、これ潮汐についての映画だったんだね。潮が干いては満ちるを繰り返すように、この映画には行くか引くかしかない。"

This film is dedicated to all those whose lives were impacted by the events at Dunkirk.

この映画を、ダンケルクでの出来事にその人生・生活が影響を受けたすべての人々に捧げる。

冒頭の献辞が非常にノーラン映画らしかった。この映画が捧げられているのはあの時ダンケルクにいた人だけではない。イギリスのどこかで兵士の帰りを待っていた家族、物資を支援した人々、もっと言えば、ダンケルクを生き延びた兵士の子孫や、さらには今こうやって日本の映画館でスクリーン越しに映画を見ているだけのわたしたちだって、ある意味では「ダンケルクでの出来事に影響を受けた」者だ。ダンケルクというフランスの街で行われた世紀の救出作戦が、あの時どのように人々の意識に刺さって根を張り、また外へと波及して、今に至るまで記憶のプリズムを分岐形成しているのか。そうした経験としてのダンケルクを描いた本作は、戦争映画というより戦争体験にまつわる映画だと思う。

…….こう小難しく考えずとも、とりあえず『インセプション』以来のイケメンハンターぶりを発揮してくれたノーラン先生に感謝しながら、ひたすら暖かそうな英国産ニットを愛でたり、真っ白い食パンに苺ジャムを塗り、マグにたっぷり紅茶を用意してダンケルク飯ごっこをしてりするだけでも楽しい一本です。


  • 『ゲット・アウト』Get Out

これはあんまりうだうだ書いちゃうとおもしろくないのでとりあえず見てください!それでもし気が向いたら下のリンクも読んでみてね!くれぐれも映画を見る前には開かないでね!

@Dktnianさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

@Dktnianさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

恐怖はどこからやってくる?(無)意識とアメリカン・ゴシック/Emily Dickinson, 'One need not be a chamber to be hauted'(少しだけ映画『ゲット・アウト』) - Who's Gonna Save a Little LOVE for Me?


ポスターにもはっきり記された、"Based on a true story"のフレーズ。実話に取材した映画ならばお決まりのこのフレーズに、本作ほど重みを持たせる映画も他にないだろう。これは「実際に起こった出来事・事実」に基づく話。それは、ホロコースト否定論を巡る裁判が実際にあったというだけではない。それは、ホロコーストは歴史的事実であること、その事実を否定し、生存者たちの尊厳を損ない傷つける動きがあったこと、事実を事実だと証明するのに裁判をするのはおかしな話かもしれないけれど、それを否定する者たちから守るために闘わなければならなかった/ならないことを、今一度明らかにする、そんな映画の清潔な態度を示した重要な言葉。

事実を嘘から守る話なので、法廷劇ではあるけれど、肯定派/否定派二者の駆け引き、どちらが勝つか、といって法廷のサスペンスは念入りに避けられていて、むしろ映画の焦点は尊厳とリプレゼントの正解なき問いに当てられている。誰のために誰が行う裁判なのか。実際に傷つけられ、権利が保障されるべき人の尊厳を守るには、どのような形で彼らはリプレゼント(表象/代表)されるべきなのか。そこにはっきりした正解はないけれど、時に「自分の良心を他人に受け渡し」、我慢をして、チームで闘うことも必要だという映画の結論は正直であり現実的であり、でもとことん真面目で誠実であった。

ダンケルク』以来みんな大好きなジャック・ロウデンもいい役で出演しています。

なにせ法廷では常にレイチェル・ワイズ演じる主人公デボラの横に座っているからね!ポストイットを加えつつページを繰るジャクロが見られるよ!


                                      • -

以上、2017年劇場公開作のベスト10でした。他にも『ローガン・ラッキー』とか『アトミック・ブロンド』とか『ラビング 愛という名前のふたり』とか見た映画だいたいどれもよかったんだけれど、自分的にこれは!というワンダーの瞬間があったものを選びました。毎年言ってるけど今年は鑑賞数増やして、最近全然活用できてないNetflixでもいろいろ新しいものを見つけたいなあ。

*1:エドガー・ライト自身がそう言っているんだけれど、リンクの動画が切れてしまってたんで見つけられたら載せます。

恐怖はどこからやってくる?(無)意識とアメリカン・ゴシック/Emily Dickinson, 'One need not be a chamber to be hauted'(少しだけ映画『ゲット・アウト』)

エミリ・ディキンソンの詩でまた好きなものを一つ。翻訳するだけしてずーっと温めてたやつ。


エミリ・ディキンソン「取り憑かれるのに部屋である必要はない」


取り憑かれるのに部屋である必要はない、
家である必要はない、
だって脳には物質的な空間に優る
回廊があるから。

外界の霊に
深夜遭遇するほうがよっぽど安全、
いっそう白いあの主人との
内なる邂逅に比べたら。

石に追われて、
修道院を逃げるほうがよっぽど安全、
月明かりもなく、孤独な場所で
自分自身に出会ってしまうのに比べたら。

私たち自身、隠された私たち自身の向こう側、
それこそが最も驚異的なのだ
家の中に身を潜める暗殺者なんて
ちっとも恐ろしくはない。

用心深い者は、リボルバーを持ち、
扉に錠をかけながら、
もっと近くにいる
より恐ろしい霊を見逃している。


Translated by me.
Original texts here.
One Need Not Be A Chamber To Be Haunted, Poem by Emily Dickinson - Poem Hunter

わたしたちが何かを恐れるとき、その恐怖の源流はいったいどこにあるのか?

そんな恐怖のメカニズムを考える上で、この詩は短いながら示唆に富んでいる。取り憑かれる(to be haunted)のは屋敷や部屋といった物理的空間に限らない。人の頭の中にはそれよりも深く果てしない空間が広がっている--。ディキンソンはゴシック文学のお化け屋敷や幽霊を引き合いに出しながら、それら外的な表象よりも人の意識や内なる自己といった内的世界こそ深い闇を抱えた恐ろしいもの、恐怖の生まれる源なんだと淡々と語る。


大学時代、こうした外的なものへの恐れではなく、人間の意識や精神の"内なる恐怖"にフォーカスしているのがアメリカン・ゴシックの特徴だと習ったことがある。特にアメリカの歴史的特殊性を考慮して注目されるのが、開拓時代からのアメリカ先住民への恐怖、また奴隷制以来続く黒人への恐怖といった、異人種・異民族間のもの、要するに(言うまでもなく歴史的にアメリカ文学を独占してきた)白人文学に描かれる白人の非白人への(無)意識の恐怖だ。例えば、可愛がっていたはずの黒猫を虐待して殺した後、それとそっくりの黒猫が現れたことでいよいよ精神的に追い詰められていく男を描いた、エドガー・アラン・ポーの短編「黒猫」は、黒猫を黒人の表象として、黒人を恐れて攻撃する南部白人の心理を捉えた作品として読まれている。


ディキンソンの詩も、そんなアメリカの歴史を踏まえたゴシック詩としてやや政治的に読むことができるんじゃないかとわたしは思っている。最終連、「用心深いものは、リボルバーを持ち/扉に錠をかける」(The prudent carries a revolver, / He bolts the door)という箇所は、典型的なアメリカらしい自衛の態度を示している。銃をとり身を守れ、と。でも、本当は外界のものはそんなに恐くはないのだとディキンソンは言う。むしろどんなにしっかり錠をかけ、武器を装備しても、それでは自分の内にあるもっと恐ろしいもの、恐怖の源を見過ごすことになるのだと。ポーの「黒猫」で語り手を破滅させるのは、黒猫ではなく、黒猫を殺した語り手自身の罪悪感や悔恨であったし、先住民の居留地への強制移住をひとしきり終えた白人社会で流行したのは、先住民を懐かしむようなノスタルジックな冒険文学だったという。彼らが恐れていた対象は、彼らの恐怖を映し出す像であって、本当の恐怖の源流は彼らの意識深くを流れていたのかもしれない。





なんていうことを、先日『ゲット・アウト』を見ていてつらつら考えていた。内容を知ってしまうとおもしろさ半減なので、未見の方はここから先は読まないでもらいたいのですが、






ふせったーにて、『ゲット・アウト』はなかなかよくできたアメリカン・ゴシックだと思う、と書いたのは上のようなことを踏まえてでした。監督脚本のジョーダン・ピールがまさにこの映画を、アメリカ白人、とりわけリベラル層の無意識にある黒人への差別を描いた作品と評していたよね。

@Dktnianさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)


他者は自分の鏡であって、自分の欲望や憧憬、後悔、そして恐怖などを映し出す。その自己と他者の関係に構造的な力の不均衡が起こるとき、それは差別となって現れる。そんな差別する側の(無)意識にぐいっと踏み込んだ『ゲット・アウト』、モダンでありながら古典的なゴシックのナラティブに則っていているのではないかなと思う。

ちなみに映画を見てからずっとこのディキンソンの詩の翻訳を上げようと思っていたので、1ヶ月半も温めていたようですね。。まだ翻訳したきりアップしていない詩が何個かあるので、もし興味がある人がいれば年内に引き続き投稿しようかと思います。

Blythe Baird, 'Pocket-sized Feminism'(2017年12月①)

最近ちっとも詩が読めていないし翻訳もできていないので、以前ツイッターで紹介したら少し反響があったこちらを全文訳してみようと思います。ちなみに実際のパフォーマンス(slam poetry)では使われている言葉が少し違ったり、テクストにはない表現が含まれていたりするので、リンクのパフォーマンスの動画も見てみてね。

「ポケットに収まるフェミニズム


パーティーにいた、わたし以外の唯一の女の子が
フェミニズムを叫んでいる。観衆はこんなかんじ:
レイプをネタにしたジョークと、野球帽と、
発泡スチロールのカップの海、そしてわたし。
彼らはぽかんと眺めている、
彼女の口を、まるで大量の意見で
詰まりをおこした排水口みたいに。
わたしは彼女に共感の一瞥をくれるだけで
何も言いはしない。この家は
壁紙の女にふさわしい。話す壁紙なんて
何の得にもならないでしょう?
わたしは立ち上がりたいけれど、そしたら、
誰のコーヒーテーブルの静けさに
この男の子たちは足を置いて休むの?
わたしは立ち上がりたいけれど、それで
誰かがわたしの場所を取ってしまったらどうする?
わたしは立ち上がりたいけれど、それで
わたしがこれまでずっと座ってたことに
みんなが気づいたらどうする?わたしは罪悪感を覚える
自分のフェミニズムをポケットにしまっておくことに、
しまっておかなくても困らないとき、
ポエトリースラムや女性学の授業のとき以外は。
時には、世界を変えていくよりも
人から好かれたい日だってある。
時には、ドラッグ入りの飲み物に色を変えるマニュキュアや
夜に家まで送り届けてくれるようなアプリ、
口紅に見せかけた催涙ガスを作り出さなきゃいけなかった
事実を忘れたい日だってある。
ある時、わたしはパワフルだってある男の子に言ったら
減らず口叩くなと返された。
ある時、ある男の子にミサンドリーだと責められた。
世界を支配できるとでも思ってんの?わたしは答えた、いいえ、
わたしは世界を見たいだけ。
ただ知りたいんだ、
世界は誰かのためにあるってことを。
ある時、父はセクシズムは死んだと言いながら、
舌の根も乾かぬうちに、わたしに
常にペッパースプレーを携帯するよう注意した。
わたしたちはこの絶え間ない恐怖を
女の子であることの一部として受け入れている。
安全に家に帰り着いたらお互いにメッセージしあって、
男の子の友人たちは同じようにしなくてもいいってことは
考えもつかないでいる。
女を真っ二つに切断したら
それってマジックのトリックって呼ばれるんでしょ。
それがわたしたちをここに招待した理由、
そうじゃない?だって美人のアシスタントなしの
ショーなんて存在しないじゃない?
わたしたちは、わたしたちの裸のポスターを飾って
わたしたちの首を絞めることを空想し
わたしたちが殺される映画を見ている
男の子たちに囲まれている。わたしたちは
ニュースや、牛乳パックに載ってる行方不明の女の子、世界の端っこのほうで行方知れずのなった女の子について
わたしたちに警告する男の人たちの娘だ。
彼らはわたしたちに注意深くあれとせがむように言う。安全であれと。
そしてわたしたちの兄弟には、外に出て遊んでこいと言うんだ。


The texts are here:
Blythe Baird – POCKET-SIZED FEMINISM The only other girl at the...

The performance is here:
Blythe Baird - "Pocket-Sized Feminism" (Button Live) - YouTube


ワインスタインに始まる一連のセクハラ・性暴力の告発に関して、「普段フェミニズムを標榜していながら、なぜ今まで声をあげなかったのか?」という声が聞こえることもあったけれど、システムの問題をそのシステムの一員である人間が指摘すること、特にそのシステムにおいて大きな力を持つ者に異議を唱えることの難しさが、この詩を読めば/聴けばわかる。「席を立った隙に誰かがわたしの席に座ってしまったらどうする?」という箇所は、自分が身を落ち着かせた社会/コミュニティにおけるポジションを正義のためにやすやす手放すなんてできない、その恐怖をユーモラスな比喩で表現していて特に好きなところ。動画のパフォーマンスでは具体的な体験がいくつか引用されていて、その一つ一つがどこかで聞いた話、身に覚えのある話で身にしみる。彼女の他のパフォーマンスもとても大胆で率直で良いので、興味を持たれた方はいろいろ見てみてください。

Warsan Shire, 'Backwards'(2017年7月①)

人生が過去から現在未来へと無情に流れていく時間の堆積である以上、いかに時に抗うかは常に詩人の命題の一つであり続けるだろう、というような話を再び。

ワーザン・シャイア「後ろ向きに」


サーイド・シャイアへ

後ろ向きに部屋へと歩いてくる彼の姿で詩を始めてみよう。
彼はジャケットを脱ぎ、そこに生涯腰を落ち着ける、
こうやってわたしたちはパパを取り戻そう。
わたしは出た鼻血を戻すこともできる、蟻が巣穴に駆け込むみたいに。
わたしたちの体は小さくなり、わたしの胸は消え、
頬は柔らかくなって、歯はまたガムを噛む。
(今度は)わたしたちを愛される存在にできる、ただ望みを言葉にして。
彼らが一度でも同意なしにわたしたちに触れたなら、手を切り落としてしまおう、
わたしは詩を書いて、消し去ってしまえるんだから。
義理の父さんは酒をグラスに吐き戻し、
ママの体は階段を転がり上がって、骨は正常な位置に戻る
ママはたぶん赤ちゃんを産む。
わたしたちもたぶん大丈夫だよね?
わたしはこの人生を丸ごと書き直して、今度は愛に溢れたものにする
その先は見越せない。

その向こうは見越せない、
わたしはこの人生を丸ごと書き直して、今度は愛に溢れたものにする。
たぶんわたしたちは大丈夫。
たぶん彼女は赤ちゃんを産む。
ママの体は階段を転がり上がって、骨は正常な位置に戻り、
義理の父さんは酒をグラスに吐き戻す。
わたしは詩を書いて、消し去ってしまえるんだ
一度でも同意なしにわたしたちに触れたなら手を切り落としてしまおう、
わたしたちは愛される存在になれる、ただ望みを言葉にして。
頬や柔らかくなり、歯はまたガムを噛み
わたしたちの体は小さくなって、わたしの胸は消えていく。
出た鼻血を戻すことだってできる、蟻が巣穴に駆け込むみたいに
そうやってわたしたちはパパを取り戻す。
彼はジャケットを脱いで、そこに生涯腰を落ち着ける。
後ろ向きに部屋へ歩いてくる彼の姿でこの詩を始めてみよう。


拙訳
Texts from here
Backwards by Warsan Shire | Poetry Foundation


ワーザン・シャイア(Warsan Shire)といえば、ビヨンセのヴィジュアル・アルバム Lemonadeでその詩がフィーチャーされたことで有名な、イギリス国籍のソマリ人詩人。わたしにとっては読みたいなーと思いつつも積んでしまっている詩人の一人で、他に読んだことがあるのは難民として祖国を離れざるを得なくなることについて書かれた'Home'や女性性を扱った'For Women Who Are Difficult to Love'、'The House'など。どれも力強く痛切な、この時代の詩。


今回和訳してみた'Backwards'はワーザンの兄弟サーイドに捧げられていて*1、ここに出てくるweはこのきょうだい二人を指している。

that's how we bring Dad back

そうやってわたしたちはパパを取り戻す

どうやらこれは家を出ていった二人の父を取り戻さんとする詩らしい。では「そうやって」とはどうやってだろうか。


タイトル'Backwards'が指し示す通り、ワーザンは時を「後ろ向きに」動かすことで、失われた父を呼び戻し、人生を語り直そうとする。父が家を出ていく様子を巻き戻すところからこの詩は始まり、現実には帰ってくることのなかった父はかわりに一生家に留まる。そこから続く第一連、ワーザンはこれまでの記憶・経験をなぞりながら、わたしは過去を書き換えられるんだと繰り返す。

I can write the poem and make it disappear

わたしは詩を書いて(過去の出来事を詩にして)、それを消し去ってしまえる

I'll rewrite this whole life

わたしはこの人生を丸ごと書き直す

父が出ていったことも、義父が酒に酔って家族に暴力を振るったことも、そのせいなのか、母がお腹の赤ん坊を喪ったことも、ワーザンはすべてなかったことにして、まるで違う人生の物語を語ることができる、という。とはいえ、この第一連では彼女はまだ時系列に沿って過去を綴っている点に注目してほしい。父が出ていき、義父がやってきて、酒に酔い、暴力を振るい、母は胎児を喪う、というふうに、個々の出来事は過去から現在への流れに従って配置されている。

しかし"you won't be able to see beyond it"の一節で詩は突如折り返し、今度は現在から過去に向かって記憶をなぞり返していく。これまでダフィ*2や『メッセージ』*3についての記事で、英語は時制のルールに則り、過去→現在という線軌道を描く言語だと書いてきたけれど、では一度書かれた言葉をそのままひっくり返してみたら、もしかして言葉はその軌跡を逆走することができるのではないか?

この「巻き戻し」の演出は映画などの映像表現ではよく見るし、たとえば『メメント』なんかを具体例として想起する人も多いと思う。この詩でやっていることといえば、単にここまで書かれたことをそのまま遡るという至極シンプルなもので、『メメント』のような複雑さはない。けれども、この小さなアイディア一つで、ワーザンは時間を巡る言葉の不可能性にブレイクスルーを見出そうとしている。「わたしは過去を語り直す」と言いつつも時系列通りの語りをする第一連は、実はそれを丸ごとひっくり返してしまう第二連のために周到に用意されたもの。おそらくこういった構成をとったのは、言葉は一方通行の時の流れに忠実であることを踏まえているからだと思う。一度語られた言葉は先に語られたことから順に過去になっていく--のであれば、それを逆さまにしてしまえば言葉は過去に向かって遡上していくはず。この詩のアイディアはまさにそれだ。


*************

自分で書いていてよくわからなくなってきたし、なんだか詩の魅力を殺しそうなのでそろそろ閉じようかと思ったんだけど、一点読んでいて気になったところがある。折り返し地点にあたる"you won't be able to see beyond it"(その先は見越せない)というフレーズの「その先」とは何なのかということ。時の流れに沿って書かれた第一連のおわりにくるので、ふつうに考えると未来のことを言っているのかなと思うけど、どうかな。また、だとするとこの詩は言葉の不可能性に挑戦しつつ、それを突きつけてもきている。

結びのフレーズは当然一行目と同じなので、この詩は過去→現在→過去という円環軌道を描き、最後はまた始まりと同じ地点に戻る。そして「未来は見越せない」のであれば、詩は永遠に父が出ていってから現在までの記憶をぐるぐる巡ることになる。ここで示される言葉の力は過去を語り直す力であって、未来を拓く力にはなり得ない。それは語り手自身が未来よりも過去を見、父が出ていったときの記憶にある種囚われていることと不可分でもある。そうやって読んでいくと、人生を語り直して今度は愛に溢れたものにすると一見前を向いているようなこの詩が、実は心理的な面でもいくぶん「後ろ向き」であることがわかる。

しかし、このブログでは繰り返し言っている通り、「言葉は想像力の可能性と希望を示してくれるのに、同時に人間の限界と無力を突きつけてもくる」けれど「そんな言葉の不可能性を指摘することも言葉によってしかなされない」のだ。可能性と不可能性、希望と絶望/失望は常に混在している。あるところに突破口が見出せても、その先はまた袋小路かもしれない。でもそんな人生のままならなさにああでもないこうでもないと格闘する姿こそ、わたしが詩に求めるものなのだと思う。

映画『メッセージ』と、言葉、詩、物語

映画の内容・テーマにがっつり踏み込んでいますのでご注意ください。それ以外で言えることはメガネのレナーさんがめちゃんこかわいいということくらいです。


"We spend our entire lives trying to tell stories about ourselves [...]. It is how we make living in this unfeeling, accidental universe tolerable." -- Ken Liu, from "Preface" in The Paper Menegerie And Other Stories

「私たちは人生のすべてを費やして自分たちの物語を語る(中略)。そうやって私たちはこの無情で予期できない世界で生きることを受け入れるんだ。」ケン・リュウ『紙の動物園とその他の物語』「序文」より

テッド・チャンの原作「あなたの人生の物語」をまだ読めていないので、ほんとはきちんと読んでから考察したいところだけど、シンプルに言って映画『メッセージ』がやっていることというのはつまりケン・リュウの上記の言葉に集約されていると思う。限界と不可能と喪失から逃れられない無力な人生というものを肯定するのにわたしたちはいつだって物語の力を必要としている。


内容を細かく精査して論じるほどの知識も洞察力もわたしにはないし、SFに明るい方による素晴らしい考察がきっといろいろなところで読めると思うので、ここではあくまで映画だけを見てわたしが連想したもの、感じたことをつらつらまとめてみる。そこでまず紹介しておきたいのがこの詩だ。

Carol Ann Duffy, 'Words, Wide Night'

Somewhere on the other side of this wide night
and the distance between us, I am thinking of you.
The room is turning slowly away from the moon.

This is pleasurable. Or shall I cross that out and say
it is sad? In one of the tenses I singing
an impossible song of desire that you cannot hear.

La lala la. See? I close my eyes and imagine the dark hills I would have to cross
to reach you. For I am in love with you

and this is what it is like or what it is like in words.



キャロル・アン・ダフィ「言葉、広大な夜」

この広大な夜とわたしたちを隔てる距離の
反対側のどこかで、わたしはあなたを思っている。
部屋はゆっくりと回転し、月から離れていく。

楽しいものね。それとも今のは無しにして
悲しいと言ったほうがいい?ある時制の中でわたし歌う
あなたの耳には届かない、不可能な欲望の歌を。

ラ ララ ラ。ほらね?わたしは目を閉じて想像する
あなたの元に行くのに越えなきゃいけない
暗い丘を。だってわたしはあなたに恋をしていて

その思いはこんなかんじ、言葉の上ではこんなかんじのものだから。

(拙訳)
POEM: WORDS, WIDE NIGHT BY CAROL ANN DUFFY

参考:My Favourite Encouraging / Inspiring Poems/勇気をくれる詩3選 - Who's Gonna Save a Little LOVE for Me?


以前にもこの詩をブログで紹介したことがあって、そこで書いたこととまったく同じことをまた書くんだけど、"I singing"という箇所は誤植ではない。英語(を含む多くの言語)は現在時制とか過去時制といった特定の時制の中で("In one of the tenses")話される言語で、ふつうIとsingingの間にamとかwasとかwill beといった語句が入り、話す時点と話される内容の時点の関係が決定される。それは言葉は時制の制約に、過去から現在、未来へと一定に流れ過ぎていく時間の概念に縛られているということを意味する。ダフィはだから時制を取っ払ってしまうことで、時間を、わたしとあなたを分かつ夜を、あるいは言葉がわたしたちに課す限界を超えようと試みている。

今回改めてこの詩を読み返すまで、わたしはこれをいわゆる遠距離恋愛(空間的に離れた二人)の詩だと思っていた。でも、もしかするとこれは時間的に離れた二人の詩かもしれない。すでにこの世にはいない人への、あるいは語り手がこの先出会う未来の想い人へのラブソングかもしれない。過去の人への恋心なら歌えても、まだ知りもしない人への恋心なんておかしい?『メッセージ』を見た後ではもうそんなことは言っていられないと思う。


12体の宇宙船に乗って突然地球に現れたエイリアン、ヘプタポッドの言語には時制がない。劇中紹介されるサピア=ウォーフの仮説によれば、人の世界観とはその人が使用する言語によって形作られるもので、時制のない言葉を用いるヘプタポッドは過去も未来もない円環的な時間認識を持っている。彼らにとっては過去・現在・未来は順序だったものではなく、それらはすべて同居しているから、彼らには未来も見えている。主人公の言語学者ルイーズはこのヘプタポッドの言語を理解することで、時は流れ過ぎ後戻りできないという時間認識を脱却し、過去・現在・未来を同時に見据えるようなヘプタポッド的世界観を獲得する。彼女もまた未来のヴィジョンが見えるようになる。



冒頭、ルイーズは娘を病気で亡くすことが語られる。それからヘプタポッドの出現、彼らの言語を解析するための現地派遣、研究活動が描かれていく。見ているわたしたち(というか少なくともわたし)は娘を亡くしたルイーズがヘプタポッドとの交流を通してどのように希望を見出していくのだろうと考えるわけだけど、次第に明らかになる通り、ルイーズはヘプタポッド出現の時点ではまだ娘を亡くすどころか、その父イアンにすら出会っていない。しかし原作未読でこれといった前情報もなく映画を見て、「娘の死はヘプタポッドとの遭遇以後のことだ」と想定する人はたぶんそんなにいないだろう。そう言えるのは、基本的にわたしたちは過去から未来へと線型を描く時間認識のもとで生きているからだ。わたしたちはルイーズが未来のことを知っているなんて想像しない。わたしたちにとって時間は過去から未来へと順番に流れていくものだから、現在の時点で未来のことはわからない。でも、時間に過去も未来もなかったら?はじまりもおわりもなかったら?死は生の終焉ではないとしたら?


時間は無慈悲に過ぎ去り、愛しいものを奪っていく--とわたしたちは思っている。その時の流れの前では人間は無力で有限なのだと。けれども、時間が流れ過ぎるのではなく円環するものであるなら、世界には過去も未来も、生も死も同居し、別離や喪失も今わたしたちが認識しているものとは異なってくるはずだ。ヘプタポッドの言葉とそれがもたらす新しい世界認識は、残酷な時の流れを超えられない人間の限界に挑戦し、無力に見えた人生を肯定する力になる。

しかしそれは人間を無限で完全な存在にしてくれるわけではなく、むしろあらためてその有限性・不可能性を突きつけてもくる。ルイーズは未来が見えるようになっても、未来を変えたり過去に自由に戻ったりはできない。夫との別離も娘の死も彼女には止められない。彼女が得るのは超人的な能力ではなく、あくまで新しい言葉だけ。でも新しい言葉は世界の見方を変え、これまでと違う人生の物語を編み始める。時間にはじまりもおわりもないなら、死はすべての終焉・永遠の離別ではなく、ルイーズの娘は永遠に生きていて、また同時に死んでいる。どうしたって人間は有限で死を免れない存在だけれど、死はいまわたしたちが思っているほど決定的な意味を持っていないのかもしれない。



ダフィは時制を取り去って自分とあなたを隔てる夜を越えていこうとするが、それは結局あなたの耳には届かない不可能な歌にしかならない。しかしわたしは上の紹介記事でこう書いていた。

言葉は想像力の可能性と希望を示してくれるのに、同時に人間の限界と無力を突きつけてもくる。

しかしそんな言葉の不可能性を指摘することも言葉によってしかなされないし、不可能性を超えようとする試み(これは成功しないのが肝)のなかで、少なくとも言葉にならないものに焦点を当て、ともすれば何か別の可能性の切れ目を見つけることができるやもしれない。いずれにせよ書くことから始めるしかない(略)

自分でも驚くほど、ここで書いていることは『メッセージ』を見て感じたことに当てはまる。無力な人間には言葉しか、物語しかないかもしれない。でも逆を返せば人間にはいつだって物語がある。言葉は万能ではなく、そのあり方は変わっていくけれど、言葉が存在する限り、物語は常にそこにあってわたしたちを救ってくれる。

娘を亡くす母の話自体はこれまでにも繰り返し語られてきた、特に新鮮味のないもの。でも違う言葉で語ったら、それはこれまでとはまるで異なる意味合いを持った新しい物語になる。そして実のところ新しい物語こそ新しい世界を見せてくれるものに他ならない。それは「無情で予期できないこの世界で生きることを受け入れる」助けになる。物語は"人生のガイド"とわたしは定義しているんだけれど、理不尽と敗北に満ちた人生を導いてくれる物語の力にまつわる物語をやっぱりわたしは好きにならずにいられないなあと思う。

人生を物語れ/『T2 トレインスポッティング』

「物語ること」についての物語はいろいろありますが、これもまたその一つであるとは見る前は想像していませんでした。
(以下、内容結末に触れています。)



90年代後半に一大ムーブメントとなった『トレインスポッティング』から20年、続編の『T2 トレインスポッティング』を見た。20年前アムステルダムに飛び、新しい生活を始めたレントンがオランダ人の妻と離婚することになり、スコットランド、リースの故郷に帰ってくることで再びあの4人の関係が動き出す。

レントンの人生もうまくいっていないが、リースに残された3人も相変わらず。スパッドはレントンに貰った4000ポンドをドラッグにつぎ込んで深刻な薬物中毒。かつてのシックボーイ、サイモンは伯母から継承したパブ経営のかたわらブルガリア移民の愛人ベロニカを使って揺すりをやっている。フランク=ベグビーに至っては20年の服役に処されたはずが悪知恵を使って脱獄してしまう。それぞれにそれぞれらしい20年を送っているが、4人とも共通しているのは20年前のあの時で彼らの時計が少なからず止まっていること。


実際に20年前の映像を使い、前作からの引用をふんだんに盛り込むなかで、当然このフレーズも登場する。

Choose life.

でも、前作では皮肉を込めながらも向こう見ずな若者の楽観主義を示してもいたこの言葉が20年後ではまるで違って聞こえる。

SNSを選べ。9.11はなかったことに。子どもたちにも自分と同じものを選べ。こんなこと起こらなかったからマシだったと自分に言い聞かせ、どこかの誰かがキッチンで精製した得体の知れないドラッグで痛みを揉み消せ。失敗から学ばないことを選べ。歴史が繰り返す様を眺めることを選べ。未来を選べ、ベロニカ。(途中省略あり)

46才のレントンにとっての人生は眼前に開かれた未来ではなく、振り返りため息をつく過去、悔いるべき選択や失敗、そして次世代やいずれ来る死への憂いである。人生は選べなかったし、これからも選べない。それを知ったレントンはもう前作のように自らが人生の語り手となることから降りている。でも、自分自身が自分自身の人生の、物語の語り手ではいられなくなっても人生は続く。「あと30年」をどうにか生きなくては。誰かが語らなくては。


そこで今回新たに登場する語り手がスパッドになるとは正直思っていなかった。劇中、レントンは薬物を断ちたいスパッドに"Be addicted to something else"(何か別のものに夢中になれ)とアドバイスする。その後、ベロニカに「あなたたちの話を書いたら?とてもおもしろいから」と言われたスパッドは昔の写真を部屋の壁中に貼りめぐらし、自分たちの過去を綴り始める。途中禁断症状に苛まれながらも、どうにか彼は物語を完成させる。それは過去に耽溺したり埋没したりするのでもなく、過去を完全にないものとして切り離すのでもなく、過去を見つめ直し物語として織り上げ、20年前で止まった時計をまた動かすことを可能にする。「あと30年」を生きさせてくれるのは、きっと物語の力だ。そしてまたスパッドが夢中になるべき「何か別のもの」とは物語ることだったんだとわかってわたしは泣いた。人生は選べなかった。それなら選べなかった人生を物語れ。



思えばスパッドは前作から目撃者で、語り手たる資質を持っていたんだと思う。今作でもまた彼は「裏切り」の目撃者になる(また今回は語り手として裏切りの達成に寄与する)。最後にみんなを出し抜くベロニカは前作のレントンに重ねられる。しかし無責任で、絶望しながらも楽天的で、とにかく「この生まれ育った街から出たい」一心だったレントンに対して、ベロニカは当時のレントンと恐らく同年代でありながら、もっと現実的で思慮深く、彼女はきっと手にした金をもって故郷に帰り身を固めるのだろうと思われる。そんなところに夢見ていられないテン年代の厳しさ、時代の移ろいを感じつつ、最後はやはりレントンと一緒に"Lust for Life"の爆音に身を委ねるほかないのであった。

Lily Myers, 'Shrinking Women'/スポークン・ワード・ポエトリーを体感する(2017年3月①)

今年は最低月に一本はコンテンポラリーな詩の翻訳をしたいと思っていたのに先月思いがけず忙しくて手がつけられず、今月も気づけば終わりがすぐそこに見えてきてしまいました。。が、ちょっと前になかなかいいスポークンワードの詩を見つけたので、訳してみます。



パフォーマンスの動画はこちらから。
Lily Myers - "Shrinking Women" (CUPSI 2013) - YouTube

リリー・マイヤーズ「萎む女性たち」


キッチンテーブルの向かい側で、母は計量グラスから赤ワインを飲み、微笑む。
食べないわけじゃないと彼女は言うけれど、わたしはそのフォークの動きすべてにニュアンスを嗅ぎとれる。
皿の上の食べ残しをわたしに差し出すときの彼女の額に寄った皺のすべてに。
わたしは、彼女がわたしが勧めたときにしか夕食を食べないことに気がついた。
わたしがいないとき彼女はどうしているんだろうと考える。

たぶん、だからこの家はわたしが帰ってくるごとに大きくなっているように感じるんだ;それは比例している。
彼女が萎むほど周りの空間は広大に見えてくる。
彼女が痩けていく一方、わたしの父は太っていく。
その腹は赤ワインや、夜遊びや、牡蠣や、詩で丸く膨らんでいる。
新しいガールフレンドは十代で太りすぎだけれど、父は彼女は今「フルーツに夢中なんだ」と言う。

父の両親も同じだった;祖母が痩せこけ骨張っていくなか、夫の頬は赤く丸々として、腹も丸く、
わたしはわたしの家系は萎んでいく女性たちの家系なのかと、
男性たちが生を楽しむための空間を開け
一度それを手放してしまったら取り戻す術を知らない家系なのかと考える。

わたしは適応することを教わってきた。
兄弟は話す前に考えるなんて一切しない。
わたしはものごとをフィルターにかけるよう教わってきた。
「誰が食べものと関係なんて持てる?」と彼は聞く、笑いながら わたしが炭水化物が少ないからと選んだ黒豆のスープを飲んでいると。
わたしは言いたい:わたしたちは違うんだ、ジョナス、
あなたは外に広がり育つよう教わったけど
わたしは内向きに育つよう教わったんだ。
あなたは父からどうやって声を出し、提示し、自信をもって考えを舌から発していくかを学び、一週おきに叫びすぎて声を枯らしていた。
わたしは吸収することを学んだ。
母から自分の周りに空間を作ることを教わった。
わたしは男たちが牡蠣に走っているあいだ母の額に浮かぶこぶを読みとるようになりながら
彼女の再現をしようと思ったことはないけれど
十分な時間誰かの前に座っていれば、人はその誰かの習慣を受け取るようになる。

だからうちの家族の女性たちは何十年にもわたって萎んでいるんだ。
わたしたちは皆お互いから学び合ってきた、
各世代が次の世代に、糸の隙間に沈黙を織り込みながら
編み物をする方法を教えていった、
このどんどん大きくなっていく家の中を歩いているとわたしは未だにそれを感じて、
皮膚はむず痒く、
母が数え切れないほど繰り返す寝室からキッチン、また寝室への移動でポケットから溢れたくしゃくしゃの紙のように、彼女が気づかぬうちに落としていった習慣をすべて拾い上げていく。
夜ごとわたしには母がこっそり階段を降りて暗闇の中でプレーンヨーグルトを食べるのが聞こえる
食べる資格がないと思っているカロリーを儚くも盗み食いしている。
何口で食べすぎになるのかを考えながら。
どれくらいの空間を占領してよいものかを。

その格闘を見ていると、わたしは彼女をからかうか憎むかで、
もうどちらもしたくないけれど、
この家の重荷はわたしを国中ついてまわってきた。
今日は遺伝子学の授業で5つ質問をして、どの質問でもわたしは最初に「すみません」と言った。
社会学の単位を取る要件なんてわからない、だって集会のあいだずっともう一枚ピザを食べられるか考えていたから
少しも望んでいないのに堂々巡りする強迫観念、でも

遺伝は偶然の産物、
まだテーブルの向こう側で口元にワインを染み込ませ、わたしを見つめている。



Traslated by me.
Transcription is here.
Lily Myers – Shrinking Women | Genius


英語圏では何年か前になかなかのヴァイラル・ヒットになっていたらしいこの詩。わたしの下手な訳だとあまりおもしろくないね。体型の面でも自我の面でも伝統的に自分を細く/小さく見せるよう縮こまらせられてきた女性の社会的立ち位置を、ドメスティックな視座から、でもすごく普遍的な視野を持って豊かに語っています。また何よりスポークンワードのパフォーマンス、その体験としてちょっと図抜けたところがあるように思う。

語り始める前は緊張しているように見える詩人が、途中自分の言葉に対する反応の大きさにぐらつきながら、最後は自信と誇りを持ってステージを立ち去るまでたった3分半。3分半で人は、詩はここまでいけるんだということに動画再生が終わって気づいてちょっとびっくりした。ここで彼女が見せる緊張は単に人前で詩を発表することへの不安から来ているのではないことは詩を聞いていけばわかる通りです。「内向きに育つよう教わってきた("I have been to grow in")」女性がこれまで内に内に溜め込んできたものをいま外へ吐き出そうとしているわけだから。父や兄弟が何の疑問も心配もなくやってきたことに対してこれだけの準備が彼女には必要だったことを思うと、気持ちを固めて口火を切ってから一気に波に乗っていく冒頭1分くらいの爽快感はひとしお。


youtubeのコメント欄を見ると"I asked five questions in genetics class today and all of them started with the word 'sorry'."(遺伝子学の授業で5回質問をしたけれど、毎回最初に「すみません」と言って質問を始めた)という箇所が人気のようで、わたしもじわじわとこの一節に殺られている。わたしが一日に「すみません」という回数は何回だろうか。。自分の意気地なしや屈託を何でも性別のせいにしたいわけではないけれど、自分が男性として社会に出ていたらここまで自分の発言や意見に申し訳なさを抱くことがあるだろうかと最近ちょっと思わさせられることが多かったので。。(もちろん自分が男性ならという仮定がそんな簡単な話ではないのはわかっているけど)


今、訳しながら読んでいて気づいたんですが、この最後の一連は文字通り読めば、遺伝子学の授業に出て発言するときも申し訳なさそうに自分を抑え込み、集会のあいだは食べもののことを考えていて社会学の単位取得の要件を聞いていなかったという内容なんだけれど、比喩的に読めば、実はここではgenetics(遺伝子学)とsociology(社会学)の二語によって生物学的性と社会的性への仄めかしも為されている。男と女、どちらの生物学的性に生まれるか(inheritence=遺伝)はまったくの偶然によるのだけれど、女性という性に生まれればなぜかそれを恥じたり、卑下したり(=遺伝子学の授業ですいませんと意味もなく謝ったり)し、社会的にどうやったら認められるか(=社会学の単位をとれるか)語り手にはわからない。

最終連に来てのギアの入り方はなかなかすごくて、何代にもわたって続いてきた男尊女卑を断ち切りたいと思いながらもそこに絡めとられ、再び円環の軌道に乗っていく結びはもはやゴシック的。一読したときはそこまで技巧的に凝った詩だとは思わなかったんだけれど読み込んでいくとおもしろいですね(ノープランブロガーなので書きながらどんどん解釈を付け足しています)。個人的な話をすると、仕事面でストレスがたまりくさくさした気分なので、こういう詩を読んで訳していく作業は実はとても精神安定効果があったりする。来月もまたおもしろい詩に出会えたらいいな。