読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Lily Myers, 'Shrinking Women'/スポークン・ワード・ポエトリーを体感する(2017年3月①)

今年は最低月に一本はコンテンポラリーな詩の翻訳をしたいと思っていたのに先月思いがけず忙しくて手がつけられず、今月も気づけば終わりがすぐそこに見えてきてしまいました。。が、ちょっと前になかなかいいスポークンワードの詩を見つけたので、訳してみます。



パフォーマンスの動画はこちらから。
Lily Myers - "Shrinking Women" (CUPSI 2013) - YouTube

リリー・マイヤーズ「萎む女性たち」


キッチンテーブルの向かい側で、母は計量グラスから赤ワインを飲み、微笑む。
食べないわけじゃないと彼女は言うけれど、わたしはそのフォークの動きすべてにニュアンスを嗅ぎとれる。
皿の上の食べ残しをわたしに差し出すときの彼女の額に寄った皺のすべてに。
わたしは、彼女がわたしが勧めたときにしか夕食を食べないことに気がついた。
わたしがいないとき彼女はどうしているんだろうと考える。

たぶん、だからこの家はわたしが帰ってくるごとに大きくなっているように感じるんだ;それは比例している。
彼女が萎むほど周りの空間は広大に見えてくる。
彼女が痩けていく一方、わたしの父は太っていく。
その腹は赤ワインや、夜遊びや、牡蠣や、詩で丸く膨らんでいる。
新しいガールフレンドは十代で太りすぎだけれど、父は彼女は今「フルーツに夢中なんだ」と言う。

父の両親も同じだった;祖母が痩せこけ骨張っていくなか、夫の頬は赤く丸々として、腹も丸く、
わたしはわたしの家系は萎んでいく女性たちの家系なのかと、
男性たちが生に楽しむための入口の空間を開け
一度それを手放してしまったら取り戻す術を知らない家系なのかと考える。

わたしは適応することを教わってきた。
兄弟は話す前に考えるなんて一切しない。
わたしはものごとをフィルターにかけるよう教わってきた。
「誰が食べものと関係なんて持てる?」と彼は聞く、笑いながら わたしが炭水化物が少ないからと選んだ黒豆のスープを飲んでいると。
わたしは言いたい:わたしたちは違うんだ、ジョナス、
あなたは外に広がり育つよう教わったけど
わたしは内向きに育つよう教わったんだ。
あなたは父からどうやって声を出し、提示し、自信をもって考えを舌から発していくかを学び、一週おきに叫びすぎて声を枯らしていた。
わたしは吸収することを学んだ。
母から自分の周りに空間を作ることを教わった。
わたしは男たちが牡蠣に走っているあいだ母の額に浮かぶこぶを読みとるようになりながら
彼女の再現をしようと思ったことはないけれど
十分な時間誰かの前に座っていれば、人はその誰かの習慣を受け取るようになる。

だからうちの家族の女性たちは何十年にもわたって萎んでいるんだ。
わたしたちは皆お互いから学び合ってきた、
各世代が次の世代に、糸の隙間に沈黙を織り込みながら
編み物をする方法を教えていった、
このどんどん大きくなっていく家の中を歩いているとわたしは未だにそれを感じて、
皮膚はむず痒く、
母が数え切れないほど繰り返す寝室からキッチン、また寝室への移動でポケットから溢れたくしゃくしゃの紙のように、彼女が気づかぬうちに落としていった習慣をすべて拾い上げていく。
夜ごとわたしには母がこっそり階段を降りて暗闇の中でプレーンヨーグルトを食べるのが聞こえる
食べる資格がないと思っているカロリーを儚くも盗み食いしている。
何口で食べすぎになるのかを考えながら。
どれくらいの空間を占領してよいものかを。

その格闘を見ていると、わたしは彼女をからかうか憎むかで、
もうどちらもしたくないけれど、
この家の重荷はわたしを国中ついてまわってきた。
今日は遺伝子学の授業で5つ質問をして、どの質問でもわたしは最初に「すみません」と言った。
社会学の単位を取る要件なんてわからない、だって集会のあいだずっともう一枚ピザを食べられるか考えていたから
少しも望んでいないのに堂々巡りする強迫観念、でも

遺伝は偶然の産物、
まだテーブルの向こう側で口元にワインを染み込ませ、わたしを見つめている。



Traslated by me.
Transcription is here.
Lily Myers – Shrinking Women | Genius


英語圏では何年か前になかなかのヴァイラル・ヒットになっていたらしいこの詩。わたしの下手な訳だとあまりおもしろくないね。体型の面でも自我の面でも伝統的に自分を細く/小さく見せるよう縮こまらせられてきた女性の社会的立ち位置を、ドメスティックな視座から、でもすごく普遍的な視野を持って豊かに語っています。また何よりスポークンワードのパフォーマンス、その体験としてちょっと図抜けたところがあるように思う。

語り始める前は緊張しているように見える詩人が、途中自分の言葉に対する反応の大きさにぐらつきながら、最後は自信と誇りを持ってステージを立ち去るまでたった3分半。3分半で人は、詩はここまでいけるんだということに動画再生が終わって気づいてちょっとびっくりした。ここで彼女が見せる緊張は単に人前で詩を発表することへの不安から来ているのではないことは詩を聞いていけばわかる通りです。「内向きに育つよう教わってきた("I have been to grow in")」女性がこれまで内に内に溜め込んできたものをいま外へ吐き出そうとしているわけだから。父や兄弟が何の疑問も心配もなくやってきたことに対してこれだけの準備が彼女には必要だったことを思うと、気持ちを固めて口火を切ってから一気に波に乗っていく冒頭1分くらいの爽快感はひとしお。


youtubeのコメント欄を見ると"I asked five questions in genetics class today and all of them started with the word 'sorry'."(遺伝子学の授業で5回質問をしたけれど、毎回最初に「すみません」と言って質問を始めた)という箇所が人気のようで、わたしもじわじわとこの一節に殺られている。わたしが一日に「すみません」という回数は何回だろうか。。自分の意気地なしや屈託を何でも性別のせいにしたいわけではないけれど、自分が男性として社会に出ていたらここまで自分の発言や意見に申し訳なさを抱くことがあるだろうかと最近ちょっと思わさせられることが多かったので。。(もちろん自分が男性ならという仮定がそんな簡単な話ではないのはわかっているけど)


今、訳しながら読んでいて気づいたんですが、この最後の一連は文字通り読めば、遺伝子学の授業に出て発言するときも申し訳なさそうに自分を抑え込み、集会のあいだは食べもののことを考えていて社会学の単位取得の要件を聞いていなかったという内容なんだけれど、比喩的に読めば、実はここではgenetics(遺伝子学)とsociology(社会学)の二語によって生物学的性と社会的性への仄めかしも為されている。男と女、どちらの生物学的性に生まれるか(inheritence=遺伝)はまったくの偶然によるのだけれど、女性という性に生まれればなぜかそれを恥じたり、卑下したり(=遺伝子学の授業ですいませんと意味もなく謝ったり)し、社会的にどうやったら認められるか(=社会学の単位をとれるか)語り手にはわからない。

最終連に来てのギアの入り方はなかなかすごくて、何代にもわたって続いてきた男尊女卑を断ち切りたいと思いながらもそこに絡めとられ、再び円環の軌道に乗っていく結びはもはやゴシック的。一読したときはそこまで技巧的に凝った詩だとは思わなかったんだけれど読み込んでいくとおもしろいですね(ノープランブロガーなので書きながらどんどん解釈を付け足しています)。個人的な話をすると、仕事面でストレスがたまりくさくさした気分なので、こういう詩を読んで訳していく作業は実はとても精神安定効果があったりする。来月もまたおもしろい詩に出会えたらいいな。