二つのスーツケース/『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』

相変わらずの周回遅れぶりですが、『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』を見ました。ちなみにわたくしハリー・ポッターはど真ん中の世代ですが、これまでほぼ完全にスルーしています。特に理由はないんだけどなんとなくね、、でも新シリーズが始まるし、いい機会かなと思い、遅ればせながら映画館に足を運びました。ちゃんと公開中に見に行ってよかった。


1926年、アメリカでは魔力を脅威に感じるノーマジ(人間)と魔法使いとの衝突を避けるため、評議会MACUSAが魔力の存在を非魔法界から隠し通している。これに対して闇の魔法使いグリンデルバルドはノーマジとの戦争を起こすべく、各地で襲撃を行う。こうした社会背景のもと、主人公の英国人魔法使いニュート・スキャマンダーはNYに降り立ち、持ち込んだ魔法動物たちをスーツケースから逃してしまう。彼はノーマジと魔法使いの交流を固く禁じるMACUSAの態度を批判し、魔法動物の研究者として魔力や魔法動物は危険なものではないと理解・共存を訴える。


まさに魔法使い版X-MENといった趣で、人種隔離、公民権運動、セクシャルマイノリティへの差別などの現実の歴史・政治社会問題の寓意が作中あちこちに散りばめられている。見た目にはノーマジと変わらないけれどその能力をひた隠しにし、ノーマジと一切交わってはいけない魔法使いは、抑圧されたセクシャルマイノリティとも、白人からセグリゲイトされた有色人種の人々とも解釈できる。そんな中、中身が漏れてしまうニュートのスーツケースは、社会的に疎まれる個性や特性に対して正直であり、自己を圧し殺さないニュートの柔軟さを象徴している、といったことは各所で指摘されている通り。こちら↓の記事でも、これらのことがまとめられています。

革命的ドジっ子の物語におけるセクシュアリティとトランクの認識論〜『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(ネタバレあり) - Commentarius Saevus

こちらを読んでいて思ったのだけれど、このスーツケースの特徴あるいはニュートの稀有さとして、中身が漏れ出ることに加えて、他者をその内側に招き入れられるというのがある。スーツケースの中にはニュートの研究室があり、また魔法動物たちの生息地が広がっている。中に足を踏み入れたノーマジのコワルスキーが「こんなの僕の頭じゃ思いつかない」と感嘆するように、まさにファンタスティックな世界がそこにはあるわけだ。もちろんスーツケースの中はプライベートな領域(魔力=性的指向とするなら特に)なので必ずしも他者を招き入れてやる必要はない。けれども、コワルスキーや観客のわたしたちみたいなノーマジからすれば、その内に入れてもらうことで魔法のおもしろさや魔法動物たちの雄大さ・美しさを知ることができる。自分をオープンにできるニュートの稀有さは、この物語で個人の多様性や多様であることの本来的な素晴らしさを理解する助けになってくれていると思う。


そして作中にもう一人、スーツケースを持ち歩き、その中身を見せてくれるキャラクターがいることも見逃せない。缶詰工場で働きながらパン屋開業を夢見るジェイコブ・コワルスキーは手づくりのパンをスーツケースに詰め、融資を望んで銀行を訪れる。魔法使いのスーツケースの中身が、例えばセクシュアリティを示唆するとしたら、コワルスキーのそれは創造力や夢を表象していると言えるんじゃないか。いずれにしてもスーツケースはその人らしさ、アイデンティティやパーソナリティと密接に結びついている。その中に他者を招き入れることを厭わないニュートと、中身を見せ自分の夢として語るコワルスキーの間に友情が芽生え共闘できたのは、きっと必然でしょう。


しかしニュートが魔法動物たちを逃がさないようスーツケースを固く閉ざしておかなくてはならないように、コワルスキーも融資を得られず、夢の詰まったスーツケースを一度は閉じることを強いられる。生きていると、わたしたちの荷物=個性は様々な理由から小さなスーツケースに押し込められ、その表出を社会や、時には自分自身によって禁じられてしまう。

先に書いたようにスーツケースの中身は私的なものだから、いつでもどこでも全てを晒け出す必要はない。だから鍵がついているし、他人の鞄を勝手に開ける人はまずいない。ニュートだって何でもかんでもオープンにしているわけではなく、彼にも公にしない過去がある。でもスーツケースは、例えば家の奥深くに大事にしまわれた金庫とは違い、手荷物としていろんなところに持ち運べ、リンクの記事でもご指摘があるように、必要とあらば中身を入れ替えたりできるし、鍵が壊れて中身が出る可能性もある。

個性とかアイデンティティと呼ばれるものはそれくらい不安定で、だからこそフレキシブルなんじゃないだろうか。わたしたちはそれを公にしてもしなくてもいいのだけれど、ニュートのようにその表出を恥じず、時にはコワルスキーのように、自分の創ったものを誇らしげに掲げ、夢を語ることができたらーーそんな願いが、この物語には込められていると思う。