The right man for the right time/『ハドソン川の奇跡』

クリント・イーストウッド監督の『ハドソン川の奇跡』、もといSullyを見た。前回感想あげたMechanic: Resurrectionもそうなんだけど、この邦題だと作品の意図が伝わりにくくなってしまうと思う。なぜならこれは紛れもなくチェスリー・"サリー"・サレンバーガーその人の物語でありながら、同時に様々な"サリー"たちの物語でもあるから。


左右両エンジンを喪失し、絶体絶命に陥った旅客機を見事ハドソン川に着水させ、乗員乗客全155人を救ったサレンバーガー機長。メディアが当然のように彼をヒーローと崇める一方で、彼の行動が本当に正しかったのかの調査が行われる。


英雄視された人物の名を冠した映画ということで、なんとなく一人の男によって(傲慢にも)語られるアメリカ神話なのかと思っていたら、違った。むしろその逆だった。たしかにある男の人生の蓄積に基づいてはいるんだけれど、その軌跡を通してかえって「彼一人の物語」ではありえなかったことが否応なく露わになっていく。そこがおもしろい。

物語を通じて「サリー」という英雄像が出来上がっていくのではなく、サリーは最初っからアンタ英雄だよと讃えられている。でも彼は本当にヒーローか。そんな問いから始まるから、わたしたちは当該の事故を見つめなおさなきゃいけない。ということで、鳥との衝突〜エンジン喪失〜ハドソン川着水という一連の事故の流れが様々な角度からスライスされ、サリーのフラッシュバックという形で何度も反復される。その度に着水のモチーフには少しずつ違う意味合いが付与され、徐々に物語が"構築"されていくのに、同時に核心に迫って"解体"されてもいく。

解体される物語は神話、英雄の物語。一連の事故の状況が明らかになっていくごとに、そこにはサリー以外のたくさんの人が関わっていたことが見えてくる。副操縦士やCAといった他のクルーはもちろん、乗客、管制官、フェリーの乗組員、警察... 彼ら一人一人が自分の仕事を為してこそ起こった乗員乗客全155人の救出。機長が全員を救ったのではなく、「155人が生き延びた」。

作中を通して繰り返し仄めかされ、またクライマックスの公聴会の場面でサリー自身が明言する通り、たった一人のアメリカン・ヒーローが世界を救うなんてあり得ないよ、とサリーという英雄像は映画を通じてどんどん解きほぐされる。そしてそれと同時進行で、Heroではなく"the right man for the right time"(正しい時に正しい人、適材適所)のそれとして物語は再構築されていく。まずそこに人がいて、彼/彼女が的確に行動する。the right man for the right timeはサリーだけじゃなく、そこには他にもたくさんのサリーがいたことを、この映画は反復を通して丁寧に丁寧に語っていく。

その積み重ねがあるので、最後に公聴会で聴く208秒ははじめに見た208秒とまるで違って聴こえる。特にここでは(同じコクピットに座っていながらなぜか機長に比べて扱いが小さくなりがちな)副操縦士のジェフとのやりとりが、あのときのサリーの冷静な決断・行動に作用していたことが息遣いや間合いから感じとれるようになっている。このあとサリーがジェフを讃える描写をわざわざ入れるまでもなく、ジェフもまた彼の仕事を全うしていたということ。また最後まで情報を提供し続ける管制官の声、CAたちが鼓舞するように唱える"Brace! Brace! Brace! Heads down! Stay down!"のリフレインも、これまで反復されてきた事故〜着水までのシークエンスを思い出させ、あの208秒の中に本当にたくさんの「正しい仕事」があったことを想像させる。


解きほぐすことで紡がれるこのアメリカの語り直しの物語は、紛れもなく9.11を反転して(NY上空を低空飛行する旅客機を眺める人々の心中はどんなものだっただろうか?)希望を照らそうとしている。その希望の中心にいるのは一人の英雄ではなく、個々の人だったんだと気づかせる映画を撮る人たちがいるアメリカは、NYは、幸福だよね、となんかやっかみにも似た気持ちが生まれたのだった。