『キングスマン』/わが愛しのマシュー・ヴォーンと、『ワールズ・エンド』、G・K・チェスタトン、そしてアーサー王
大好きなマシュー・ヴォーン監督の『キングスマン』をやっとこさ見に行った。以下ややネタバレ注意というか、私のとりとめない妄言と脱線がかなりひどい。
『キック・アス』で「子どものファンタジーが大人のリアルを食い殺す瞬間をこそ撮りたいのだ」と宣言したかのようだったヴォーンの嗜好あるいは志向がいよいよ高次元で実を結んだ、そんな映画であるように思えて、なんというか見ていてとにかく嬉しくなった。映画館に行くどころか、映画を見ることさえちょっと久々になっていて、観賞前は無駄にソワソワしていたのだけれど、そんな居心地の悪さとか緊張とかすべて吹き飛ばして、映画の楽しさとは何たるかを一瞬にして蘇らせてくれた素晴らしい映画体験になった。
リアルとファンタジーーーこの二者の線引きと混在をマシュー・ヴォーンは非常に意識的に行っている。『キック・アス』の冒頭、ヒーローを夢見た青年がビルの屋上から真っ逆さまに墜落する様は、この世界が魔法も特殊能力も存在しない「現実」であることを見せつけている。にもかかわらず等身大ヒーローであるはずの主人公デイヴはあまりにも身軽に日常と非日常の壁を越え、無垢で無神経な想像力がヒット・ガールとなって駆け巡る「虚構」の世界に観客を引き込んでいく。結局「虚構」でのデイヴの行いに対して「現実」側からの罰はなく、「現実」は最終的に影を潜める*1。それは近年のリアル志向・シリアス志向のヒーロー映画のトレンドを確信犯的に利用した、ほとんど「等身大ヒーロー映画」の皮をかぶったカルトムービーだった。
『キングスマン』でもヴォーンは同じようなことをしているが、その切れ味は『キック・アス』よりも鋭くなっている。コリン・ファース演じるエージェントのハリーとサミュエル・L・ジャクソン演じるヴィランのヴァレンタインがスパイ映画について語らう場面。「最近のスパイ映画はシリアスすぎてあんまり好きじゃないね」と明言させている通り、本作はヒーロー映画同様シリアス&リアル路線を強めているスパイ映画に対する批評になっている。また同時にスパイ映画へのラブレターでもある。「最近のスパイムービーはあーだこーだ」とのたまい、「これは映画じゃない、現実だ」などと嘯きながら(いったいどの口でこんなことが言えるんだろうか)、誰よりも荒唐無稽なスパイ映画愛を迸らせているのは他ならぬマシュー・ヴォーンだ。魅力的なガジェットの数々、教会での激しく、それでいて明快なアクション、謎の義足の女とのラストバトルーーまさに「俺ならこう撮る」007。「リアルのふりをして全力でフィクションをやる」というのは『キック・アス』でも同じだけれど、さらに一歩先をいって21世紀型スパイ映画のオルタナティヴを提示してみせた点は、ヒーロー映画としての着地点をやや見失っていた『キック・アス』にはなかったものだ。
『キングスマン』では『キック・アス』以上に人の命が簡単に吹き飛んでいく。けれども『キック・アス』よりも一本筋が通っているように思えるのは、実際物語の核に一本筋が通っているからである。本作のコアにあるのはおそらくワーキングクラスの誇りや階級社会への批判というよりも、「リーダー面して俺たちを枠にはめようとしたり、世界を牛耳ろうとしたりする奴らは全員消え失せろ」という英国的な抵抗の精神だと思う。ヴァレンタインが全世界に配布する無料のSIMカード。確かに世界中のどこでも無料で誰かとコミュニケートできるのはこの上なく便利だが、世界が一つになるというのは恐ろしいことでもある。「いつでも、どこでも、誰とでも」を可能にするグローバル社会。で、結局それを仕切ってるのって一部の人間でしょ?凸凹な個性を平らにし、人の生き方を「真っ直ぐに」しようとする「画一化」に対する嫌悪感が確かに『キングスマン』には嗅ぎとれる。
これと同じ感覚を共有するのが、エドガー・ライトの『ワールズ・エンド』だ。こちらのほうがより反グローバリズムの姿勢を色濃く感じる。どこへ行っても同じような店、同じような人。これのいったいどこが楽しいんだと嘆きながら、サイモン・ペグ演じるゲイリーは真っ向から「俺たちの生き方」を勝手に規定しようとするものに抵抗する。呑んだくれて、騒いで、失敗してーーでもそれが人生、指図するなよ、と。上から定められた生き方を甘んじて受け入れるような真似は、彼らは絶対にしないのである。『キングスマン』を見てまず想起したのは『ワールズ・エンド』であり、また『ワールズ・エンド』を見てまず想起したのはG・K・チェスタトンのこの詩だった。
「うねるイングランドの道」
ローマ人がライにやって来る前、セヴァーン川まで迫る前に
よろけたイングランドの呑んだくれは、うねるイングランドの道を創った
ぐねぐねした道、うねった道 あてもなく邦をさまよう
奴の後に牧師が続き、寺男や地主が続いた
陽気な道、入り組んだ道、それはまるで僕たちが通ったような道だ
ビーチー・ヘッドを経てバーミンガムまで行った夜にボナパルトと軍勢には害はないと思っていた
それにフランス人と戦いたくはなかった
しかし僕は彼らの武具を打った なぜなら奴らは軍勢をなして
イングランドの呑んだくれが創った曲がりくねった道を真っ直ぐにしようとしたからだ
それは君と僕がエールのカップを手に通った道だ
グッドウィン・サンズを経由してグラストンベリーまで行った夜に彼の罪は赦される そうでなければどうして花が咲くだろう
彼の後ろに またどうして生垣がどれも日を浴びて力を増しているのだろう
荒々しいものが左から右へと過ぎ、何が何だかわからなくなる
しかし、どぶで彼が見つかったとき、その頭上には野ばらが咲いていた
神よ赦したまえ、無情にはせずに 僕らの視界ははっきりしていなかった
ブライトン・ピアを通ってバノックバーンまで行った夜には友よ、もうあんなことをしたり、昔の激しさを真似たりはしない
若気の至りを世代の恥にはしないように
澄んだ目と耳でこのさまよえる道を歩き
酩酊することなく、宵の光の中にやさしい死の宿を見るのだ
なぜならまだ聞くべき良き報せが、見るべき良きものがあるのだから
ケンセル・グリーンを通って天国(paradise)へ行くまでに
(拙訳)
G. K. Chesterton, ‘The Rolling English Road’
http://www.poetryfoundation.org/poem/177820
第2連、「ナポレオンと戦いたかったわけじゃないが、奴らが俺たちの'曲がった'道を'真っ直ぐに'しようとするのが許せなかった」という部分はまさに『ワールズ・エンド』に込められたメッセージそのものだ。
この詩は当時(20世紀頭)イギリスで起こっていた禁酒運動に反対するものとして書かれた滑稽詩の一種である。チェスタトンはここで無邪気に「酒はいいもんだ!」と言っているわけではない。第3連のしょうもなさには笑ってしまう。この連で言っているのは、つまり「酔いつぶれて右も左もわからない状態になって、翌朝どぶで発見される呑んだくれ」のこと。しかしチェスタトンは酔っ払いのしょうもなさを面白おかしく書きながら、同時に「それでも呑んだくれの背後には綺麗な野ばらが咲いているじゃないか。これもまた人生、神はきっと許してくれる」と言っているのである。そしてよろけて曲がりくねった生き方こそ「イングランド的」だと評している。
『キングスマン』からだいぶ逸れてしまったが、映画の本質からはそう遠くない話をしていると思う。『キングスマン』の核にあるのも、歪な人間を真っ直ぐにしようとする輩への反骨ではないか。私はどうしてもこれを「英国的な精神」と表現したくなる。
『キングスマン』と『ワールズ・エンド』はともにアーサー王伝説を映画のエッセンスとして利用している。アーサー王伝説の受容と発展には、侵略と征服が繰り返されてきたブリテン島の歴史が大きく絡んでいる。民族間の支配/被支配関係が複雑に変化するなかで、アーサー王(と円卓の騎士)はブリテン島における被支配民族の抵抗のアイコンにもなった。アーサー王、『キングスマン』、『ワールズ・エンド』、‘The Rolling English Road’ーーなんとなくこれらすべてに相通じる精神が存在するような、そんな気がしてしまうのは、私が「英国的な何か」に取り憑かれているからだろうか。
*1:前半に「ヒーローごっこをして刺される」という罰を受けてましたね。でも最後の彼の行動に対して「現実」の反動はありませんでした