恐怖はどこからやってくる?(無)意識とアメリカン・ゴシック/Emily Dickinson, 'One need not be a chamber to be hauted'(少しだけ映画『ゲット・アウト』)

エミリ・ディキンソンの詩でまた好きなものを一つ。翻訳するだけしてずーっと温めてたやつ。


エミリ・ディキンソン「取り憑かれるのに部屋である必要はない」


取り憑かれるのに部屋である必要はない、
家である必要はない、
だって脳には物質的な空間に優る
回廊があるから。

外界の霊に
深夜遭遇するほうがよっぽど安全、
いっそう白いあの主人との
内なる邂逅に比べたら。

石に追われて、
修道院を逃げるほうがよっぽど安全、
月明かりもなく、孤独な場所で
自分自身に出会ってしまうのに比べたら。

私たち自身、隠された私たち自身の向こう側、
それこそが最も驚異的なのだ
家の中に身を潜める暗殺者なんて
ちっとも恐ろしくはない。

用心深い者は、リボルバーを持ち、
扉に錠をかけながら、
もっと近くにいる
より恐ろしい霊を見逃している。


Translated by me.
Original texts here.
One Need Not Be A Chamber To Be Haunted, Poem by Emily Dickinson - Poem Hunter

わたしたちが何かを恐れるとき、その恐怖の源流はいったいどこにあるのか?

そんな恐怖のメカニズムを考える上で、この詩は短いながら示唆に富んでいる。取り憑かれる(to be haunted)のは屋敷や部屋といった物理的空間に限らない。人の頭の中にはそれよりも深く果てしない空間が広がっている--。ディキンソンはゴシック文学のお化け屋敷や幽霊を引き合いに出しながら、それら外的な表象よりも人の意識や内なる自己といった内的世界こそ深い闇を抱えた恐ろしいもの、恐怖の生まれる源なんだと淡々と語る。


大学時代、こうした外的なものへの恐れではなく、人間の意識や精神の"内なる恐怖"にフォーカスしているのがアメリカン・ゴシックの特徴だと習ったことがある。特にアメリカの歴史的特殊性を考慮して注目されるのが、開拓時代からのアメリカ先住民への恐怖、また奴隷制以来続く黒人への恐怖といった、異人種・異民族間のもの、要するに(言うまでもなく歴史的にアメリカ文学を独占してきた)白人文学に描かれる白人の非白人への(無)意識の恐怖だ。例えば、可愛がっていたはずの黒猫を虐待して殺した後、それとそっくりの黒猫が現れたことでいよいよ精神的に追い詰められていく男を描いた、エドガー・アラン・ポーの短編「黒猫」は、黒猫を黒人の表象として、黒人を恐れて攻撃する南部白人の心理を捉えた作品として読まれている。


ディキンソンの詩も、そんなアメリカの歴史を踏まえたゴシック詩としてやや政治的に読むことができるんじゃないかとわたしは思っている。最終連、「用心深いものは、リボルバーを持ち/扉に錠をかける」(The prudent carries a revolver, / He bolts the door)という箇所は、典型的なアメリカらしい自衛の態度を示している。銃をとり身を守れ、と。でも、本当は外界のものはそんなに恐くはないのだとディキンソンは言う。むしろどんなにしっかり錠をかけ、武器を装備しても、それでは自分の内にあるもっと恐ろしいもの、恐怖の源を見過ごすことになるのだと。ポーの「黒猫」で語り手を破滅させるのは、黒猫ではなく、黒猫を殺した語り手自身の罪悪感や悔恨であったし、先住民の居留地への強制移住をひとしきり終えた白人社会で流行したのは、先住民を懐かしむようなノスタルジックな冒険文学だったという。彼らが恐れていた対象は、彼らの恐怖を映し出す像であって、本当の恐怖の源流は彼らの意識深くを流れていたのかもしれない。





なんていうことを、先日『ゲット・アウト』を見ていてつらつら考えていた。内容を知ってしまうとおもしろさ半減なので、未見の方はここから先は読まないでもらいたいのですが、






ふせったーにて、『ゲット・アウト』はなかなかよくできたアメリカン・ゴシックだと思う、と書いたのは上のようなことを踏まえてでした。監督脚本のジョーダン・ピールがまさにこの映画を、アメリカ白人、とりわけリベラル層の無意識にある黒人への差別を描いた作品と評していたよね。

@Dktnianさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)


他者は自分の鏡であって、自分の欲望や憧憬、後悔、そして恐怖などを映し出す。その自己と他者の関係に構造的な力の不均衡が起こるとき、それは差別となって現れる。そんな差別する側の(無)意識にぐいっと踏み込んだ『ゲット・アウト』、モダンでありながら古典的なゴシックのナラティブに則っていているのではないかなと思う。

ちなみに映画を見てからずっとこのディキンソンの詩の翻訳を上げようと思っていたので、1ヶ月半も温めていたようですね。。まだ翻訳したきりアップしていない詩が何個かあるので、もし興味がある人がいれば年内に引き続き投稿しようかと思います。