Blythe Baird, 'Pocket-sized Feminism'(2017年12月①)

最近ちっとも詩が読めていないし翻訳もできていないので、以前ツイッターで紹介したら少し反響があったこちらを全文訳してみようと思います。ちなみに実際のパフォーマンス(slam poetry)では使われている言葉が少し違ったり、テクストにはない表現が含まれていたりするので、リンクのパフォーマンスの動画も見てみてね。

「ポケットに収まるフェミニズム


パーティーにいた、わたし以外の唯一の女の子が
フェミニズムを叫んでいる。観衆はこんなかんじ:
レイプをネタにしたジョークと、野球帽と、
発泡スチロールのカップの海、そしてわたし。
彼らはぽかんと眺めている、
彼女の口を、まるで大量の意見で
詰まりをおこした排水口みたいに。
わたしは彼女に共感の一瞥をくれるだけで
何も言いはしない。この家は
壁紙の女にふさわしい。話す壁紙なんて
何の得にもならないでしょう?
わたしは立ち上がりたいけれど、そしたら、
誰のコーヒーテーブルの静けさに
この男の子たちは足を置いて休むの?
わたしは立ち上がりたいけれど、それで
誰かがわたしの場所を取ってしまったらどうする?
わたしは立ち上がりたいけれど、それで
わたしがこれまでずっと座ってたことに
みんなが気づいたらどうする?わたしは罪悪感を覚える
自分のフェミニズムをポケットにしまっておくことに、
しまっておかなくても困らないとき、
ポエトリースラムや女性学の授業のとき以外は。
時には、世界を変えていくよりも
人から好かれたい日だってある。
時には、ドラッグ入りの飲み物に色を変えるマニュキュアや
夜に家まで送り届けてくれるようなアプリ、
口紅に見せかけた催涙ガスを作り出さなきゃいけなかった
事実を忘れたい日だってある。
ある時、わたしはパワフルだってある男の子に言ったら
減らず口叩くなと返された。
ある時、ある男の子にミサンドリーだと責められた。
世界を支配できるとでも思ってんの?わたしは答えた、いいえ、
わたしは世界を見たいだけ。
ただ知りたいんだ、
世界は誰かのためにあるってことを。
ある時、父はセクシズムは死んだと言いながら、
舌の根も乾かぬうちに、わたしに
常にペッパースプレーを携帯するよう注意した。
わたしたちはこの絶え間ない恐怖を
女の子であることの一部として受け入れている。
安全に家に帰り着いたらお互いにメッセージしあって、
男の子の友人たちは同じようにしなくてもいいってことは
考えもつかないでいる。
女を真っ二つに切断したら
それってマジックのトリックって呼ばれるんでしょ。
それがわたしたちをここに招待した理由、
そうじゃない?だって美人のアシスタントなしの
ショーなんて存在しないじゃない?
わたしたちは、わたしたちの裸のポスターを飾って
わたしたちの首を絞めることを空想し
わたしたちが殺される映画を見ている
男の子たちに囲まれている。わたしたちは
ニュースや、牛乳パックに載ってる行方不明の女の子、世界の端っこのほうで行方知れずのなった女の子について
わたしたちに警告する男の人たちの娘だ。
彼らはわたしたちに注意深くあれとせがむように言う。安全であれと。
そしてわたしたちの兄弟には、外に出て遊んでこいと言うんだ。


The texts are here:
Blythe Baird – POCKET-SIZED FEMINISM The only other girl at the...

The performance is here:
Blythe Baird - "Pocket-Sized Feminism" (Button Live) - YouTube


ワインスタインに始まる一連のセクハラ・性暴力の告発に関して、「普段フェミニズムを標榜していながら、なぜ今まで声をあげなかったのか?」という声が聞こえることもあったけれど、システムの問題をそのシステムの一員である人間が指摘すること、特にそのシステムにおいて大きな力を持つ者に異議を唱えることの難しさが、この詩を読めば/聴けばわかる。「席を立った隙に誰かがわたしの席に座ってしまったらどうする?」という箇所は、自分が身を落ち着かせた社会/コミュニティにおけるポジションを正義のためにやすやす手放すなんてできない、その恐怖をユーモラスな比喩で表現していて特に好きなところ。動画のパフォーマンスでは具体的な体験がいくつか引用されていて、その一つ一つがどこかで聞いた話、身に覚えのある話で身にしみる。彼女の他のパフォーマンスもとても大胆で率直で良いので、興味を持たれた方はいろいろ見てみてください。