自らを救う女子のお伽噺、再び+『17歳の肖像』/Carol Ann Duffy, 'Little Red-Cap'

以前から何度か話題にしている英詩人キャロル・アン・ダフィの詩集The World's Wifeを読み始めた。


The World's Wife: Picador Classic (English Edition)

The World's Wife: Picador Classic (English Edition)

神話や伝説、現実の歴史において排除されてきた女性たち--特に偉人や英雄の妻たちに焦点を当て、彼女らに自らの物語を語らせていく、というコンセプトの詩集。ヘロデ大王の妻やダーウィンの妻、あるいはメデューサのような嫌われものの女などが、ダフィの筆を借り(正確にはダフィがそのペルソナを借り)、それぞれに自らの詩を紡いでいく。その冒頭を飾る'Little Red-Cap'という赤ずきんを語り手とした一篇がまずもう素晴らしいから、とりあえず訳させてください。

キャロル・アン・ダフィ「赤ずきん


子ども時代のおわり、家々は消えていった
遊び場へと 跪いた既婚の男たちによってまるで情婦のように
管理された工場や、菜園へと
静かな線路へと 隠遁者のトレーラーハウスへと
そしてついに森の端っこに辿り着いた。
わたしが初めて狼を見やったのはそこだった。

彼は開けたところに立ち、自分の詩を声に出して読んでいた
その狼らしい間延びした話し方で、毛むくじゃらの手にペーパーバックを持ち
髭を生やした顎は赤ワインの染みがついていた。なんて大きな
耳だろう!なんて大きな目だろう!なんて歯だろう!
幕間に、彼がわたしに目をつけたんだ
花の16才、初心な、家なき子に そして一杯奢ってくれた

わたしの初めての一杯。あなたはなぜと訊ねるかもね。これが理由。詩だ。
分かっていた 狼が家から離れた森深くに
梟の瞳に照らされた暗く混沌としてやっかいな場所に
わたしを連れて行くことは。彼の跡を追って這った
ストッキングはビリビリに破れ、ブレザーの赤い糸くずが
枝々に引っかかって殺しの手がかりになった。靴を両方失くしてしまったけれど

わたしは辿り着いた、狼のねぐらに 用心しなければ。その夜のレッスンその1、
狼の吐息がわたしの耳に愛の詩を詠んだ。
わたしは夜が明けるまで彼の激しい毛皮にしがみついた。
どうして小さな女の子が狼を愛せないだろうか?
それからわたしは毛のもつれた重たい手から滑り出て
生きた鳥--白い鳩--を探しに出た

鳩はわたしの手からまっすぐに彼の開いた口に飛び込み
一噛みされ、死んだ。ベッドで食べる朝食は最高だねと彼は言った
舌なめずりしながら。彼が眠るとすぐに、わたしは忍び込んだ
壁全面が本によって真紅に、黄金に輝いたねぐらの裏側に。
言葉が、言葉が舌の上で、頭のなかで真に生きていた
温かく、脈打ち、必死に、羽をばたつかせて;音楽と血のように。

でもそのときわたしは若かった--だから十年もかかった
森のなかで きのこが埋められた死体の
口を塞ぐこと、鳥は木々が口に出した
考えだということ、白髪になっていく狼がゆく年、くる年
月に向かって同じ歌を吠えること、季節がめぐっても
同じライムを、同じ理由で吠えることを語れるようになるのに。わたしは斧を振った

柳がどんなにふうに泣くか見ようとして。わたしは斧を振った
鮭がどんなにふうに跳ねるか見ようとして。わたしは狼に斧を振った
彼が寝ているときに、一振り、陰嚢から喉へ、そして見たんだ
わたしのお祖母さんの輝く純白の骨を。
わたしは彼のお腹に石を詰めた。そして縫い合わせた。
森の外へわたしは花をもって出る、ひとりきりで歌いながら。


Carol Ann Duffy – Little Red Cap | Genius


わたしの英語力もなかなか怪しいところがあるので、誤訳・恣意的な訳になっている可能性があるから原詩を読んでもらうのが一番だとは思うのですが。

読んでいてとにかく嬉しくなってしまったのは、これもまたアナ雪やゴブリン・マーケットの系譜に連なる、男性のヒーローに助けてもらうのではなく、自ら行動し成長する若き女性のお伽噺だということ。この赤ずきんの物語には狼を退治して赤ずきんとお祖母さんを救ってくれる猟師は登場しない。赤ずきんは自分の手で狼を打倒する。加えて、映画『17歳の肖像』的な要素もあり、読みながら悶えるしかなかった。悶えるしかなかったよ!


この詩では、ゴブリン・マーケットにおけるゴブリンの役割を果たす、少女を誘惑し肉体関係を持つ男性=狼が、ゴブリンよりもいくぶん魅力的に複雑に描かれている。わかりやすく悪徳の象徴だったゴブリンとは異なり、狼は詩人で、読書家で、ワイルドで、セクシー。わたしやあなたが憧れるかもしれない、知的でちょっとアウトローな男性だ。狼との接触は性体験のみならず本や詩といった知との出会いも意味していて、必ずしも否定的なものではないように思う*1。初め、赤ずきんはそんな教養がある大人の男性から愛されることに、たぶん満足している。まさに『17歳の肖像』的ですよね。

けれど、彼女は狼の蔵書を通して次第に自らの言葉を獲得し、自ら語ることを学んでいく。そして狼が特別な存在じゃないこと、彼に愛されることには実はさほど大きな意味がないこと、もしかすると彼に搾取されてきたかもしれないことを知る。この過程はあまり明瞭には描かれていない。赤ずきんが狼に失望したとか裏切られたという直接的な描写は存在しない。だから突然赤ずきんが狼を殺すのは不条理だと感じる人もいるかもしれないけれど、ここで赤ずきんの行動の意味が想像され、共感さえするという人がいたら、握手。これはわたしが『17歳の肖像』を見た時から何度か、しつこく言い続けていることなんですが、大人の男性からの承認はあなたの価値をなんら高めるものじゃない。もちろん他者から、それも知性や教養のある他者から褒められたり、認められたりする嬉しさや心地よさは当然ある。けれど、それがあなたの魅力や価値になるのではない。あなたの価値はあなた自身の言葉や想像力/創造力の中に、あなた自身の中にある。きっと赤ずきんはそれを知ったから、狼を殺したのだ。自分ひとりで自分の歌を歌えるようになったから。




追記:赤ずきんは自分ひとりで歌えるようになったと書きましたが、その結果としてこの詩ができたわけですよね。それが"You might ask why. Here's why. Poetry."ってとこに掛かってくるわけだ。なお感動。

*1:ゴブリンにおいても、ゴブリンという男性だけが持ち得、少女たちは食べてはいけないとされる果物は、旧約聖書におけるアダムとイブが食べた知恵の実のイメージとも重なって、当時女性が遠ざけられていた執筆などの知的活動を指す、という解釈もある。