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「私(I)」の声を聴け/Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'と'The Applicant'に見る劇的独白の効果

久しぶりに図書館でいろいろ漁っていたら、こちらを見つけた。

この前アナ雪とゴブリン比較で参考にさせていただいた、反逆する花嫁の物語としてのゴブリン論を書かれた齋藤美和さん編著のイギリス詩ガイド。シェイクスピアジョン・ダンなどの詩を若い読者向けに紹介するライトめな読み物になっていて、ゴブリンも取り上げられている(ここではわたしが紹介した論文とはまったく異なり、アイロニカルで恐ろしい取り替え子の物語詩として読解されている)。

その中でわたしも以前こちらで紹介したキャロル・アン・ダフィの「メデューサ」'Medusa'という詩について書かれた章がある。この詩自体、力のある見事な作品なのだけど、今回はこの詩をきっかけに別の、わたしが大好きなシルヴィア・プラス*1の詩の話をしたい。


メデューサ」は劇的独白(dramatic monologue)で書かれている。劇的独白とはあるキャラクターが(特定の)聞き手に対して語りかける詩の形式で、一人のみが話すので会話(dialogue)はないんだけれど、語り手が聞き手を意識して語っているので、劇的な効果がある。まあこうやって書くと意味がわからないと思うんだけど、たとえば尋問する刑事とされる容疑者の会話を描くのではなく、容疑者側の語りのみを切り取ったら、それが劇的独白だ。「メデューサ」は、夫に裏切られた妻が、蛇の髪を持ち、見るものを石に変える女メデューサよろしく、夫を石にして復讐しようとしていることを夫に語る詩。

My bride’s breath soured, stank
in the grey bags of my lungs.
I’m foul mouthed now, foul tongued,
yellow fanged.
There are bullet tears in my eyes.
Are you terrified?

Be terrified.
It’s you I love,
perfect man, Greek God, my own;
but I know you’ll go, betray me, stray
from home.
So better be for me if you were stone.

わたしの花嫁の息は鼠色の両肺で
酸っぱい、悪臭を放った。
口は汚らわしく、舌も汚く
黄ばんだ牙がある。
目には弾丸の涙。
あなた怖がっている?

おそれるがいい。
わたしが愛するのはあなた
完璧な男、ギリシアの神、わたしの神
でもわたしは知っている、あなたが出て行くと、わたしを裏切り、
家を出ると。
だからあなたが石になってくれたほうがいい。

Carol Ann Duffy, 'Medusa'

最初の数行を読んだ時点でなんとなく感じたことがあったんだけど、それが"Are you terrified?--Be terrified."のところで確信に変わった。この詩はシルヴィア・プラス「レディ・ラザラス」'Lady Lazarus'の素晴らしいオマージュではないか。

Peel off the napkin
O my enemy.
Do I terrify?--

ナプキンを剥いでごらん
わたしの敵よ。
わたしが怖い?--

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

メデューサ」の"Are you terrified?"は間違いなく「レディ・ラザラス」の"Do I terrify?--"に呼応している。よく見ると、二つの詩は構造的にも似ている。プラスといえば、夫テッド・ヒューズの不倫によって結婚生活が破綻し、ヒューズへの憎悪を叩きつけた詩を離婚後にいくつも書いているんだけれど、「レディ・ラザラス」も例に漏れず、詩の最後で主人公レディ・ラザラスは「灰の中から赤毛を立てて浮上し、空気のように男を食らう("Out of the ash / I rise with my red hair / I eat men like air")」。他の女("your girls, your girls")のもとへ走る夫を石に変えてやろうと企むメデューサ妻の物語に、まあ相通じているじゃないか。

レディ・ラザラスは聖書に登場する、蘇る男=ラザロの女版で、死と再生を繰り返すことを特技としている。このキャラクターには20才で自殺を試み、死の淵から生還したプラス自身の経験が反映されていて、「レディ・ラザラス」はよく告白詩(confessional poetry、とことんまで「私(I)」を抉る詩のジャンル)の代表作に挙げられる。

I have done it again.
One year in every ten
I manage it--

またやった。
十年に一年
わたしはやり遂げる--

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

レディ・ラザラスは10年おきにいったん死んで蘇るのを繰り返していて、その死からの再生劇はまるで一大ストリップショー("big strip tease")のように見世物にされ、人気を博している。

The peanut-crunching crowd
Shoves in to see

Them unwrap me hand and foot--
The big strip tease.
Gentlemen, ladies,

These are my hands
My knees.
I may be skin and bone

Nevertheless, I am the same, identical woman.

ピーナツをくちゃくちゃ噛む観衆が
押し寄せて見る

やつらがわたしの手や足を剥いでいくのを--
一大ストリップショー。
紳士、淑女の皆さん。

これがわたしの手
わたしの膝。
わたしは骨と皮になるでしょう

でも、わたしは同じ、まったく同じ女。

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

どんどんと腕や足を剥かれていく身体解体ショーの描写は痛々しく衝撃的だけれど、レディ・ラザラスは驚くことに骨と皮だけになっても見事に復活できるという。

It's the theatrical

Comeback in broad day
To the same place, the same face, the
same brute
Amused shout:

'A miracle!'
That knocks me out.

劇的な

真昼間のカムバック
同じ場所、同じ顔、同じろくでなしのもとに
やつらは驚嘆して叫ぶ:

「奇跡だ!」
これにはくらっときちゃう。

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

ここまでいくつか引用してきて、読んでくださっている方はお気づきになっていると思うのだけれど、この詩もまた劇的独白で書かれている。わたしはこの詩が大好きで、もう何度も読んでいるのに、今回「メデューサ」と比較するまでこれが劇的独白であることに気づかなかった。バカですねえ。それはさておき、ここでの語り手は当然死と再生の名手レディ・ラザラスで、聞き手は彼女の敵("my enemy")。敵は彼女を解体するやつら*2であり、またそれを眺める観衆(わたしたち読者含む)でもある。プラスはレディ・ラザラスというペルソナに劇的な独白をさせることで、どんな意味や効果を持たせようとしたのだろう?

プラスの劇的独白というと、「応募者」'The Applicant'という詩が印象深い(そう、わたしは過去に彼女の劇的独白について考えたことがあるのに、「レディ・ラザラス」が劇的独白だと気づいてなかった!おばか!)。この詩の語り手はある面接官で、面接を受けにきた応募者を聞き手に話し始める。ここで応募者が志願するのは夫になることで、面接官は応募者を品定めしながら妻をあてがおうとするのだが、この描写の恐ろしさったらない。

Come here, sweetie, out of the closet.
Well, what do you think of that?
Naked as paper to start

But in twenty-five years she'll be silver,
In fifty, gold.
A living doll, everywhere you look.
It can sew, it can cook,
It can talk, talk, talk.

It works, there is nothing wrong with it.
You have a hole, it's a poultice.
You have an eye, it's an image.
My boy, it's your last resort.
Will you marry it, marry it, marry it.

出ておいで、お嬢ちゃん、クローゼットから。
さあ、どう思うかね?
最初は紙のようにまっさらだが

25年もすれば彼女は銀になる
50年後は金さ。
どこを見ても、りっぱな生き人形だよ。
これは裁縫も、料理も
おしゃべりもできる。

しっかり働くよ、何も悪いところはない。
君には穴がある、これが湿布になってやる。
君には目がある、これがイメージを与えてやる。
わたしの坊やよ、これが最後だ。
これと結婚するかい、結婚を、結婚を?

Sylvia Plath, 'The Applicant'

語り手は女を生き人形('A living doll')と称して代名詞itで呼び、まるで自分の店のイチオシ商品のように応募者に売り込む。ここでの女はまったく人間性を否定された「モノ」で、紛れもなくこの詩には結婚という制度と妻たちが受ける抑圧への皮肉や批判が込められている(よく知られているようにプラスはフェミニズム詩人の先駆けとも言われる)。しかしここで本当におもしろいのは、主体性や人間性を奪われているのは女だけではないということ。夫となる応募者も望んで妻を得ようとはしているものの、選択権はなく、いささか強引に面接官に妻を売りつけられている。それに彼が売られるのは妻だけじゃない。

Open your hand.
Empty? Empty. Here is a hand

To fill it and willing
To bring teacups and roll away headaches
And do whatever you tell it.

手を開いてごらん。
空っぽ?空っぽだね。さあ手をやろう

空っぽを埋め、喜んで
ティーカップを持ち、頭痛をどこかへやってくれる
それに君が教えたことは何でもするよ。

Sylvia Plath, 'The Applicant'

I notice you are stark naked.
How about this suit -

Black and stiff, but not a bad fit.

君は丸裸じゃないか。
このスーツはどうだい--

黒くて固いが、悪くない。

Sylvia Plath, 'The Applicant'

面接官は応募者を欠損のある人間と見なして、彼に手やスーツを与えようとする。特にスーツは社会における男性らしさ、夫らしさを保証するものといえ、応募者はこのスーツを外から与えられることで初めて男/夫としての役目を果たすことができる。つまり女らしさの神話と同じように、男性らしさというものもまた紛いものなんだとプラスはコミカルに、アイロニカルに表現している。

女が生き人形として商品化されている一方、応募者も面接官によって身体中をいじられ、様々なパーツをくっつけられて、まるで何かの製品のように扱われている。何せ彼が与えられた手は塩から再生産することができる("We make new stock from the salt")。このように代替可能・再製可能なモノ化された人間観・身体観はプラスの詩の大きな特徴で、彼女は常に「自分(の身体)が自分でなくなってしまう」脅威と恐怖を描いてきた。それは女性として生き、抑圧を肌で感じてきた日々の反映であり、また自殺未遂後の精神病院での経験に基づいてもいる。プラスの詩や自伝的小説『ベル・ジャー』The Bell Jarには、彼女の医者嫌い、病院側が彼らの基準で勝手に彼女の問題を規定し、心や身体をいじくりまわすことへの嫌悪感がよく表れている(ベル・ジャーにはロボトミー手術を受けた女の子が出てくるのだけれど、まだそういう時代の医療であることは明記しておきたい)。

この話を続けると長くなるのでここでやめるけど、つまり乱暴にまとめると、プラスは「社会がいかにわたしたちの心身のあり方を規定・限定し、わたしたちからわたしたちらしさを奪いうるか」*3にとても意識的な詩人で、そうした個の抑圧の結果として取り替え可能なパーツの寄せ集めのような自律性のない身体像が彼女の詩世界には現出する。

こういったことを表現する上で、「応募者」では劇的独白がとてもいい働きをしている。すでに書いたように、この詩は面接官の発言のみで構成されている。そのため強引な売り込みを続ける面接官に対して応募者や女のリアクション・レスポンスはまったく言葉として表れてこない。モノのように扱われる応募者と女は詩の形式の上でも声=主体性を奪われていて、劇的独白は面接官の饒舌を際立たせる一方で、声なき者の存在を浮き彫りにする。

ひるがえって「レディ・ラザラス」では、この一人の声だけが強く主張する劇的独白の特徴がまた別の効果を生んでいる。ちなみにレディ・ラザラスは再生の名人だと紹介してきたけれども、彼女の再生劇も本当は再製劇と言ったほうがいいかもしれない。阿部公彦さんは『英詩のわかり方』で、レディ・ラザラスについて「皮膚や足や顔といった部分ばかりが突出し、それらを統一する全体性が欠落し」ているとして、この詩には「自己同一性を得られなくて、身体がばらばらになっていく感覚」が描かれていると分析している。レディ・ラザラスの身体ストリップショーはすでに見てきた通りで、たしかにレディ・ラザラスの身体も応募者同様にバラバラのパーツに分解された統一性・自律性のないものになっている。

A sort of walking miracle, my skin
Bright as a Nazi lampshade,
My right foot

A paperweight,
My face a featureless, fine
Jew linen.

一種の歩く奇跡、わたしの肌は
ナチのランプの笠のように明るく、
わたしの右足は

文鎮、
わたしの顔は特徴のない、良質な
ユダヤのリネン。

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

レディ・ラザラスをユダヤ人に喩えた箇所についてはものすごくいろんな意見があるのだけれど、ここで確認したいのは、レディ・ラザラスが自分の身体を、ナチスによって亡骸の一部を再利用・製品化されたと言われる強制収容所のユダヤ人に喩えることで、再生産可能なモノとして認識しているということ。彼女の復活は奇跡と称賛されるけれども、詩を読み進めていくと、この再生劇には新しい人間として生まれ変わる肯定的な響きよりも、むしろ解体・再生産を否応なく繰り返させられる"再製"劇としての皮肉なトーンを感じとってしまう。

しかしこのようにバラバラに分解され、どんどん自分を失っていくレディ・ラザラスだけれども、彼女の「声」だけは詩を通して変わらずに聞き続けることができる。それは当然、劇的独白という形式で書かれているから。「応募者」では劇的独白によって応募者や女の個がいかに圧し殺されているかが際立つけれど、「レディ・ラザラス」では逆にレディ・ラザラスに声を持たせることで、自分であることを剥奪され、崩壊していく身体にもたしかにその持ち主であるはずの「私」が存在しているのを感じさせる。

レディ・ラザラスは詩の中で何度も「私は(I)」と声を絞る。この「私」の多さが真の告白詩と称される所以でもある。劇的独白と普通の叙情詩の違いは、それが単なる心情の描写や吐露ではなく、ペルソナが聞き手を意識して語っていることにあるから、レディ・ラザラスははっきりと、わたしたちに向かって「私」を主張している。私、私、私…と声高に叫ばれる肥大した自意識は大袈裟でもうお腹いっぱいと感じる人もいるかもしれない。けれどもこれだけ私を押し出さなければ、自分の心身が自分のものではなくなってしまうような切迫した恐怖をわたしは他人事だとは思えない。わたしたちからわたしたちらしさが奪われるとき、きまってわたしたちは鈍感になる。自分に対しても、他者に対しても。しかしそこには確実に押し潰される「私」があることに、プラスは「レディ・ラザラス」を通して、劇的独白を効果的に用いて、光りを当てている。

最終行「空気のように男を食う("I eat men like air")」の「空気のよう(like air)」が「男(men)」にかかるのか、「食う(eat)」という行為にかかるのかは微妙なところだけど、わたしは「食う」にかかると思う。この結びを読むとわたしの頭に広がるのは、あの"Beware / Beware"という不気味な警告(これはここで紹介した「クーブラ・カーン」の有名な言葉からきている)とともにレディ・ラザラスの声が燻る灰の中からまるで煙のように、超自然的に立ち上り、食いかかってくる、そんなイメージ。ここで彼女の声はもはや肉体を超越して、ただただ自己の塊へとある意味では純化されているようにわたしには思える。そこにある主張はただひとつ。「私(I)」の声を聴け。




文献リスト!わたしの恣意的な引用ではあれなので、ぜひ原詩を
Lady-lazarus Poems
The Applicant by Sylvia Plath | Poetry Foundation
Carol Ann Duffy – Medusa | Genius

広本勝也『シルヴィア・プラス:軽薄と絶望』
皆見昭,渥美育子編『シルヴィア・プラスの世界』南雲堂 1982

*1:1932年、マサチューセッツでドイツ系の父とオーストリア系の母のもとに生まれる。主に執筆を行っていたのは50年代終わりから60年代はじめ。62年、桂冠詩人である夫テッド・ヒューズとの結婚の破綻後、詩才の絶頂期を迎え、素晴らしい作品を多数残した。63年、未曾有の寒さに見舞われた真冬のロンドンでオーブンに頭を突っ込み、ガス中毒死。奇しくもそれはベティ・フリーダンの『女らしさの神話』The Feminine Mistiqueが出版される年だった。

*2:これがナチスに喩えられ、レディ・ラザラスがユダヤ人に喩えられている点には様々な批判があります。個人の苦しみをユダヤ人の民族的な苦痛に安易に重ね、ホロコーストという歴史的事件を矮小化しているというのが主です。この点についてわたしもいろいろ思うところがあるのですが、今回は控えます。皆さんはユダヤ人ではなかったプラスがホロコーストのイメージを使用することでどんな効果が生まれると思いますか?本当にプラスはただ自分の苦しみはユダヤ人がナチスからの弾圧で味わったものと同等だと言ってのけてしまうナルシシズムだけで、こんな比喩を用いているのでしょうか?

*3:さらにプラスは自分がこれに加担しうることについても本当は自覚的だった、とわたしは思っている