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ららぽーとで問答/Reflection on the INTEGRATE advert and how women live in this society

ぼやき

また何か詩の翻訳でもしようかなー、と特に紹介したい作品があるわけでもないのに考えていて、はたと気がついたのは、詩の翻訳はわたしにとって精神安定剤の役割があるということだ。詩を読み返し、改めて素晴らしい言葉に共感し、揺り動かされ、勇気をもらい、初めてその詩に感動したときのことを追体験する。その作業過程が好きで、落ち着かない心をひとまず置いておけるポケットを作れるから、わたしはへたくそなくせに詩の翻訳を止めない。つまり、今わたしの心は落ち着いていない。理由はわかっている。


昨日バイト時代の友人・マネージャーとランチをするために、地元のららぽーとに行った。どこのららぽーともそうなのかはわからないけど、我が地元の客層はファミリーとティーンが大半だ。わたしと同じように最寄駅からぞろぞろとららぽーとまで歩いているのはたいていティーン層(ファミリー層はやっぱり車が多い)で、わたしはいつも最寄駅に降り立つとそわそわしてしまう。あのデカデカとした建物まで歩いている間ずっと居心地が悪く、目的のお店(というより映画館であることが多いが)に辿り着くか友人と落ち合うまで、その感覚は消えない。

先日24才になったわたしはららぽのメインターゲット層から外れているから自分の居場所じゃないと感じるのは当然だろう。それにしても、ファッションもメイクも話し方も身振り手振りもすべて、わたしのそれと、彼氏・友人らと意気揚々とららぽに向かう女子たちのそれとが丸っ切りかけ離れているのをまざまざと見せられると、その価値観のギャップの大きさに「わたしはここにいていいんだろうか、、」と自信を失う。わたしは服装は極力シンプルなスウェットとジーパンでメイクだけ少し凝るという力の抜き具合・入れ具合が好きなんだけど、そういう姿で歩いていると、頭から爪先まで100%全力を投入したファッションの女の子たちには、近所の公園に散歩しにいくような格好でららぽに来ちゃってると思われているかもしれない、と卑屈な被害妄想が広がる。

インテグレートの件のCMを見て、来年25才のわたしは特に傷つくことはなかった。と自分では思ったものの、ららぽーとでこんな卑屈なことを考えているんだから本当に気にしてないのかは甚だ怪しい。ティーンの頃でさえ、映画館の暗闇を除いては、ららぽーとに居場所を見出したことなんてなかった。自分はここにいる子たちとは違うとずっと思っていたし、それが優越感になることも孤独感になることもあった。大学に入り、いろんな人と作品に出会い、なんかよくわからない病気になったりしてるうちに、緩やかに今ある自分を受け入れることができるようになったけれど、ららぽーとに来ると自分はまるでこの世界の住人ではないかのように思える。そしてここにいる女子の多くはわたしと違ってこの世界に溶け込んでいるように感じてしまうけれど、本当のところはどうなのだろうといらぬ勘繰りをしてしまう。

ららぽ最寄駅のトイレで誰かと待ち合わせているのだろう高校生くらいの女の子が何分も髪を直していた。わたしにはその前髪が数ミリずれることで何の違いが生まれるのかわからないけれど、自分とは何かというアイデンティティの問答の只中にある10代には大きな意味があるのはわかっている。インテグレートはもともとそれくらいの、お小遣いでコスメを買うような年齢層もターゲットに入れていたブランドだと思う。今回ターゲット層の年齢を引き上げたとはいっても、これまでインテグレートを使ってきた女子高生だってあの広告を目にするだろう。それを考えると、やっぱりあんなCMは間違っているよと声を張らなきゃいけないと思う。まだ何者でもない若者にとって周囲の一言は重いのに、突然「25才になったら女の子は終わり、もうチヤホヤされないし、価値の下落待ったなし!」と勝手に人生を限定され、勝手に25才で人生を終了されたら、いったい女の子たちはどこへ向かえばいいのだろうか。

インテグレートのCMの、企業側が言う真意というのは、そんな行き場を失った女子にコスメで救いを、ということなんだろう。確かに女性の価値は25才までという価値観が存在していた/している一方、25までに結婚して母になってという女性がどんどん減り、働く女性が増えているのは事実で、社会構造の変化とともに価値観もアップデートされるべきだし、その際にコスメは一つの助けになりうるはずだ。けれども、その救いの方向性が圧倒的に間違っている。それどころか、この社会でいう女性活躍は女性がもっと多様に自由になることではなく、女性をまた違うやり方で搾取することだということを思い知らせ、さらにはそれを助長してしまっている。

だから25才の誕生日のCMよりも、その続編の「疲れが顔に出ているうちはプロじゃない」のほうがわたしにはより恐ろしい。顔に出るほど疲れが溜まっているのを隠す化粧は全然女の子の救いになんかなっていなくて、本来身体を癒やすための風邪薬が、休めない仕事に向かわせ、さらに身体を過酷な状況に追い込むのとまったく同じように、自分の心身をより不自由にさせるものだ。女性であるがゆえに見た目に求められるものが男性よりも大きく、「女の子なんだからオフィスに花をもたせてよ」という無言のプレッシャーもこのCMの背景にはあるかもしれない。しかしここまでいってしまうと、根本にあるのは「24時間働けますか」とまるで変わらない、性別を問わない社会構造の問題に波及していると思う*1

奇しくも自殺した電通の女性社員が男性上司から「女子力がない」「ボサボサの髪で出社するな」と罵倒されていたと報道があり、インテグレートのCMの暴力性が辛すぎる形で証明されてしまった。それなのに「お洒落や恋愛だけじゃなく仕事も頑張る女子(そのためには心身の負荷は致し方ない)」が無邪気にメディアで信奉されたり、CMの問題が女性だけのものとして片付けられたりするのが何よりも嫌だし、恐ろしい。今さかんに発信されている頑張る女子像は結局旧来の価値観を解体するものじゃなく、むしろお洒落や恋愛に生きるという古臭い女子像に、これまで男性が課されてきた役割を乗っけただけで、女性が求められることはさらに増えてしまったんではないかとさえ思える。この社会が向かっているのは「お洒落でも恋愛でも趣味でも仕事でも自分の好きなものに力を入れればいい」ではなく、「お洒落も恋愛も仕事も全力じゃなくちゃだめ、女だからって甘えていられない」という新たな、そしてより厳しい抑圧じゃないか。問題は何一つ解決していない。女性にとっても、男性にとっても。



罪悪感があって書くのを迷ったのだけれど、彼女のツイッターを見つけて全部読んでしまった。終わりの見えない激務から救ってくれるのは素敵な男性との結婚だと考えているらしかったのが辛かった。価値観の刷り込みは本当に人を殺すのだと思う。



詩に逃げるのはやめようと思って書いてみたけれど、こういった人の尊厳や命に関わる話題でさえ、素直に思ったことを言うことができず、どうしたらもっと的確な表現ができるか、クリアな文章構成になるかを考えてしまう自分がすごく嫌いだ。今だって最後にこういう自分の心境の吐露をわざわざ持ってきて文章をまとめようとしている。詩の翻訳は一から自分で書くよりも言葉に対して負う責任が小さいような錯覚に陥るから気が楽なんだろう。本当はそうじゃなくて等しく責任を負うべきなのに。数日前には好きな詩を紹介して言葉に勇気づけられたのに、今日はまた言葉への信頼を失っている。そしてこうやって書いているうちに、これまで論じてきた真に重要な問題からどんどんかけ離れていってしまって、自分は本当にこの問題と向き合えているのかわからなくなる。そんな人間の言っている戯言だから何ら信用はできないけれど、書いてしまったものはやっぱり誰かに読んでほしいのだった。

*1:朝マックのアニメのCMとか男性主人公でめちゃくちゃ狂気を感じます。山積みになった仕事がモンスターボックスもびっくりな高さの跳び箱に見立てられ、それを目を血走らせた男性が朝マックでエネルギーチャージして跳び越えるというやつ