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風と共に去りぬーーでもわたしは生きる

映画

風と共に去りぬ」(Gone with the Windヴィクター・フレミング監督

午前十時の映画祭で見てきました。恥ずかしながら初見。なのでデジタルリマスタリングによる元のフィルムとの映像の違いはわからないのだけど、テクニカラーの鮮やかさが消えゆく南部世界の最後の輝きのように美しくスクリーンに映えていました。

わたしの感想はエントリのタイトルにある通りで。この映画のタイトル「風と共に去りぬGone with the Wind)」は、騎士道精神に彩られた華やかな南部貴族世界が南北戦争という風と共に消え去ったことを意味するわけですが、そんな儚さや滅亡の美学はヴィヴィアン・リー演じる主人公スカーレット・オハラにはまったく似合いません。彼女は世界がどうなろうとも強く生きていく、よく言えば逞しい、悪く言えば図太い女。そして極端に言ってしまえば、この映画はそんな根性の図太いビッチがひたすら改心することなくビッチのまま混乱の世界を生き抜こうとするお話であって、スカーレットの変わらなさというのはある意味天晴れと言いたくなるくらいです。個人的な趣味ですが、わたしはこういう肝のすわったビッチの映画が好き。生きていくためには何をしてもいい、ってわけではもちろんないけれど、自分の生活は自分で守るしかないないわけで、自分のことで頭がいっぱいになっているスカーレットってやっぱり魅力的なキャラクターです(自己本位な女性の物語がすごく好きなのです)。

スカーレットが最後の最後まで変わらないところも好きなところ。改心しない女ものとしてはジェイソン・ライトマン監督、ディアブロ・コディ脚本の「ヤング≒アダルト」を思い出したりも。傷だらけになりながらも退屈な田舎と決別して、わたしはわたしと背筋を伸ばした「ヤング≒アダルト」のメイビスに比べると、本作のスカーレットは手に入らないものを求めて足掻きつづけるあまり美しくない執着心を見せますが、それでこそスカーレット・オハラというかんじがします。彼女は何があっても変わらない。たとえ世界がひっくり返っても、彼女はいつまでも故郷タラの土地にしっかりと両足を踏みしめて立ち続けるでしょう。“Gone with the wind……but I will live, I will.” そんな声が聞こえてきそうな気がします。最後のあの有名なセリフを聞いたとき、あまりにもスカーレットの軸がぶれないものだから、ちょっと笑ってしまいそうになりました。

脇を固める女性キャラクターたちも素晴らしくて。女神のように強く優しいメラニーとスマートな娼婦ベルの共闘めいた微笑みの交わし合いなんかすごく好きです。オハラ家のメイド・マミーを演じ、黒人初のオスカー受賞者となったハティ・マクダニエルの迫力ある顔もとても印象的。この映画では男性よりも女性が圧倒的に強く、生き生きしていて、その点ではちょっと「JUNO」を思い出しました(これもライトマンとコディのコンビ作ですね)。

また、女性を主人公にして、アメリカの果てない欲望をここまで彫り込んでいる映画はなかなかないように思います。劇中で北部人たちとの商売が描かれているように、スカーレットは戦争終結後おそらくは北部の近代的な商売スタイルに迎合することで、経済的な立て直しを図ったのだと考えられます。そしてそれは欲望を半永久的に再生産しつづけ富を拡大していく20世紀以降のアメリカ資本主義経済のベースとなったものであり、この経済システムの下でアメリカは「もっと多く」を求めるようになります。けれども、その欲望は決して尽きることはない=満たされることはないのだから、それは絶対に手に入れられない夢とも言えます。そしてスカーレットはそんな叶わぬ夢に囚われた人だったと捉えることもできるのではないでしょうか。

スカーレットは南部生まれ南部育ちながら、もともと南部の窮屈な規範にはまった淑女ではなく、北部的な気質を持ち、北部で長年を過ごしたレットに惹かれます。けれども、彼女が最後まで諦めることができなかったのは消えゆく南部の紳士らしさや繊細さを体現するアシュレーであって、彼は彼女がどんなに手を伸ばしても絶対に手に入ることはありません。物質的には十分満たされた北部的な人間がどうしても欲しかったもの、それは南部的な繊細な精神だった、という読みはちょっと単純でしょうか。アメリカ文学やアメリカ映画の世界には、このように莫大な富を手にしながら心に空白を抱えた人物の物語が多くあります。しかし「華麗なるギャツビー」も「市民ケーン」も「ソーシャル・ネットワーク」も男性が主人公の映画であり、それはやっぱり資本主義のアメリカを動かしてきたのは男性たちだったからなのでしょう。「風と共に去りぬ」は女性が主人公であるという点でユニークであり、この時代、荒廃した南部で成功するには「北部的な男性」にならねばならなかったのかなということを考えると、少し皮肉みいているようにも感じます。

アメリカは欲望という燃料を絶えずくべることで発展してきた国です。彼らが求めるのは決して満たされることない夢。それはアシュレーの心のように、脆くナイーブで、決して手の届かない儚い幻のようなものなのではないでしょうか。