Warsan Shire, 'Backwards'(2017年7月①)

人生が過去から現在未来へと無情に流れていく時間の堆積である以上、いかに時に抗うかは常に詩人の命題の一つであり続けるだろう、というような話を再び。

ワーザン・シャイア「後ろ向きに」


サーイド・シャイアへ

後ろ向きに部屋へと歩いてくる彼の姿で詩を始めてみよう。
彼はジャケットを脱ぎ、そこに生涯腰を落ち着ける、
こうやってわたしたちはパパを取り戻そう。
わたしは出た鼻血を戻すこともできる、蟻が巣穴に駆け込むみたいに。
わたしたちの体は小さくなり、わたしの胸は消え、
頬は柔らかくなって、歯はまたガムを噛む。
(今度は)わたしたちを愛される存在にできる、ただ望みを言葉にして。
彼らが一度でも同意なしにわたしたちに触れたなら、手を切り落としてしまおう、
わたしは詩を書いて、消し去ってしまえるんだから。
義理の父さんは酒をグラスに吐き戻し、
ママの体は階段を転がり上がって、骨は正常な位置に戻る
ママはたぶん赤ちゃんを産む。
わたしたちもたぶん大丈夫だよね?
わたしはこの人生を丸ごと書き直して、今度は愛に溢れたものにする
その先は見越せない。

その向こうは見越せない、
わたしはこの人生を丸ごと書き直して、今度は愛に溢れたものにする。
たぶんわたしたちは大丈夫。
たぶん彼女は赤ちゃんを産む。
ママの体は階段を転がり上がって、骨は正常な位置に戻り、
義理の父さんは酒をグラスに吐き戻す。
わたしは詩を書いて、消し去ってしまえるんだ
一度でも同意なしにわたしたちに触れたなら手を切り落としてしまおう、
わたしたちは愛される存在になれる、ただ望みを言葉にして。
頬や柔らかくなり、歯はまたガムを噛み
わたしたちの体は小さくなって、わたしの胸は消えていく。
出た鼻血を戻すことだってできる、蟻が巣穴に駆け込むみたいに
そうやってわたしたちはパパを取り戻す。
彼はジャケットを脱いで、そこに生涯腰を落ち着ける。
後ろ向きに部屋へ歩いてくる彼の姿でこの詩を始めてみよう。


拙訳
Texts from here
Backwards by Warsan Shire | Poetry Foundation


ワーザン・シャイア(Warsan Shire)といえば、ビヨンセのヴィジュアル・アルバム Lemonadeでその詩がフィーチャーされたことで有名な、イギリス国籍のソマリ人詩人。わたしにとっては読みたいなーと思いつつも積んでしまっている詩人の一人で、他に読んだことがあるのは難民として祖国を離れざるを得なくなることについて書かれた'Home'や女性性を扱った'For Women Who Are Difficult to Love'、'The House'など。どれも力強く痛切な、この時代の詩。


今回和訳してみた'Backwards'はワーザンの兄弟サーイドに捧げられていて*1、ここに出てくるweはこのきょうだい二人を指している。

that's how we bring Dad back

そうやってわたしたちはパパを取り戻す

どうやらこれは家を出ていった二人の父を取り戻さんとする詩らしい。では「そうやって」とはどうやってだろうか。


タイトル'Backwards'が指し示す通り、ワーザンは時を「後ろ向きに」動かすことで、失われた父を呼び戻し、人生を語り直そうとする。父が家を出ていく様子を巻き戻すところからこの詩は始まり、現実には帰ってくることのなかった父はかわりに一生家に留まる。そこから続く第一連、ワーザンはこれまでの記憶・経験をなぞりながら、わたしは過去を書き換えられるんだと繰り返す。

I can write the poem and make it disappear

わたしは詩を書いて(過去の出来事を詩にして)、それを消し去ってしまえる

I'll rewrite this whole life

わたしはこの人生を丸ごと書き直す

父が出ていったことも、義父が酒に酔って家族に暴力を振るったことも、そのせいなのか、母がお腹の赤ん坊を喪ったことも、ワーザンはすべてなかったことにして、まるで違う人生の物語を語ることができる、という。とはいえ、この第一連では彼女はまだ時系列に沿って過去を綴っている点に注目してほしい。父が出ていき、義父がやってきて、酒に酔い、暴力を振るい、母は胎児を喪う、というふうに、個々の出来事は過去から現在への流れに従って配置されている。

しかし"you won't be able to see beyond it"の一節で詩は突如折り返し、今度は現在から過去に向かって記憶をなぞり返していく。これまでダフィ*2や『メッセージ』*3についての記事で、英語は時制のルールに則り、過去→現在という線軌道を描く言語だと書いてきたけれど、では一度書かれた言葉をそのままひっくり返してみたら、もしかして言葉はその軌跡を逆走することができるのではないか?

この「巻き戻し」の演出は映画などの映像表現ではよく見るし、たとえば『メメント』なんかを具体例として想起する人も多いと思う。この詩でやっていることといえば、単にここまで書かれたことをそのまま遡るという至極シンプルなもので、『メメント』のような複雑さはない。けれども、この小さなアイディア一つで、ワーザンは時間を巡る言葉の不可能性にブレイクスルーを見出そうとしている。「わたしは過去を語り直す」と言いつつも時系列通りの語りをする第一連は、実はそれを丸ごとひっくり返してしまう第二連のために周到に用意されたもの。おそらくこういった構成をとったのは、言葉は一方通行の時の流れに忠実であることを踏まえているからだと思う。一度語られた言葉は先に語られたことから順に過去になっていく--のであれば、それを逆さまにしてしまえば言葉は過去に向かって遡上していくはず。この詩のアイディアはまさにそれだ。


*************

自分で書いていてよくわからなくなってきたし、なんだか詩の魅力を殺しそうなのでそろそろ閉じようかと思ったんだけど、一点読んでいて気になったところがある。折り返し地点にあたる"you won't be able to see beyond it"(その先は見越せない)というフレーズの「その先」とは何なのかということ。時の流れに沿って書かれた第一連のおわりにくるので、ふつうに考えると未来のことを言っているのかなと思うけど、どうかな。また、だとするとこの詩は言葉の不可能性に挑戦しつつ、それを突きつけてもきている。

結びのフレーズは当然一行目と同じなので、この詩は過去→現在→過去という円環軌道を描き、最後はまた始まりと同じ地点に戻る。そして「未来は見越せない」のであれば、詩は永遠に父が出ていってから現在までの記憶をぐるぐる巡ることになる。ここで示される言葉の力は過去を語り直す力であって、未来を拓く力にはなり得ない。それは語り手自身が未来よりも過去を見、父が出ていったときの記憶にある種囚われていることと不可分でもある。そうやって読んでいくと、人生を語り直して今度は愛に溢れたものにすると一見前を向いているようなこの詩が、実は心理的な面でもいくぶん「後ろ向き」であることがわかる。

しかし、このブログでは繰り返し言っている通り、「言葉は想像力の可能性と希望を示してくれるのに、同時に人間の限界と無力を突きつけてもくる」けれど「そんな言葉の不可能性を指摘することも言葉によってしかなされない」のだ。可能性と不可能性、希望と絶望/失望は常に混在している。あるところに突破口が見出せても、その先はまた袋小路かもしれない。でもそんな人生のままならなさにああでもないこうでもないと格闘する姿こそ、わたしが詩に求めるものなのだと思う。

映画『メッセージ』と、言葉、詩、物語

映画の内容・テーマにがっつり踏み込んでいますのでご注意ください。それ以外で言えることはメガネのレナーさんがめちゃんこかわいいということくらいです。


"We spend our entire lives trying to tell stories about ourselves [...]. It is how we make living in this unfeeling, accidental universe tolerable." -- Ken Liu, from "Preface" in The Paper Menegerie And Other Stories

「私たちは人生のすべてを費やして自分たちの物語を語る(中略)。そうやって私たちはこの無情で予期できない世界で生きることを受け入れるんだ。」ケン・リュウ『紙の動物園とその他の物語』「序文」より

テッド・チャンの原作「あなたの人生の物語」をまだ読めていないので、ほんとはきちんと読んでから考察したいところだけど、シンプルに言って映画『メッセージ』がやっていることというのはつまりケン・リュウの上記の言葉に集約されていると思う。限界と不可能と喪失から逃れられない無力な人生というものを肯定するのにわたしたちはいつだって物語の力を必要としている。


内容を細かく精査して論じるほどの知識も洞察力もわたしにはないし、SFに明るい方による素晴らしい考察がきっといろいろなところで読めると思うので、ここではあくまで映画だけを見てわたしが連想したもの、感じたことをつらつらまとめてみる。そこでまず紹介しておきたいのがこの詩だ。

Carol Ann Duffy, 'Words, Wide Night'

Somewhere on the other side of this wide night
and the distance between us, I am thinking of you.
The room is turning slowly away from the moon.

This is pleasurable. Or shall I cross that out and say
it is sad? In one of the tenses I singing
an impossible song of desire that you cannot hear.

La lala la. See? I close my eyes and imagine the dark hills I would have to cross
to reach you. For I am in love with you

and this is what it is like or what it is like in words.



キャロル・アン・ダフィ「言葉、広大な夜」

この広大な夜とわたしたちを隔てる距離の
反対側のどこかで、わたしはあなたを思っている。
部屋はゆっくりと回転し、月から離れていく。

楽しいものね。それとも今のは無しにして
悲しいと言ったほうがいい?ある時制の中でわたし歌う
あなたの耳には届かない、不可能な欲望の歌を。

ラ ララ ラ。ほらね?わたしは目を閉じて想像する
あなたの元に行くのに越えなきゃいけない
暗い丘を。だってわたしはあなたに恋をしていて

その思いはこんなかんじ、言葉の上ではこんなかんじのものだから。

(拙訳)
POEM: WORDS, WIDE NIGHT BY CAROL ANN DUFFY

参考:My Favourite Encouraging / Inspiring Poems/勇気をくれる詩3選 - Who's Gonna Save a Little LOVE for Me?


以前にもこの詩をブログで紹介したことがあって、そこで書いたこととまったく同じことをまた書くんだけど、"I singing"という箇所は誤植ではない。英語(を含む多くの言語)は現在時制とか過去時制といった特定の時制の中で("In one of the tenses")話される言語で、ふつうIとsingingの間にamとかwasとかwill beといった語句が入り、話す時点と話される内容の時点の関係が決定される。それは言葉は時制の制約に、過去から現在、未来へと一定に流れ過ぎていく時間の概念に縛られているということを意味する。ダフィはだから時制を取っ払ってしまうことで、時間を、わたしとあなたを分かつ夜を、あるいは言葉がわたしたちに課す限界を超えようと試みている。

今回改めてこの詩を読み返すまで、わたしはこれをいわゆる遠距離恋愛(空間的に離れた二人)の詩だと思っていた。でも、もしかするとこれは時間的に離れた二人の詩かもしれない。すでにこの世にはいない人への、あるいは語り手がこの先出会う未来の想い人へのラブソングかもしれない。過去の人への恋心なら歌えても、まだ知りもしない人への恋心なんておかしい?『メッセージ』を見た後ではもうそんなことは言っていられないと思う。


12体の宇宙船に乗って突然地球に現れたエイリアン、ヘプタポッドの言語には時制がない。劇中紹介されるサピア=ウォーフの仮説によれば、人の世界観とはその人が使用する言語によって形作られるもので、時制のない言葉を用いるヘプタポッドは過去も未来もない円環的な時間認識を持っている。彼らにとっては過去・現在・未来は順序だったものではなく、それらはすべて同居しているから、彼らには未来も見えている。主人公の言語学者ルイーズはこのヘプタポッドの言語を理解することで、時は流れ過ぎ後戻りできないという時間認識を脱却し、過去・現在・未来を同時に見据えるようなヘプタポッド的世界観を獲得する。彼女もまた未来のヴィジョンが見えるようになる。



冒頭、ルイーズは娘を病気で亡くすことが語られる。それからヘプタポッドの出現、彼らの言語を解析するための現地派遣、研究活動が描かれていく。見ているわたしたち(というか少なくともわたし)は娘を亡くしたルイーズがヘプタポッドとの交流を通してどのように希望を見出していくのだろうと考えるわけだけど、次第に明らかになる通り、ルイーズはヘプタポッド出現の時点ではまだ娘を亡くすどころか、その父イアンにすら出会っていない。しかし原作未読でこれといった前情報もなく映画を見て、「娘の死はヘプタポッドとの遭遇以後のことだ」と想定する人はたぶんそんなにいないだろう。そう言えるのは、基本的にわたしたちは過去から未来へと線型を描く時間認識のもとで生きているからだ。わたしたちはルイーズが未来のことを知っているなんて想像しない。わたしたちにとって時間は過去から未来へと順番に流れていくものだから、現在の時点で未来のことはわからない。でも、時間に過去も未来もなかったら?はじまりもおわりもなかったら?死は生の終焉ではないとしたら?


時間は無慈悲に過ぎ去り、愛しいものを奪っていく--とわたしたちは思っている。その時の流れの前では人間は無力で有限なのだと。けれども、時間が流れ過ぎるのではなく円環するものであるなら、世界には過去も未来も、生も死も同居し、別離や喪失も今わたしたちが認識しているものとは異なってくるはずだ。ヘプタポッドの言葉とそれがもたらす新しい世界認識は、残酷な時の流れを超えられない人間の限界に挑戦し、無力に見えた人生を肯定する力になる。

しかしそれは人間を無限で完全な存在にしてくれるわけではなく、むしろあらためてその有限性・不可能性を突きつけてもくる。ルイーズは未来が見えるようになっても、未来を変えたり過去に自由に戻ったりはできない。夫との別離も娘の死も彼女には止められない。彼女が得るのは超人的な能力ではなく、あくまで新しい言葉だけ。でも新しい言葉は世界の見方を変え、これまでと違う人生の物語を編み始める。時間にはじまりもおわりもないなら、死はすべての終焉・永遠の離別ではなく、ルイーズの娘は永遠に生きていて、また同時に死んでいる。どうしたって人間は有限で死を免れない存在だけれど、死はいまわたしたちが思っているほど決定的な意味を持っていないのかもしれない。



ダフィは時制を取り去って自分とあなたを隔てる夜を越えていこうとするが、それは結局あなたの耳には届かない不可能な歌にしかならない。しかしわたしは上の紹介記事でこう書いていた。

言葉は想像力の可能性と希望を示してくれるのに、同時に人間の限界と無力を突きつけてもくる。

しかしそんな言葉の不可能性を指摘することも言葉によってしかなされないし、不可能性を超えようとする試み(これは成功しないのが肝)のなかで、少なくとも言葉にならないものに焦点を当て、ともすれば何か別の可能性の切れ目を見つけることができるやもしれない。いずれにせよ書くことから始めるしかない(略)

自分でも驚くほど、ここで書いていることは『メッセージ』を見て感じたことに当てはまる。無力な人間には言葉しか、物語しかないかもしれない。でも逆を返せば人間にはいつだって物語がある。言葉は万能ではなく、そのあり方は変わっていくけれど、言葉が存在する限り、物語は常にそこにあってわたしたちを救ってくれる。

娘を亡くす母の話自体はこれまでにも繰り返し語られてきた、特に新鮮味のないもの。でも違う言葉で語ったら、それはこれまでとはまるで異なる意味合いを持った新しい物語になる。そして実のところ新しい物語こそ新しい世界を見せてくれるものに他ならない。それは「無情で予期できないこの世界で生きることを受け入れる」助けになる。物語は"人生のガイド"とわたしは定義しているんだけれど、理不尽と敗北に満ちた人生を導いてくれる物語の力にまつわる物語をやっぱりわたしは好きにならずにいられないなあと思う。

人生を物語れ/『T2 トレインスポッティング』

「物語ること」についての物語はいろいろありますが、これもまたその一つであるとは見る前は想像していませんでした。
(以下、内容結末に触れています。)



90年代後半に一大ムーブメントとなった『トレインスポッティング』から20年、続編の『T2 トレインスポッティング』を見た。20年前アムステルダムに飛び、新しい生活を始めたレントンがオランダ人の妻と離婚することになり、スコットランド、リースの故郷に帰ってくることで再びあの4人の関係が動き出す。

レントンの人生もうまくいっていないが、リースに残された3人も相変わらず。スパッドはレントンに貰った4000ポンドをドラッグにつぎ込んで深刻な薬物中毒。かつてのシックボーイ、サイモンは伯母から継承したパブ経営のかたわらブルガリア移民の愛人ベロニカを使って揺すりをやっている。フランク=ベグビーに至っては20年の服役に処されたはずが悪知恵を使って脱獄してしまう。それぞれにそれぞれらしい20年を送っているが、4人とも共通しているのは20年前のあの時で彼らの時計が少なからず止まっていること。


実際に20年前の映像を使い、前作からの引用をふんだんに盛り込むなかで、当然このフレーズも登場する。

Choose life.

でも、前作では皮肉を込めながらも向こう見ずな若者の楽観主義を示してもいたこの言葉が20年後ではまるで違って聞こえる。

SNSを選べ。9.11はなかったことに。子どもたちにも自分と同じものを選べ。こんなこと起こらなかったからマシだったと自分に言い聞かせ、どこかの誰かがキッチンで精製した得体の知れないドラッグで痛みを揉み消せ。失敗から学ばないことを選べ。歴史が繰り返す様を眺めることを選べ。未来を選べ、ベロニカ。(途中省略あり)

46才のレントンにとっての人生は眼前に開かれた未来ではなく、振り返りため息をつく過去、悔いるべき選択や失敗、そして次世代やいずれ来る死への憂いである。人生は選べなかったし、これからも選べない。それを知ったレントンはもう前作のように自らが人生の語り手となることから降りている。でも、自分自身が自分自身の人生の、物語の語り手ではいられなくなっても人生は続く。「あと30年」をどうにか生きなくては。誰かが語らなくては。


そこで今回新たに登場する語り手がスパッドになるとは正直思っていなかった。劇中、レントンは薬物を断ちたいスパッドに"Be addicted to something else"(何か別のものに夢中になれ)とアドバイスする。その後、ベロニカに「あなたたちの話を書いたら?とてもおもしろいから」と言われたスパッドは昔の写真を部屋の壁中に貼りめぐらし、自分たちの過去を綴り始める。途中禁断症状に苛まれながらも、どうにか彼は物語を完成させる。それは過去に耽溺したり埋没したりするのでもなく、過去を完全にないものとして切り離すのでもなく、過去を見つめ直し物語として織り上げ、20年前で止まった時計をまた動かすことを可能にする。「あと30年」を生きさせてくれるのは、きっと物語の力だ。そしてまたスパッドが夢中になるべき「何か別のもの」とは物語ることだったんだとわかってわたしは泣いた。人生は選べなかった。それなら選べなかった人生を物語れ。



思えばスパッドは前作から目撃者で、語り手たる資質を持っていたんだと思う。今作でもまた彼は「裏切り」の目撃者になる(また今回は語り手として裏切りの達成に寄与する)。最後にみんなを出し抜くベロニカは前作のレントンに重ねられる。しかし無責任で、絶望しながらも楽天的で、とにかく「この生まれ育った街から出たい」一心だったレントンに対して、ベロニカは当時のレントンと恐らく同年代でありながら、もっと現実的で思慮深く、彼女はきっと手にした金をもって故郷に帰り身を固めるのだろうと思われる。そんなところに夢見ていられないテン年代の厳しさ、時代の移ろいを感じつつ、最後はやはりレントンと一緒に"Lust for Life"の爆音に身を委ねるほかないのであった。

Lily Myers, 'Shrinking Women'/スポークン・ワード・ポエトリーを体感する(2017年3月①)

今年は最低月に一本はコンテンポラリーな詩の翻訳をしたいと思っていたのに先月思いがけず忙しくて手がつけられず、今月も気づけば終わりがすぐそこに見えてきてしまいました。。が、ちょっと前になかなかいいスポークンワードの詩を見つけたので、訳してみます。



パフォーマンスの動画はこちらから。
Lily Myers - "Shrinking Women" (CUPSI 2013) - YouTube

リリー・マイヤーズ「萎む女性たち」


キッチンテーブルの向かい側で、母は計量グラスから赤ワインを飲み、微笑む。
食べないわけじゃないと彼女は言うけれど、わたしはそのフォークの動きすべてにニュアンスを嗅ぎとれる。
皿の上の食べ残しをわたしに差し出すときの彼女の額に寄った皺のすべてに。
わたしは、彼女がわたしが勧めたときにしか夕食を食べないことに気がついた。
わたしがいないとき彼女はどうしているんだろうと考える。

たぶん、だからこの家はわたしが帰ってくるごとに大きくなっているように感じるんだ;それは比例している。
彼女が萎むほど周りの空間は広大に見えてくる。
彼女が痩けていく一方、わたしの父は太っていく。
その腹は赤ワインや、夜遊びや、牡蠣や、詩で丸く膨らんでいる。
新しいガールフレンドは十代で太りすぎだけれど、父は彼女は今「フルーツに夢中なんだ」と言う。

父の両親も同じだった;祖母が痩せこけ骨張っていくなか、夫の頬は赤く丸々として、腹も丸く、
わたしはわたしの家系は萎んでいく女性たちの家系なのかと、
男性たちが生を楽しむための空間を開け
一度それを手放してしまったら取り戻す術を知らない家系なのかと考える。

わたしは適応することを教わってきた。
兄弟は話す前に考えるなんて一切しない。
わたしはものごとをフィルターにかけるよう教わってきた。
「誰が食べものと関係なんて持てる?」と彼は聞く、笑いながら わたしが炭水化物が少ないからと選んだ黒豆のスープを飲んでいると。
わたしは言いたい:わたしたちは違うんだ、ジョナス、
あなたは外に広がり育つよう教わったけど
わたしは内向きに育つよう教わったんだ。
あなたは父からどうやって声を出し、提示し、自信をもって考えを舌から発していくかを学び、一週おきに叫びすぎて声を枯らしていた。
わたしは吸収することを学んだ。
母から自分の周りに空間を作ることを教わった。
わたしは男たちが牡蠣に走っているあいだ母の額に浮かぶこぶを読みとるようになりながら
彼女の再現をしようと思ったことはないけれど
十分な時間誰かの前に座っていれば、人はその誰かの習慣を受け取るようになる。

だからうちの家族の女性たちは何十年にもわたって萎んでいるんだ。
わたしたちは皆お互いから学び合ってきた、
各世代が次の世代に、糸の隙間に沈黙を織り込みながら
編み物をする方法を教えていった、
このどんどん大きくなっていく家の中を歩いているとわたしは未だにそれを感じて、
皮膚はむず痒く、
母が数え切れないほど繰り返す寝室からキッチン、また寝室への移動でポケットから溢れたくしゃくしゃの紙のように、彼女が気づかぬうちに落としていった習慣をすべて拾い上げていく。
夜ごとわたしには母がこっそり階段を降りて暗闇の中でプレーンヨーグルトを食べるのが聞こえる
食べる資格がないと思っているカロリーを儚くも盗み食いしている。
何口で食べすぎになるのかを考えながら。
どれくらいの空間を占領してよいものかを。

その格闘を見ていると、わたしは彼女をからかうか憎むかで、
もうどちらもしたくないけれど、
この家の重荷はわたしを国中ついてまわってきた。
今日は遺伝子学の授業で5つ質問をして、どの質問でもわたしは最初に「すみません」と言った。
社会学の単位を取る要件なんてわからない、だって集会のあいだずっともう一枚ピザを食べられるか考えていたから
少しも望んでいないのに堂々巡りする強迫観念、でも

遺伝は偶然の産物、
まだテーブルの向こう側で口元にワインを染み込ませ、わたしを見つめている。



Traslated by me.
Transcription is here.
Lily Myers – Shrinking Women | Genius


英語圏では何年か前になかなかのヴァイラル・ヒットになっていたらしいこの詩。わたしの下手な訳だとあまりおもしろくないね。体型の面でも自我の面でも伝統的に自分を細く/小さく見せるよう縮こまらせられてきた女性の社会的立ち位置を、ドメスティックな視座から、でもすごく普遍的な視野を持って豊かに語っています。また何よりスポークンワードのパフォーマンス、その体験としてちょっと図抜けたところがあるように思う。

語り始める前は緊張しているように見える詩人が、途中自分の言葉に対する反応の大きさにぐらつきながら、最後は自信と誇りを持ってステージを立ち去るまでたった3分半。3分半で人は、詩はここまでいけるんだということに動画再生が終わって気づいてちょっとびっくりした。ここで彼女が見せる緊張は単に人前で詩を発表することへの不安から来ているのではないことは詩を聞いていけばわかる通りです。「内向きに育つよう教わってきた("I have been to grow in")」女性がこれまで内に内に溜め込んできたものをいま外へ吐き出そうとしているわけだから。父や兄弟が何の疑問も心配もなくやってきたことに対してこれだけの準備が彼女には必要だったことを思うと、気持ちを固めて口火を切ってから一気に波に乗っていく冒頭1分くらいの爽快感はひとしお。


youtubeのコメント欄を見ると"I asked five questions in genetics class today and all of them started with the word 'sorry'."(遺伝子学の授業で5回質問をしたけれど、毎回最初に「すみません」と言って質問を始めた)という箇所が人気のようで、わたしもじわじわとこの一節に殺られている。わたしが一日に「すみません」という回数は何回だろうか。。自分の意気地なしや屈託を何でも性別のせいにしたいわけではないけれど、自分が男性として社会に出ていたらここまで自分の発言や意見に申し訳なさを抱くことがあるだろうかと最近ちょっと思わさせられることが多かったので。。(もちろん自分が男性ならという仮定がそんな簡単な話ではないのはわかっているけど)


今、訳しながら読んでいて気づいたんですが、この最後の一連は文字通り読めば、遺伝子学の授業に出て発言するときも申し訳なさそうに自分を抑え込み、集会のあいだは食べもののことを考えていて社会学の単位取得の要件を聞いていなかったという内容なんだけれど、比喩的に読めば、実はここではgenetics(遺伝子学)とsociology(社会学)の二語によって生物学的性と社会的性への仄めかしも為されている。男と女、どちらの生物学的性に生まれるか(inheritence=遺伝)はまったくの偶然によるのだけれど、女性という性に生まれればなぜかそれを恥じたり、卑下したり(=遺伝子学の授業ですいませんと意味もなく謝ったり)し、社会的にどうやったら認められるか(=社会学の単位をとれるか)語り手にはわからない。

最終連に来てのギアの入り方はなかなかすごくて、何代にもわたって続いてきた男尊女卑を断ち切りたいと思いながらもそこに絡めとられ、再び円環の軌道に乗っていく結びはもはやゴシック的。一読したときはそこまで技巧的に凝った詩だとは思わなかったんだけれど読み込んでいくとおもしろいですね(ノープランブロガーなので書きながらどんどん解釈を付け足しています)。個人的な話をすると、仕事面でストレスがたまりくさくさした気分なので、こういう詩を読んで訳していく作業は実はとても精神安定効果があったりする。来月もまたおもしろい詩に出会えたらいいな。

「新しい失敗」こそ進歩の証/"Try Everything"を助動詞にこだわってネチネチ読んでみる

タイトル通りの内容です。一つの歌詞をネチネチ読み込むという完全に趣味の投稿になりますが、昨年ツイッターでちまちま書いていたことをまとめたものになるので、よかったら読んでみてください。なぜ今頃こんな記事を書くかというと、単純に自分の気分がのっているからというだけです。わたしのブログは基本そんなスタンス。

「トライ・エブリシング」


Oh Oh Oh Oh Oh...


今夜もダメだった、また戦いに負けた
未だに失敗するけど、そしたらやり直すだけ
また落っこちて、地面にぶつかり続けるけど
いつだって起き上がって次は何がくるか見てる

鳥はただ飛んでるんじゃない、落っこちては浮上してる
間違わずに学ぶ人なんていない

わたしは諦めない、降参したりしない
終わりに辿り着くまで そしてまたそこから始めるんだ
わたしは逃げない、なんだってトライしたい
失敗するとしてもトライしたい


Oh Oh Oh Oh Oh
すべてにトライしよう
Oh Oh Oh Oh Oh
あらゆることに


自分がどれだけ遠くに来たか見てみて 心は愛でいっぱい
あなたは十分やった 深呼吸して
自分を責めないで そんなに早く走らなくていい
時には最下位になるけど、わたしたち最善を尽くしたじゃない

わたしは諦めない、降参したりしない
終わりに辿り着くまで そしてまたそこから始めるんだ
わたしは逃げない、なんだってトライしたい
失敗するとしてもトライしたい


こういう新しい失敗をわたしはおかし続ける
毎日のようにおかす
こういう新しい失敗を


Oh Oh Oh Oh Oh
すべてにトライしよう
Oh Oh Oh Oh Oh
あらゆることに
Oh Oh Oh Oh Oh
すべてにトライしよう
Oh Oh Oh Oh Oh
あらゆることに



Shakira - Try Everything (Official Video) - YouTube


例えば和歌の字余りが、秩序だった五七五七七の形式から逸脱する思いを表すように、些細な修辞の下に深く大きな意味をたずさえられる点が詩の魅力だとわたしは捉えているんだけれど、この"Try Everything"にもそんなちょっとした言葉の技巧をマイクロスコープにして、そこから大きな詩世界が広がっていくおもしろさがあると思う。

一読すると、底抜けなポジティビティに満ち溢れた頑張るわたしへの応援歌にも聞こえるこの歌詞。しかし「多様な生物が生き、多様な意見や利害が入り乱れる社会では絶対の正解はないから、時に傷つき、傷つけるとしてもより良い世界を模索し続けよう」と言ったズートピアを見終わったあとでは、これが闇雲なオプティミズムや諦めないことの美徳を盲目的に礼賛しているのではなく、むしろ失敗と反省を前提にそれでも歩みをやめない覚悟を背景に持っているとわかる。そんな覚悟を歌詞のなかで特に感じる箇所があって、それがこの部分。

I'll keep on making those new mistakes.
I'll keep on making them every day.
Those new mistakes.

こういう新しい失敗をわたしはおかし続ける
毎日のようにおかす
こういう新しい失敗を

ここで"I might keep"でも"I could keep"でも"I would keep"でもなく、"I'll keep"と助動詞willを使っている、ただこの一点に着目してすごいなあと思う。たとえばmightなら「失敗し続けるかもしれない」、couldなら「失敗し続けうる」といった意味になり、歌い手が失敗を重ね続ける可能性は50/50*1。あるいはwillの過去形wouldが使われた場合は、現実から一線を置いた遠回しな表現になり、"I would keep on~ mistakes"の背後に"if I keep(kept) trying"のような仮定の意味合いが仄めかされる。そのため「仮にわたしがトライし続けるなら、何度も失敗をおかすだろう」という具合に「トライし続けること」の時点で仮定の話として留保される。

一方、willは「今この場では現実になっていない、あるいは話者からは認識できないけれど、ある時点、ある場で必ず現実になる」くらいの意味を持った、might/could/wouldに比べると実現の可能性がかなり強い推量の助動詞。たとえば"She'll turn 20 this August."(彼女はこの8月で20歳になる)は今後確実に現実になる未来の話だし、現在の話でも"He'll be attending a meeting now. He told me so yesterday."(彼は今頃会議に出ているはず。昨日そう言ってたから。)というように、話者が実際に目にしたわけではないけれど聞いた話などから現実にそうなっていると考えられることもwillを使って表現できる。ということを踏まえると、"I'll keep on making those new mistakes"と言ったとき、歌い手は自分が失敗し続けるのは間違いない、きっと現実になることなんだと宣言したと言える。

一見、これは「ミスは避けられないもん、しょうがないしょうがない」という開き直りにとれるかもしれない。でもwouldを使ったときトライすること自体に「仮にトライするとしたら」という留保が入るのと対照的に、willを使うことで「失敗し続ける未来」が確実になるならば、それは「トライし続ける未来」も確実に現実になるということを指す。失敗を繰り返すのは挑戦を繰り返すことの裏返しでもある。

この歌では失敗が次のスタートを切るきっかけになっていて、トライすれば失敗する→失敗があるから、それを反省してやり直すためにまたトライする→……というトライとミステイクの連続性が非常に意識されている。この二者の結びつきがとても密接で、失敗が必ずはじまりに繋がるので、"I'll keep on making those new mistakes"はほとんど"I'll keep on trying everything"と同義に聞こえてくる。この一節は「結果」としての失敗の正当化ではなく、「わたしたちは失敗する、ではどうするか」という「スタート地点」に立つための認識として機能していると思う。


ついでにもう一点興味深いと思うところ。それは"new" mistakesという箇所。"Try Everything"でいう失敗を重ねることは同じミスを何度も繰り返すこととは違う。トライしたことで生まれる失敗は常に「新しい」はず。たとえ失敗ばかりだとしても、それがまだ見ぬものであれば、少なくとも何かをアップデートすることは果たしたということだろう。「新しい失敗」こそきっと先に進んでいることを証明してくれるものに他ならない。




以上、とってもシンプルな歌詞をたった一行、たった一語にこだわって読む試みでした。こうやってネチネチと妄想に近い言葉の想像力を広げてものを考えるのはやはり楽しい。

*1:歌詞には"I wanna try even though I could fail"(失敗するかもしれないけれどトライしたい)という一節もあるが、これは「この試みが成功するか失敗するかは50/50だけど、それでもトライしたい」という意味でのcould。この歌でいう「トライし続ければ必ず失敗する」とうのは、個々の試みがうまくいくかどうかの話をしているのではなく、もっと全体的・長期的視野で見て、トライにはエラーがつきもので、挑戦し続ければどこかで必ず失敗するということを言っている。

We need a new song/神話の語り直しとしての『モアナと伝説の海』

いよいよ日本公開された『モアナと伝説の海』見てきました。


近年のディズニーは自分たちが作ってきた「プリンセス像」をアップデートし続けていて、今作もその系譜に連なる一作。ですが、わたしは今回ちょっと視点を変えて、プリンセスものとしてではなく、古代の神話を現代のフェミニズム的な視点から語り直すものとしてこの映画を見ていました。そんな話をちょこちょこ書きたいんですが、神話について専門的な知識がないので、ほとんど妄言だと思ってお付き合いくださればと思います。特にポリネシアの神話はまったく無知なので、詳しい方がいらっしゃればズバズバ指摘をいただきたいところです。(以下、内容・結末に触れます)

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公開前からずいぶん話題になったように、この映画ではポリネシア神話の半神半人の英雄マウイが、プリンセス・モアナと並ぶメインキャラクターに据えられている。彼はモアナに出会うと、過去の自分の超人的な活躍ぶり--神に与えられた魔法の釣り針の力で何にでも変身できたり、空が低すぎて人間が直立できないのを見かねて空を押し上げたり、あまりにも速く駆けていく太陽を捕まえ、ゆっくり行くように説得して昼を長くしたり、大鰻を退治して亡骸を地中に埋め、そこからポリネシアの大事な資源・食糧であるココナッツの木が育ったり--を突然歌い始める。

ここで描かれるマウイ*1のような英雄はわりとどんな神話・伝説にも共通して登場する。ギリシア神話の12の功業を達成するヘラクレスメデューサを殺したペルセウス、ゲルマン叙事詩ジークフリート、日本の神話であればヤマトタケルなど、魔法のような特別な能力や怪力の持ち主で、怪物退治など数多の難業を成し遂げる勇者は神話・叙事詩定番のキャラクターだ。

『モアナ』でおもしろいのは、マウイが過去の偉業に固執し、人々から崇拝される英雄というセルフイメージに強迫観念に近いこだわりを持っていること。その理由として、もともと彼は人間の両親に生まれた人間の子であったが、親に捨てられ、その後神に助けられて超人的な力を授けられたという生い立ちが中盤で明らかになる*2。彼が人間のために尽力してきたのは、かつて自分を捨てた人間に認められたい、感謝されたい一心ゆえであり、だからこそ彼は"ヒーロー"であることにこだわり続ける。まるで何者でもないように親に捨てられたマウイにとって、人間であった頃の自分は無力であり、魔法の釣り針を授けられ、半神半人になった自分にこそ価値がある。だから彼はしつこいほどにモアナに対してmortal(有限の者、人間)のお前に何ができると言うし、悪魔テカァの一撃を受け、釣り針が折れそうになると、自分を特別にしてくれる力を失うのを恐れて一度は退散してしまう。

このマウイによるmortality(人間の有限性、死すべきこと)の強調や親に対する複雑な感情にはギリシア神話的なものを感じる*3ギリシア神話といえば、mortalな人間とimmortal(不死)で圧倒的な力を有した神々との対比が特徴的で、古代ギリシアでは神々に近づこうと高みを目指すのが人間の崇高な使命と位置づけられていた。ここでいう人間は基本的に女性・子供を含まず成人男性のみを指していて、神話の英雄というのは「男子たるもの強く、勇敢たれ」という古代の男性の理想を体現したマスキュリニティの象徴のようなものだとわたしは解釈している。『モアナ』でも、すぐに訂正するものの、マウイははじめ自分を「男たちのヒーロー」と称する。しかし実際のところマウイはそうした自分のイメージ、英雄でいなければならないという呪縛に絡めとられ、自己イメージから乖離した現実の自分にぶつかり、尊厳を失いかけている。神話の男性中心主義は女性軽視であるだけでなく、男性にとってもプレッシャーが大きく息苦しいものではないか?


詩人キャロル・アン・ダフィはThe World's Wifeで男性によって語られてきた神話や伝説を女性の視点から語り直す試みをしているのだけれど、『モアナ』も似たようなことをやっているとわたしは思う。モアナは、自分は皆から愛されるヒーローだと言うマウイに対して、「あなたはもうヒーローじゃない、女神テフィティの心を盗んで災いを生んだ厄介者だ」と言ってのける。また彼女は、神の力がなければ自分は無価値な存在だと自信を喪失したマウイに対してこうも言う。「あなたを英雄にするのは他の誰かの力じゃない、あなた自身だ」と。

マウイはテカァとの戦いでモアナを手助けし、エンディングでは再び航海に出たモトゥヌイの民を導いている。けれども、彼がはじめに望んでいたような人々からの喝采や崇拝を受ける描写はない。それは、彼を英雄にするのはそうした喝采や崇拝によって迎えられる超人性や特別な能力ではなく、彼が実際にとったモアナを助けるという行動、そしてその証としてモアナから受け取った"Thank you."という一言だから。先述したマウイがモアナに出会ったときに歌う自慢話の歌のタイトルは"You're Welcome"。モアナを呆然とさせた、誰も感謝していないのに連呼する「どういたしまして」の意味が、彼の生い立ちが語られて明らかになったとき、わたしはとても切なくなった。彼が本当に望んでいたのは、誰かの役に立ち、感謝されること。でも誰もありがとうと言わないから、自分からどういたしましてと言ってしまう。モアナが「ありがとう」と言ったとき、マウイは救われ、本当の意味で英雄になったのだと思う。


こうやって、古典的な英雄像を解体し、かつての英雄を彼がはじめは侮っていた人間の女性(ギリシア神話や家父長制の文脈に添えば不完全で半人前の存在)との共闘によって救い、自己の尊厳を回復させることで、『モアナ』はマッチョな神話世界をフェミニスト的な視点から再構築しているのではないか。この映画で物語を先に進めようとするのはみんな女性だ。海に選ばれた、いや自ら海を選んだモアナは当然のこと、彼女を後押しする祖母、一度はモアナを引き止めながら、旅立ちを決断した彼女の手をとりそっと力を込めて送り出した母--この三代に渡る女性の動きがこの映画のキーになっている。序盤で歌われる"Where You Are"で旅することを忘れたモトゥヌイの人々は歌う。"Who needs a new song? / This old one's all we need"(新しい歌なんて誰が必要とするか?この昔からの歌で十分だ)

とんでもない、新しい歌はいつだって必要でしょう。新しい歌、新しい声、新しい物語こそ今ある世界を少しずつ動かしていく原動力に他ならないと『モアナ』は教えてくれている。






※追記
神話の英雄の解釈部分、自分で納得がいかなかったので少し書き換えました。推敲してから投稿しろよってな。

*1:あくまでこの映画で描かれるマウイに限定します。わたしはもともとの神話を読んだり聞いたりしたのではなく、ディズニーが解釈したものを見ただけなので。この点に留意することはすごく大切だと思う。

*2:この人間の両親に捨てられたという設定は少なくともポリネシア神話のポピュラーなものではないと思うんだけれど、映画オリジナルで考案されたものなんでしょうか。

*3:このギリシア神話っぽさがもともとのポリネシアの神話にも共通してあるものなのか、ディズニーの西洋文化の視点を通したことで付加されたものなのかは気になるところです。

Sarah Howe, 'Tame'(2017年1月①)

昨年秋に購入してからなかなか読めていないサラ・ハウ(Sarha Howe)の詩集Loop of Jade(2015年のT.S. エリオット賞受賞作!)より1篇訳してみたいと思います。本当は最後まで読みきってからレビューしようと思ったのだけど、それだといつまでかかるかわからないので。わたしの訳でどこまで伝わるかわかりませんが、物語の展開力が凄まじい詩です。

Loop of Jade

Loop of Jade

サラ・ハウ「従順」


「娘よりもガチョウを育てる方が益になる。」
ー中国の諺


これは木こりの娘の物語。生まれたとき、ベッドの脇には灰の箱が置かれていた、

万一に備えて。赤ん坊が産声を上げる前に、彼はその顔を灰に巻き込み、押さえた。過多の出血で弱りながら

新生児の母は彼の手を止めようとした。彼は庭に彼女を引きずり出し、いつもの枝で

彼女を鞭打った。それが森の魔法であるなら、人々は決してそうは言わないけれど、しかし彼女は変身した



傷痕の波打った背は、鞭の下で、硬い外皮になり、裂けて樹皮の覆いになった。平伏した膝は

砂っぽい地面を掘って根を張り、水を求め、労働の染み入った指先は伸びて

枝となった。その木ーライチの木をー彼はまるで妻のように呪いつづけたーその無益で貧弱な

果実を。一方、少女は生き延びた。仄白い灰の産毛をつけ、顔をぐっと丸め込んだ、小さなガチョウの雛。



彼は彼女をメイ・ミン、名無しと呼んだ。彼女は話し方を習わなかった。その人生は父の悲しみに傷つけられた。

嘆きには力があるからー顧みられることのない対象にとってさえ。彼は娘を井戸に

落とすべきだったのだ。それなら少なくとも忘れられた。時折彼が仕事に取り掛かり、斧を持ち上げ、

弧の真っさらな清潔さを眺めていると、娘は彼の肘に頭突きをしたー何度も、何度もー落ち着きなく



怒りに達し、彼が彼女を振り払うまで。しかしこの無言の申し立てに意味があるのかは、どちらにもわからなかった。

子の唯一の慰めはライチの木の下で寛ぐことだった。揺れる枝が

言葉のない眠り歌を彼女に囁いた ライチは用心深く見つめ、頭上を野生のガチョウが往来していた。

果実と、ガチョウと。彼らは娘の成長を記録していた。彼女は鳥たちに加わることを熱望はしなかった、熱望が



盲目の本能を超えた意志を示唆するなら。秋が深まったとき、彼女は首を遠くまで伸ばした、ガチョウたちが

雲のかかった丘の間を旋回するのを見ようとしてー首は伸び続けたー口ばしになるまで。桃色のつま先は

水かきと爪を生やしはじめた 無力な腕は羽となり力を持った。ガチョウの娘は

飛び上がって矢のような群れに加わった 一つの目的と傾向によって

繋がった者たち、彼女は彼らの向かう先を知っていた



そして彼らの求めも。彼らは一年以上、空を渡った、しかしどこへなのかーどのツンドラの荒野を渡ったのかー

わたしは聞いたことがない。物語はそこで終わるという人もいる。しかし野生のガチョウの行く道を知る者は

帰る義務も知っている、最初に暮らした場所へ戻る義務も。さあこの話を完成させよう。春のおわり、木こりは

庭に飛び込んだガチョウを罠にかけるーまるで知っていたように。筋の張った首を掴み



肉切り台に、ライチの幹から切り落とされた十字の木に押し付ける。一撃で。益は、損失になる。




the original text is from Sarah Howe - Poems.

"Let this suffice"(さあこの話を完成させよう)から一気に糸を手繰り寄せる圧倒的な展開力にわたしは度肝を抜かれたんですが、いかがでしょうか。非常に酷なお話なんだけど、甘い解放の夢想で終わらせずに簡単じゃない現実を見せつけつつも、女性の犠牲をロマンティサイズすることもなく、酷い暴力や出口の見えない家父長制に対する納得のいかなさを滲ませながら素晴らしく制御された筆致で物語を語り切っていて、なんていうかとにかく凄い。

また、この詩を読んだ後にハン・ガンの小説『菜食主義者』を読んだんだけれど、あの小説で見られる女性への暴力や抑圧、それに対して植物化していく女性の表象なんかは、この詩の冒頭で描かれる母のライチへの変身を思い出させた。たぶん『菜食主義者』を読んだ人にはなんとなく言わんとしてることが通じるんじゃないかと思うんだけど、どうだろう。現実のわたしたちが植物化していくことはないけれど、これらで描かれた暴力や、もう植物になってしまいたいと肉体も心も外皮に覆われて閉ざされていく感覚は決して他人事ではないとわたしは思う。


ほんとはもっと考えるべきことがある詩だと思うんだけど、わたしの頭が回らないので(たぶん寒すぎるのも一因だし、サラ・ハウの詩は正直かなり難しい)とりあえず紹介するに留めておく。今年はできるだけ多く、コンテンポラリーな詩を紹介したい。