Top 5 Films in 2016(好きだった2016年の新作映画)

あけましておめでとうございます。気づけば2017年が始まってしまいました。昨年後半はブログを本格的に再開し、思いがけずいろいろな方に読んでいただける機会に恵まれ、書いていて非常に楽しい下半期でした。まあ年末にかけてほとんど書けなくなってしまい相変わらず自分は勤勉さに欠けるなあと思うのですが、趣味でやってる以上自分が楽しく書けるのが一番なのでね。今年もちまちま書いていくと思うので、よかったらお付き合いください。

 

 

前置きが長くなりましたが(なぜなら無計画に書いているから)、本題の2016年ベスト映画5本いきたいと思います。母数が少ない上に、評判のいいもの中心だったのでどれもだいたい気に入ってるんですけど、一応昨年日本で公開(Netflix含む)されたものから5作特に好きなものを選んで軽くコメントします。

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  1. 『ディア・ホワイト・ピープル』
  2. 『シング・ストリート 未来へのうた』
  3. ズートピア
  4. スター・トレック BEYOND』
  5.  『メカニック:ワールドミッション』

 

ベスト4まではすんなり選べたのですが、5番手を選ぶのに難儀しました。特に『ディア~』や『シング・ストリート』と対になっていると言える『DOPE/ドープ!!』を入れるべきかどうかでかなり悩んだのですが、最終的にせっかくならわたしらしいのがいいよね、と思って『メカニック』にしてしまいました。

 

dakotanian.hatenablog.com

 上で書いたように、めちゃくちゃだけど『スカイフォール』パロディとしてどうにか機能している本作はアクションスター、ジェイソン・ステイサムの生まれ直しを徹頭徹尾イサムてんこもりで祝福する最高の一作です。

4位は『スター・トレック』新作を。ソフィア・ブテラ演じるジェイラのアクション、彼女とサイモン・ペグ=スコットとの友情、カーク・スポック・マッコイのトライアングル、合言葉のLet's make some noise!などなど、最高だった箇所を断片的に挙げてくだけでもキリがないんですが、ストーリー自体は現代版にアップデートされた古典的アメリカン・ナラティブ=mobility(移動性・動き続けること)のお話であったように思います。mobilityはフロンティアを求め開拓を続けてきたアメリカ社会伝統の価値観・精神性なわけですが、『ズートピア』のような映画が撮られるようになった現代のコンテクスト(ちょっと後述しますけど)に沿えば、それは"try everything"し続ける精神とも呼応するわけで、実際この『スター・トレック』もいろいろな試みや多様な社会の表現(スールーの同性婚やあらゆる種族から形成される共同体とか)がありますよね。今回カークやスポックが直面する「この旅を続けることに意味はあるのか?」という問いは彼らの私的な領域を超えて、「終わらない旅/試みを続けること」それ自体の物語として様々なレベルで読むことができるのがいいなと思ったのでした。

長くなってしまったのでさくさくいきたい。3位『ズートピア』は好きというよりも、こういう映画をディズニーが撮ってくれたということもあり、わたしのなかである種のスタンダードになった作品です。ツイッターに以前書いたことをそのまま書きますが、この映画、そして主題歌"Try Everything"の好きなところは、トライする以上失敗は避けられない、と差別的な言動をとったり偏見を持ってしまったりすることへの「許し」がある点。多様な社会には多様な意見や利害があり、絶対の正解なんて存在しません。だから誰だって間違いうるけれど、それで終わりじゃない。むしろそこからがスタートなんだと後押してくれるこの映画は十分に正しくはないかもしれないけれど誠実であると思います。

2位『シング・ストリート』は昨日サントラを聴き直しはじめて、やっぱり最高だなあと急浮上した一作。ジョン・カーニーは前々作『ONCE ダブリンの街角で』と前作『はじまりのうた』である男女が再スタートを切るために期間限定のボーイ・ミーツ・ガールを果たす話を描いていて、主人公らには最後に戻るべき現実や関係性がありましたが、ティーンの物語である本作ではボーイ・ミーツ・ガールが期間限定のものではなく、その後にも踏み込まれていて、夢が夢で終わらず広がっていくファンタジーの色合いが濃くなっています。あんまり書いてしまうとだいぶネタバレになるので難しいんですが、最後に流れる"Go Now"という曲は『ONCE』主演のグレン・ハンサードと『はじまりのうた』で好演していたアダム・レヴィーンの合作で、アダムが歌っています。これを知ると、ああやはり『シング・ストリート』のラストは過去作あってのものなんだなあ、グレンとアダムが背中を押してくれているんだなあと感慨深くなります。 

1位はですね、Netflix配信の『ディア・ホワイト・ピープル』です。10月にいよいよネトフリ様に加入してしまい、見たいものが多すぎて逆にてんやわんや、今もまったく使いこなせてなかったりするんですが、加入時のお目当ての一つがこれでした。テーマとしては『ズートピア』なんかと相通じていて、人種・性・階級・趣味・能力etc.が複雑に入り組んだ多様な社会では誰もかれも白であり黒であるということを、矢継ぎ早に問いを投げ、変容しつづける多層・多面体の社会の動きを止まることなく追い続けることで容赦なく語り切った、もう圧巻というほかない映画。新しいけれど、若者たちが「自分ってなに?」を探す青春映画のフォーマットもきっちり押さえていて、クライマックスにパーティーを設定し、学園ものとして着地する手さばきもお見事でした。スピード感あるダイアログが気持ちいいので、たまにiPhoneで断片的に好きなシーンだけ見たりしています。

  

以上、昨年のお気に入り映画5本でした。今年はもう少し見る本数を増やして年末にベスト10を選べればいいな(あくまで希望的観測)。それと昨年は当日にチケットを譲っていただいてという形ではあったものの、初めて東京国際映画祭に行きました。今年は自力で映画祭もいくつかチェックできれば、と思います。

二つのスーツケース/『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』

相変わらずの周回遅れぶりですが、『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』を見ました。ちなみにわたくしハリー・ポッターはど真ん中の世代ですが、これまでほぼ完全にスルーしています。特に理由はないんだけどなんとなくね、、でも新シリーズが始まるし、いい機会かなと思い、遅ればせながら映画館に足を運びました。ちゃんと公開中に見に行ってよかった。


1926年、アメリカでは魔力を脅威に感じるノーマジ(人間)と魔法使いとの衝突を避けるため、評議会MACUSAが魔力の存在を非魔法界から隠し通している。これに対して闇の魔法使いグリンデルバルドはノーマジとの戦争を起こすべく、各地で襲撃を行う。こうした社会背景のもと、主人公の英国人魔法使いニュート・スキャマンダーはNYに降り立ち、持ち込んだ魔法動物たちをスーツケースから逃してしまう。彼はノーマジと魔法使いの交流を固く禁じるMACUSAの態度を批判し、魔法動物の研究者として魔力や魔法動物は危険なものではないと理解・共存を訴える。


まさに魔法使い版X-MENといった趣で、人種隔離、公民権運動、セクシャルマイノリティへの差別などの現実の歴史・政治社会問題の寓意が作中あちこちに散りばめられている。見た目にはノーマジと変わらないけれどその能力をひた隠しにし、ノーマジと一切交わってはいけない魔法使いは、抑圧されたセクシャルマイノリティとも、白人からセグリゲイトされた有色人種の人々とも解釈できる。そんな中、中身が漏れてしまうニュートのスーツケースは、社会的に疎まれる個性や特性に対して正直であり、自己を圧し殺さないニュートの柔軟さを象徴している、といったことは各所で指摘されている通り。こちら↓の記事でも、これらのことがまとめられています。

革命的ドジっ子の物語におけるセクシュアリティとトランクの認識論〜『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(ネタバレあり) - Commentarius Saevus

こちらを読んでいて思ったのだけれど、このスーツケースの特徴あるいはニュートの稀有さとして、中身が漏れ出ることに加えて、他者をその内側に招き入れられるというのがある。スーツケースの中にはニュートの研究室があり、また魔法動物たちの生息地が広がっている。中に足を踏み入れたノーマジのコワルスキーが「こんなの僕の頭じゃ思いつかない」と感嘆するように、まさにファンタスティックな世界がそこにはあるわけだ。もちろんスーツケースの中はプライベートな領域(魔力=性的指向とするなら特に)なので必ずしも他者を招き入れてやる必要はない。けれども、コワルスキーや観客のわたしたちみたいなノーマジからすれば、その内に入れてもらうことで魔法のおもしろさや魔法動物たちの雄大さ・美しさを知ることができる。自分をオープンにできるニュートの稀有さは、この物語で個人の多様性や多様であることの本来的な素晴らしさを理解する助けになってくれていると思う。


そして作中にもう一人、スーツケースを持ち歩き、その中身を見せてくれるキャラクターがいることも見逃せない。缶詰工場で働きながらパン屋開業を夢見るジェイコブ・コワルスキーは手づくりのパンをスーツケースに詰め、融資を望んで銀行を訪れる。魔法使いのスーツケースの中身が、例えばセクシュアリティを示唆するとしたら、コワルスキーのそれは創造力や夢を表象していると言えるんじゃないか。いずれにしてもスーツケースはその人らしさ、アイデンティティやパーソナリティと密接に結びついている。その中に他者を招き入れることを厭わないニュートと、中身を見せ自分の夢として語るコワルスキーの間に友情が芽生え共闘できたのは、きっと必然でしょう。


しかしニュートが魔法動物たちを逃がさないようスーツケースを固く閉ざしておかなくてはならないように、コワルスキーも融資を得られず、夢の詰まったスーツケースを一度は閉じることを強いられる。生きていると、わたしたちの荷物=個性は様々な理由から小さなスーツケースに押し込められ、その表出を社会や、時には自分自身によって禁じられてしまう。

先に書いたようにスーツケースの中身は私的なものだから、いつでもどこでも全てを晒け出す必要はない。だから鍵がついているし、他人の鞄を勝手に開ける人はまずいない。ニュートだって何でもかんでもオープンにしているわけではなく、彼にも公にしない過去がある。でもスーツケースは、例えば家の奥深くに大事にしまわれた金庫とは違い、手荷物としていろんなところに持ち運べ、リンクの記事でもご指摘があるように、必要とあらば中身を入れ替えたりできるし、鍵が壊れて中身が出る可能性もある。

個性とかアイデンティティと呼ばれるものはそれくらい不安定で、だからこそフレキシブルなんじゃないだろうか。わたしたちはそれを公にしてもしなくてもいいのだけれど、ニュートのようにその表出を恥じず、時にはコワルスキーのように、自分の創ったものを誇らしげに掲げ、夢を語ることができたらーーそんな願いが、この物語には込められていると思う。

A handful of Christmas poems by Wendy Cope

Translated by me.



ウェンディ・コープ「クリスマスの詩」

クリスマス、小さな子どもたちは歌い、陽気に鐘が鳴る
冷たい風に手や顔はひりりと痛み
幸せな家族たちは教会に行き、愉しげに交友を深める
こういうことの全部が驚くほど不快でしょうがない、あなたがシングルなら。


The original poem: 'A Christmas poem' is here.
The Great Christmas Compendium: A Christmas Poem - Telegraph

ウェンディ・コープ「もう一つのクリスマスの詩」

クリスマスのやつが、またやってきた。
親愛の杯を掲げよう:
地球に平和を、人には思いやりを、
そして男たちに皿洗いを。


The original poem: 'Another Christmas Poem' is here.
Poetry Friday: Another Christmas Poem by Wendy Cope |

クリスマスですね。最近全然更新できていないのですが、せっかくなのでクリスマスの詩を2篇紹介して、ささやかなクリスマス・ギフトとしたいと思います。どちらもウェンディ・コープ(Wendy Cope)というイギリス人詩人のシャープなユーモアが光る小品。1篇目は、ああ独り身のクリスマスが惨めと言われるのはイギリスでも同じなのだなあと感慨深くなります。4行きっちり脚韻を踏む律儀なリズムの良さが、なんというかいい意味で癪にさわる。2篇目は"goodwill to men"(人には思いやりを)のmenの意味を次の行で「男」として拾って、「彼ら(男たち)に皿洗いをさせよう」とさらりとフェミいことを言っています。こういう軽やかでユーモラスなフェミニズムのあり方ってイギリスらしいなと思う。


Thank you for coming to my blog. I hope you've had a wonderful Christmas :)

My experience of reading

Don't know why I'm writing this in English, but sometimes it's simpler for me to write a certain thing in English. Or, I might just want to practice before taking an English test.



Anyways. Recently I've been trying to read a lot. I've been focusing on reading, once again.

At university, I studied English literature and read different texts. But to be honest, originally, I'm not a diligent reader. I like reading. But I often get distracted. Sometimes I can't focus on the book and it takes me over a month to finish it. When I was younger, I couldn't accept that kind of myself. I tried to hide it, because I thought I had to read a lot since I was a literature student. Besides, sometimes I felt like "I have to read this, because it is, everyone says, a masterpiece." I kind of felt compelled to read something. And you know, that sort of reading is not very much fun.

In my opinion, at that point I was in the process of figuring out what I really want, what I really like, and who I really am. In that process, we tend to pretend to like something that we don't actually like or understand, because we don't know yet what is valuable to us. We are not confident in our own taste and ourselves, so we try to like something people highly rate and make ourselves look bigger than we really are. This happens to everyone, I believe. And it happened to me. I wanted to read what people I respect recommeded and to understand it. But it didn't always work.

That's what my university years were like. Afterwards it gradually changed. While I was doing job hunting in the fourth year (technically fifth year), and after I graduated, I had less time to read. I went through different things. The biggest was developing type one diabetes (I have lots to talk about it but that's another story). I had a few small challenges during this time as well. Those things made me face myself, learn I can't be anything but what I am, and realize I need to read. Having shaken off the feeling of obligation to read, yet I need books.

Also I've realized I can be a lazy reader. It's okay sometimes not to be able to finish a book. It happens, relatively frequently to me, but it's okay. Though I'm still not confident in myself, I already started to accept my laziness. And interestingly, since then, I've been reading much more than before. In the past I confined my reading to a certain, proper style and that made me more unable to read. That was kind of my 'mind-forged manacles'. Now I'm enjoying reading in a truer way.

This is not going to end up with a conclusion, as usual. In a previous post, I wrote about a talk that Tavi Gevinson gave for TED and its title is "Still Figuring Out". I love the talk. I love how a young girl views our world and it made me learn our life is the process of "figuring it out". As to reading, I think I've got a new 'figure it out' moment. So maybe I just wanted to write about it. Of course I know, to most people it's "write it on the back of a flyer" stuff. But I don't care because this is, at least, my own flyer's back.

自らを救う女子のお伽噺、再び+『17歳の肖像』/Carol Ann Duffy, 'Little Red-Cap'

以前から何度か話題にしている英詩人キャロル・アン・ダフィの詩集The World's Wifeを読み始めた。


The World's Wife: Picador Classic (English Edition)

The World's Wife: Picador Classic (English Edition)

神話や伝説、現実の歴史において排除されてきた女性たち--特に偉人や英雄の妻たちに焦点を当て、彼女らに自らの物語を語らせていく、というコンセプトの詩集。ヘロデ大王の妻やダーウィンの妻、あるいはメデューサのような嫌われものの女などが、ダフィの筆を借り(正確にはダフィがそのペルソナを借り)、それぞれに自らの詩を紡いでいく。その冒頭を飾る'Little Red-Cap'という赤ずきんを語り手とした一篇がまずもう素晴らしいから、とりあえず訳させてください。

キャロル・アン・ダフィ「赤ずきん


子ども時代のおわり、家々は消えていった
遊び場へと 跪いた既婚の男たちによってまるで情婦のように
管理された工場や、菜園へと
静かな線路へと 隠遁者のトレーラーハウスへと
そしてついに森の端っこに辿り着いた。
わたしが初めて狼を見やったのはそこだった。

彼は開けたところに立ち、自分の詩を声に出して読んでいた
その狼らしい間延びした話し方で、毛むくじゃらの手にペーパーバックを持ち
髭を生やした顎は赤ワインの染みがついていた。なんて大きな
耳だろう!なんて大きな目だろう!なんて歯だろう!
幕間に、彼がわたしに目をつけたんだ
花の16才、初心な、家なき子に そして一杯奢ってくれた

わたしの初めての一杯。あなたはなぜと訊ねるかもね。これが理由。詩だ。
分かっていた 狼が家から離れた森深くに
梟の瞳に照らされた暗く混沌としてやっかいな場所に
わたしを連れて行くことは。彼の跡を追って這った
ストッキングはビリビリに破れ、ブレザーの赤い糸くずが
枝々に引っかかって殺しの手がかりになった。靴を両方失くしてしまったけれど

わたしは辿り着いた、狼のねぐらに 用心しなければ。その夜のレッスンその1、
狼の吐息がわたしの耳に愛の詩を詠んだ。
わたしは夜が明けるまで彼の激しい毛皮にしがみついた。
どうして小さな女の子が狼を愛せないだろうか?
それからわたしは毛のもつれた重たい手から滑り出て
生きた鳥--白い鳩--を探しに出た

鳩はわたしの手からまっすぐに彼の開いた口に飛び込み
一噛みされ、死んだ。ベッドで食べる朝食は最高だねと彼は言った
舌なめずりしながら。彼が眠るとすぐに、わたしは忍び込んだ
壁全面が本によって真紅に、黄金に輝いたねぐらの裏側に。
言葉が、言葉が舌の上で、頭のなかで真に生きていた
温かく、脈打ち、必死に、羽をばたつかせて;音楽と血のように。

でもそのときわたしは若かった--だから十年もかかった
森のなかで きのこが埋められた死体の
口を塞ぐこと、鳥は木々が口に出した
考えだということ、白髪になっていく狼がゆく年、くる年
月に向かって同じ歌を吠えること、季節がめぐっても
同じライムを、同じ理由で吠えることを語れるようになるのに。わたしは斧を振った

柳がどんなにふうに泣くか見ようとして。わたしは斧を振った
鮭がどんなにふうに跳ねるか見ようとして。わたしは狼に斧を振った
彼が寝ているときに、一振り、陰嚢から喉へ、そして見たんだ
わたしのお祖母さんの輝く純白の骨を。
わたしは彼のお腹に石を詰めた。そして縫い合わせた。
森の外へわたしは花をもって出る、ひとりきりで歌いながら。


Carol Ann Duffy – Little Red Cap | Genius


わたしの英語力もなかなか怪しいところがあるので、誤訳・恣意的な訳になっている可能性があるから原詩を読んでもらうのが一番だとは思うのですが。

読んでいてとにかく嬉しくなってしまったのは、これもまたアナ雪やゴブリン・マーケットの系譜に連なる、男性のヒーローに助けてもらうのではなく、自ら行動し成長する若き女性のお伽噺だということ。この赤ずきんの物語には狼を退治して赤ずきんとお祖母さんを救ってくれる猟師は登場しない。赤ずきんは自分の手で狼を打倒する。加えて、映画『17歳の肖像』的な要素もあり、読みながら悶えるしかなかった。悶えるしかなかったよ!


この詩では、ゴブリン・マーケットにおけるゴブリンの役割を果たす、少女を誘惑し肉体関係を持つ男性=狼が、ゴブリンよりもいくぶん魅力的に複雑に描かれている。わかりやすく悪徳の象徴だったゴブリンとは異なり、狼は詩人で、読書家で、ワイルドで、セクシー。わたしやあなたが憧れるかもしれない、知的でちょっとアウトローな男性だ。狼との接触は性体験のみならず本や詩といった知との出会いも意味していて、必ずしも否定的なものではないように思う*1。初め、赤ずきんはそんな教養がある大人の男性から愛されることに、たぶん満足している。まさに『17歳の肖像』的ですよね。

けれど、彼女は狼の蔵書を通して次第に自らの言葉を獲得し、自ら語ることを学んでいく。そして狼が特別な存在じゃないこと、彼に愛されることには実はさほど大きな意味がないこと、もしかすると彼に搾取されてきたかもしれないことを知る。この過程はあまり明瞭には描かれていない。赤ずきんが狼に失望したとか裏切られたという直接的な描写は存在しない。だから突然赤ずきんが狼を殺すのは不条理だと感じる人もいるかもしれないけれど、ここで赤ずきんの行動の意味が想像され、共感さえするという人がいたら、握手。これはわたしが『17歳の肖像』を見た時から何度か、しつこく言い続けていることなんですが、大人の男性からの承認はあなたの価値をなんら高めるものじゃない。もちろん他者から、それも知性や教養のある他者から褒められたり、認められたりする嬉しさや心地よさは当然ある。けれど、それがあなたの魅力や価値になるのではない。あなたの価値はあなた自身の言葉や想像力/創造力の中に、あなた自身の中にある。きっと赤ずきんはそれを知ったから、狼を殺したのだ。自分ひとりで自分の歌を歌えるようになったから。




追記:赤ずきんは自分ひとりで歌えるようになったと書きましたが、その結果としてこの詩ができたわけですよね。それが"You might ask why. Here's why. Poetry."ってとこに掛かってくるわけだ。なお感動。

*1:ゴブリンにおいても、ゴブリンという男性だけが持ち得、少女たちは食べてはいけないとされる果物は、旧約聖書におけるアダムとイブが食べた知恵の実のイメージとも重なって、当時女性が遠ざけられていた執筆などの知的活動を指す、という解釈もある。

You can let them touch you, but never let them grab your pussy / Sarah Kay, 'The Type'


サラ・ケイ「ザ・タイプ」

Sarah Kay - "The Type" - YouTube

誰にでも場所が必要だ。
それは他の誰かの内にはない。
--リチャード・サイケン


あなたが、男性が見たくなるような女性に成長したら
彼らに見せてやったらいい。でも視線を手と間違えないで。

あるいは窓と。
鏡と間違えないで。

彼らに女性がどんなふうか見せてやったらいい。
一度も見たことがないのかもしれないから。

あなたが、男性が触れたくなるような女性に成長したら
彼らに触れさせてやったらいい。
彼らが手を伸ばしているのはあなたじゃないこともある。
時にそれはボトル。ドア。サンドイッチ。ピューリッツァー。他の女性。

でも彼らの手はまずあなたを見つけた。あなた自身を守護者と間違えないで。
あるいはミューズと。約束と。犠牲者と。スナックと間違えないで。

あなたは一人の女性。皮と骨。
血管と神経。髪と汗。
あなたはメタファーでできているんじゃない。謝罪でもない。言い訳でもない。

あなたが、男性が抱えたくなるような女性に成長したら
彼らに抱えさせてやったらいい。

一日中彼らは身体を真っ直ぐに保ち続けようと努めている。
この進化が未だにまったく不自然に感じられて筋肉を痛めても

その腕と背骨をしっかりと固めている。丸まってあなたのまわりにクエッションマークを描くのが
どんなかんじかを学ぼうとし、

今頃には出ているだろうと思った答えが
出ていないのを認められるのはほんの少しの男性だけ;

なかにはあなたを答えのように掲げたがる男性もいる。
あなたは答えじゃない。

あなたは問題じゃない。詩でもない。
落ちでもなぞなぞでも冗談でもない。

女性だ。あなたが、男性が愛したくなるタイプに成長したら
彼らに愛させてやったらいい。

愛されることは愛することと同じじゃない。
恋に落ちたとき、それは大海を見出す

何年も水溜まりにジャンプした後に。あなたには手があることに気づいていく。
それは群衆がみんな家に帰った後、綱を求めて手を伸ばす。

自分は男性から傷つけられるような女性かどうかなんて考えるのに
時間を使わないで。彼があなたにカーアラームのような心を負わせれば、あなたはそれに合わせて歌うようになる。

大海を愛するのを止めるのはたいへんなこと。たとえ喘ぎ、塩辛さを味わうことになった後も。
あなた自身を許してやって あなたが下した決断のために、あなたが未だに

間違いと呼ぶ決断のために 夜それを仕舞い込むとき。そしてこれを知っておいて:
あなたは、あなたのものと呼べる場所を探している女性だということを。

像は砕け散らせておけばいい。
あなたこそがずっとその場所だったんだ。

あなたはそれを自分自身で築くことができる女性。
築くためにあなたは生まれたんだ。


Poem from "The Type" | Huffington Post


世の男性にあなたがどんな女性か、どんな存在か、ありのままを見せてやったらいい。でもあなた自身を、あなたの心と身体を決して手離さないで。あなたはあなた自身のものだということを決して諦めないで。なんの気なしに良い詩だから訳そうと作業に取りかかり始めたらあんなことがあって、素敵な詩の翻訳という行為に別の意味づけをしなくちゃいけなくなったのは悲しい。でも、今このとき逃げ場となる詩があってくれたことに正直わたしは安堵してしまう。くだらないと思われるかもしれないけど、今日はあえてこう言わせてください。You can let them touch you, but never let them grab your pussy. You own your body, mind, and just yourself.




記事冒頭のサラ自身による前書きも一応訳しておきます。

近頃、たくさんのメディアの関心が「女性であること」の意味に払われていますが、しばしば議論は他者との関わりにおいて女性であることが何を意味するかにフォーカスされています(母として、妻として、姉妹として、恋人としてetc.の女性といったぐあいに)。これらの関係は重要だとわたしは信じています。またわたしはわたしたち自身を個人として、比較や関係性抜きに、単独で定義できると思っています。女性は他者から定義される必要はありません。わたしたちには自分たち自身を定義する力があります:わたしたち自身の物語を、わたしたち自身のことばで、声で伝えることによって。

Sarah Kay, 'Dreaming Boy'

最近コンテンポラリーな英詩を積極的に読んでいこうと思い、ちまちまと掘り始めているのだけど、そこで出会ったサラ・ケイ(Sarah Kay)という詩人が素敵なので一篇訳してみる。相変わらず翻訳のセンスがなく、原詩の魅力を殺している点には目を瞑ろう。



1988年生まれ、見ての通り若く才覚煌めいているサラ・ケイはspoken word poetryの詩人で、「書いて読ませる」活字媒体ではなく「読んで聞かせる」パフォーマンスをメインフィールドとして活動している。そのためYouTubeを検索すれば彼女が詩を読むビデオはいくつも見つけられるし、2011年にはTEDでもパフォーマンスを行っている。

Sarah Kay: If I should have a daughter ... | TED Talk | TED.com

ここでサラが披露する'B' ('If I should have a daughter') が彼女の代表作なのだけれど、これはばっちり日本語字幕つきで聞けるので、今回は別の詩を紹介する。わたしがグダグダ付け加える前にまず聞いて、読んで(下にトランスクリプトを掲載したサイトを載せています)もらえれば魅力はわかると思うのだが、簡潔に言ってとても率直で、フレッシュで、わたしはなぜか少し泣きたくなる詩だ。

サラ・ケイ「夢見る少年」

Sarah Kay performs "Dreaming Boy" - YouTube

子ども時代の、覚えている夢ではたいてい
わたしは男の子。塔から乙女を救い出し、
あるいは特に誰かを救っていなくても、間違いなく男の子だった。

何年もの間、わたしの持つ言葉が人気者の子たちの
テーブルから投げられるクズだけだったとき、レズビアン
何よりもっともらしい説明のように思えた。

ある特定の性の自分を夢見る意味は?
その秘密を舌の下に留めておく意味は?
初めて男の子にキスしたとき、彼はとても背が高くて、唇はとても柔らかくて

わたしは何週間も海の夢を見た。手足のコントロールをまったく失って。
彼の隣では、みんなを十分納得させられるくらい女の子らしかった。少なくとも
目が覚めているときは。夜、わたしはバットマンだった。夜は、消防士だった。

夜は、男の子、男の子らしいところに筋肉があった。しっかりした手も。
走って行く方角も。初めて女の子にキスしたとき
ふたりの顔が互いのうちに溶けていくのが好きじゃなかった。

無精髭はどこ?しっかりした顎は、シナモンは?わたしは
彼女のライラックで息ができなかった。わたしはひどい高潮の森で
迷う夢を見た。わたしがレズビアンでないなら

どんな説明があり得るのだろう?
この不誠実な心を、このあり得ない渇望を、
この惨めな思いをどんな言葉で括ればいいのだろう?

初めてあなたに会ったとき、誰かが言った「ああ、やつは間違いなくゲイだ」
それはたぶんわたしにも覚えがある困惑だった。
初めてわたしたちがキスしたとき、ゆっくりいこうとあなたは言った。

わたしがあなたの胸に手を置くと、あなたはそれをどかした。
わたしは14才の子がブラを外そうとしているみたいな気分だった。
それでもあなたは一晩過ごした 隣り合って横になり息をして

わたしの手はあなたのボクサーパンツから少し離れて、布団の下でひくひく動いていた。
翌朝、わたしが授業に出ている間にあなたはベッドを整え、わたしの服を畳んでくれた。
あなたはハープを習っていて、演奏しながらわたしに歌ってくれた。

わたしの誕生日には三層のケーキを焼き、アイシングで飾るために早起きした。
わたしはあなたの胴体がシャツを着ずに、アイシングをチューブから押し出すのを見ていた。
わたしはその瞬間あなたのを愛したように、身体を愛したことはない。

あなたは学校までの道すがら花を摘み、どんな部屋にもブーケを残した。
あなたが踊ると、壁があなたに近づこうと寄りかかってきた。
わたしがついにあなたに男の子とデートしたいのかと訊ねたとき

あなたが長い、静かな一瞬、考えている間わたしは息を呑んだ。
デートしたいと思う人に出会ったことはなかったとあなたは言った。今は
君にすっかり恋してる、それでいいのなら。
そんなふうに

わたしはずっと必要だと思っていた言葉を求めなくなった。
そんなふうにどこからか手が遠い夢に向かって伸び、
言った ほらおいでよ。わたしたちには救うべき乙女がいる。

わたしが言おうとしてるのはたぶん、あなたはわたしを男の子みたいに感じさせてくれるということ。
わたしはずっとその男の子だった。夜、わたしは木に登り
カーゴパンツを履いていた。夜、わたしは建物に忍び入り焚き火をした。

目覚めると、わたしはあなたの背中に巻きついていた まるで引き出しの中の一番幸せな
大きなスプーン。あなたは裸で、深く息をしている、わたしの愛する男。わたしは
あなたをまるで贈りものみたいに抱きしめ、安心してまた夢へと沈んでいく。



Sarah Kay, 'Dreaming Boy'
Transcript from Sarah Kay's Poetry


子ども時代に見た夢ではいつも男の子だった語り手が、ジェンダーセクシュアリティの混乱を率直に語りつつ、やがて「自分が自分であることを認められる相手との出会い」にやさしく着地していく詩。ちょっと奇妙な二人のキュートな恋愛詩としても読めるし、ジェンダーセクシュアリティを通してアイデンティティを問う格闘でもあるし、また他者をカテゴライズすることの残酷を突いてもいる。比較的易しい英語で書かれていて言葉はシンプルだけれども、自分を見つめること、成長すること、他者との関係を築くことetc.にまつわるいろんな難しさが織り込まれていて、読みほぐしていくとおもしろい。それにサラの正直な声にはこれらの単純じゃない物事に聞き手をいとも自然に、すっと向き合わせてしまう力がある。



わたしが特に好きなのは、語り手が初めて「あなた」に会った時、誰かが「彼はゲイだ」と規定したことに対して「わたしもその困惑を知っている(that was maybe the confusion I recognized)」と違和感を露わにする一方で、彼女もまた彼に対して男の子と付き合いたいのかと訊ねてしまうような、そんな一筋縄ではいかなさだ。語り手自身、学校の人気者たちからレズビアンと呼ばれることに当惑し、しかしおそらく一度は、男の子になった夢ばかり見て、男の子とキスをしても夢の中の自分と現実の自分との乖離が大きくなるばかりなのは、自分がレズビアンだからだと納得しようとしている。けれども女の子とキスをしてもしっくりこないし、どんどん自分の感情や欲望が受け容れがたいもののように思えて、惨めな気持ちだけが募っていく。個人の複雑な捉えにくさを他者が一言で片付けてしまうこと、それを嘲るようにすることの意地悪さと暴力を語り手はよく知っていて、同時にそれに絡めとられそうにもなっている。だから彼女は「あなた」をゲイだとは決めつけないけれども、彼に自分への思いを確認するかわりに男の子が好きなのかと聞いてしまうんだと思う。

わたしはそれを正しいとは思わないけれど、その不完全さゆえにこの詩が好きでもある。誰しもすべてにおいて正しくはいられないから。自分も他人も曇りなく見つめることはできないから。自分のわかる言葉で、都合のいい言葉で何かを説明しようとするから。それでも語り手は「あなた」の一言(このへんの展開は少し語り手に都合がよく響くかもしれない)をアイスブレイクとしてずっと探していた自分を定義するための言葉からするりと抜け出す。かわりに女性である自分と夢の中の少年である自分との同居を、従来女性らしさと結びついてきた物事を好む男性を愛することを自然に受け容れていく。悩み、トライし、失敗し、最後に少し前に進む。それを語る詩人の声がどこまでも率直なのが清々しくて、ほんとうにすき。他にもいい詩がいろいろあるので、また機会があったら訳してみたい。

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Kay, Sarah (sera) | The official website for poet Sarah Kay