読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

My experience of reading

English ぼやき

Don't know why I'm writing this in English, but sometimes it's simpler for me to write a certain thing in English. Or, I might just want to practice before taking an English test.



Anyways. Recently I've been trying to read a lot. I've been focusing on reading, once again.

At university, I studied English literature and read different texts. But to be honest, originally, I'm not a diligent reader. I like reading. But I often get distracted. Sometimes I can't focus on the book and it takes me over a month to finish it. When I was younger, I couldn't accept that kind of myself. I tried to hide it, because I thought I had to read a lot since I was a literature student. Besides, sometimes I felt like "I have to read this, because it is, everyone says, a masterpiece." I kind of felt compelled to read something. And you know, that sort of reading is not very much fun.

In my opinion, at that point I was in the process of figuring out what I really want, what I really like, and who I really am. In that process, we tend to pretend to like something that we don't actually like or understand, because we don't know yet what is valuable to us. We are not confident in our own taste and ourselves, so we try to like something people highly rate and make ourselves look bigger than we really are. This happens to everyone, I believe. And it happened to me. I wanted to read what people I respect recommeded and to understand it. But it didn't always work.

That's what my university years were like. Afterwards it gradually changed. While I was doing job hunting in the fourth year (technically fifth year), and after I graduated, I had less time to read. I went through different things. The biggest was developing type one diabetes (I have lots to talk about it but that's another story). I had a few small challenges during this time as well. Those things made me face myself, learn I can't be anything but what I am, and realize I need to read. Having shaken off the feeling of obligation to read, yet I need books.

Also I've realized I can be a lazy reader. It's okay sometimes not to be able to finish a book. It happens, relatively frequently to me, but it's okay. Though I'm still not confident in myself, I already started to accept my laziness. And interestingly, since then, I've been reading much more than before. In the past I confined my reading to a certain, proper style and that made me more unable to read. That was kind of my 'mind-forged manacles'. Now I'm enjoying reading in a truer way.

This is not going to end up with a conclusion, as usual. In a previous post, I wrote about a talk that Tavi Gevinson gave for TED and its title is "Still Figuring Out". I love the talk. I love how a young girl views our world and it made me learn our life is the process of "figuring it out". As to reading, I think I've got a new 'figure it out' moment. So maybe I just wanted to write about it. Of course I know, to most people it's "write it on the back of a flyer" stuff. But I don't care because this is, at least, my own flyer's back.

自らを救う女子のお伽噺、再び+『17歳の肖像』/Carol Ann Duffy, 'Little Red-Cap'

文学

以前から何度か話題にしている英詩人キャロル・アン・ダフィの詩集The World's Wifeを読み始めた。


The World's Wife: Picador Classic (English Edition)

The World's Wife: Picador Classic (English Edition)

神話や伝説、現実の歴史において排除されてきた女性たち--特に偉人や英雄の妻たちに焦点を当て、彼女らに自らの物語を語らせていく、というコンセプトの詩集。ヘロデ大王の妻やダーウィンの妻、あるいはメデューサのような嫌われものの女などが、ダフィの筆を借り(正確にはダフィがそのペルソナを借り)、それぞれに自らの詩を紡いでいく。その冒頭を飾る'Little Red-Cap'という赤ずきんを語り手とした一篇がまずもう素晴らしいから、とりあえず訳させてください。

キャロル・アン・ダフィ「赤ずきん


子ども時代のおわり、家々は消えていった
遊び場へと 跪いた既婚の男たちによってまるで情婦のように
管理された工場や、菜園へと
静かな線路へと 隠遁者のトレーラーハウスへと
そしてついに森の端っこに辿り着いた。
わたしが初めて狼を見やったのはそこだった。

彼は開けたところに立ち、自分の詩を声に出して読んでいた
その狼らしい間延びした話し方で、毛むくじゃらの手にペーパーバックを持ち
髭を生やした顎は赤ワインの染みがついていた。なんて大きな
耳だろう!なんて大きな目だろう!なんて歯だろう!
幕間に、彼がわたしに目をつけたんだ
花の16才、初心な、家なき子に そして一杯奢ってくれた

わたしの初めての一杯。あなたはなぜと訊ねるかもね。これが理由。詩だ。
分かっていた 狼が家から離れた森深くに
梟の瞳に照らされた暗く混沌としてやっかいな場所に
わたしを連れて行くことは。彼の跡を追って這った
ストッキングはビリビリに破れ、ブレザーの赤い糸くずが
枝々に引っかかって殺しの手がかりになった。靴を両方失くしてしまったけれど

わたしは辿り着いた、狼のねぐらに 用心しなければ。その夜のレッスンその1、
狼の吐息がわたしの耳に愛の詩を詠んだ。
わたしは夜が明けるまで彼の激しい毛皮にしがみついた。
どうして小さな女の子が狼を愛せないだろうか?
それからわたしは毛のもつれた重たい手から滑り出て
生きた鳥--白い鳩--を探しに出た

鳩はわたしの手からまっすぐに彼の開いた口に飛び込み
一噛みされ、死んだ。ベッドで食べる朝食は最高だねと彼は言った
舌なめずりしながら。彼が眠るとすぐに、わたしは忍び込んだ
壁全面が本によって真紅に、黄金に輝いたねぐらの裏側に。
言葉が、言葉が舌の上で、頭のなかで真に生きていた
温かく、脈打ち、必死に、羽をばたつかせて;音楽と血のように。

でもそのときわたしは若かった--だから十年もかかった
森のなかで きのこが埋められた死体の
口を塞ぐこと、鳥は木々が口に出した
考えだということ、白髪になっていく狼がゆく年、くる年
月に向かって同じ歌を吠えること、季節がめぐっても
同じライムを、同じ理由で吠えることを語れるようになるのに。わたしは斧を振った

柳がどんなにふうに泣くか見ようとして。わたしは斧を振った
鮭がどんなにふうに跳ねるか見ようとして。わたしは狼に斧を振った
彼が寝ているときに、一振り、陰嚢から喉へ、そして見たんだ
わたしのお祖母さんの輝く純白の骨を。
わたしは彼のお腹に石を詰めた。そして縫い合わせた。
森の外へわたしは花をもって出る、ひとりきりで歌いながら。


Carol Ann Duffy – Little Red Cap | Genius


わたしの英語力もなかなか怪しいところがあるので、誤訳・恣意的な訳になっている可能性があるから原詩を読んでもらうのが一番だとは思うのですが。

読んでいてとにかく嬉しくなってしまったのは、これもまたアナ雪やゴブリン・マーケットの系譜に連なる、男性のヒーローに助けてもらうのではなく、自ら行動し成長する若き女性のお伽噺だということ。この赤ずきんの物語には狼を退治して赤ずきんとお祖母さんを救ってくれる猟師は登場しない。赤ずきんは自分の手で狼を打倒する。加えて、映画『17歳の肖像』的な要素もあり、読みながら悶えるしかなかった。悶えるしかなかったよ!


この詩では、ゴブリン・マーケットにおけるゴブリンの役割を果たす、少女を誘惑し肉体関係を持つ男性=狼が、ゴブリンよりもいくぶん魅力的に複雑に描かれている。わかりやすく悪徳の象徴だったゴブリンとは異なり、狼は詩人で、読書家で、ワイルドで、セクシー。わたしやあなたが憧れるかもしれない、知的でちょっとアウトローな男性だ。狼との接触は性体験のみならず本や詩といった知との出会いも意味していて、必ずしも否定的なものではないように思う*1。初め、赤ずきんはそんな教養がある大人の男性から愛されることに、たぶん満足している。まさに『17歳の肖像』的ですよね。

けれど、彼女は狼の蔵書を通して次第に自らの言葉を獲得し、自ら語ることを学んでいく。そして狼が特別な存在じゃないこと、彼に愛されることには実はさほど大きな意味がないこと、もしかすると彼に搾取されてきたかもしれないことを知る。この過程はあまり明瞭には描かれていない。赤ずきんが狼に失望したとか裏切られたという直接的な描写は存在しない。だから突然赤ずきんが狼を殺すのは不条理だと感じる人もいるかもしれないけれど、ここで赤ずきんの行動の意味が想像され、共感さえするという人がいたら、握手。これはわたしが『17歳の肖像』を見た時から何度か、しつこく言い続けていることなんですが、大人の男性からの承認はあなたの価値をなんら高めるものじゃない。もちろん他者から、それも知性や教養のある他者から褒められたり、認められたりする嬉しさや心地よさは当然ある。けれど、それがあなたの魅力や価値になるのではない。あなたの価値はあなた自身の言葉や想像力/創造力の中に、あなた自身の中にある。きっと赤ずきんはそれを知ったから、狼を殺したのだ。自分ひとりで自分の歌を歌えるようになったから。




追記:赤ずきんは自分ひとりで歌えるようになったと書きましたが、その結果としてこの詩ができたわけですよね。それが"You might ask why. Here's why. Poetry."ってとこに掛かってくるわけだ。なお感動。

*1:ゴブリンにおいても、ゴブリンという男性だけが持ち得、少女たちは食べてはいけないとされる果物は、旧約聖書におけるアダムとイブが食べた知恵の実のイメージとも重なって、当時女性が遠ざけられていた執筆などの知的活動を指す、という解釈もある。

You can let them touch you, but never let them grab your pussy / Sarah Kay, 'The Type'

文学 English Poetry in 21st Century


サラ・ケイ「ザ・タイプ」

Sarah Kay - "The Type" - YouTube

誰にでも場所が必要だ。
それは他の誰かの内にはない。
--リチャード・サイケン


あなたが、男性が見たくなるような女性に成長したら
彼らに見せてやったらいい。でも視線を手と間違えないで。

あるいは窓と。
鏡と間違えないで。

彼らに女性がどんなふうか見せてやったらいい。
一度も見たことがないのかもしれないから。

あなたが、男性が触れたくなるような女性に成長したら
彼らに触れさせてやったらいい。
彼らが手を伸ばしているのはあなたじゃないこともある。
時にそれはボトル。ドア。サンドイッチ。ピューリッツァー。他の女性。

でも彼らの手はまずあなたを見つけた。あなた自身を守護者と間違えないで。
あるいはミューズと。約束と。犠牲者と。スナックと間違えないで。

あなたは一人の女性。皮と骨。
血管と神経。髪と汗。
あなたはメタファーでできているんじゃない。謝罪でもない。言い訳でもない。

あなたが、男性が抱えたくなるような女性に成長したら
彼らに抱えさせてやったらいい。

一日中彼らは身体を真っ直ぐに保ち続けようと努めている。
この進化が未だにまったく不自然に感じられて筋肉を痛めても

その腕と背骨をしっかりと固めている。丸まってあなたのまわりにクエッションマークを描くのが
どんなかんじかを学ぼうとし、

今頃には出ているだろうと思った答えが
出ていないのを認められるのはほんの少しの男性だけ;

なかにはあなたを答えのように掲げたがる男性もいる。
あなたは答えじゃない。

あなたは問題じゃない。詩でもない。
落ちでもなぞなぞでも冗談でもない。

女性だ。あなたが、男性が愛したくなるタイプに成長したら
彼らに愛させてやったらいい。

愛されることは愛することと同じじゃない。
恋に落ちたとき、それは大海を見出す

何年も水溜まりにジャンプした後に。あなたには手があることに気づいていく。
それは群衆がみんな家に帰った後、綱を求めて手を伸ばす。

自分は男性から傷つけられるような女性かどうかなんて考えるのに
時間を使わないで。彼があなたにカーアラームのような心を負わせれば、あなたはそれに合わせて歌うようになる。

大海を愛するのを止めるのはたいへんなこと。たとえ喘ぎ、塩辛さを味わうことになった後も。
あなた自身を許してやって あなたが下した決断のために、あなたが未だに

間違いと呼ぶ決断のために 夜それを仕舞い込むとき。そしてこれを知っておいて:
あなたは、あなたのものと呼べる場所を探している女性だということを。

像は砕け散らせておけばいい。
あなたこそがずっとその場所だったんだ。

あなたはそれを自分自身で築くことができる女性。
築くためにあなたは生まれたんだ。


Poem from "The Type" | Huffington Post


世の男性にあなたがどんな女性か、どんな存在か、ありのままを見せてやったらいい。でもあなた自身を、あなたの心と身体を決して手離さないで。あなたはあなた自身のものだということを決して諦めないで。なんの気なしに良い詩だから訳そうと作業に取りかかり始めたらあんなことがあって、素敵な詩の翻訳という行為に別の意味づけをしなくちゃいけなくなったのは悲しい。でも、今このとき逃げ場となる詩があってくれたことに正直わたしは安堵してしまう。くだらないと思われるかもしれないけど、今日はあえてこう言わせてください。You can let them touch you, but never let them grab your pussy. You own your body, mind, and just yourself.




記事冒頭のサラ自身による前書きも一応訳しておきます。

近頃、たくさんのメディアの関心が「女性であること」の意味に払われていますが、しばしば議論は他者との関わりにおいて女性であることが何を意味するかにフォーカスされています(母として、妻として、姉妹として、恋人としてetc.の女性といったぐあいに)。これらの関係は重要だとわたしは信じています。またわたしはわたしたち自身を個人として、比較や関係性抜きに、単独で定義できると思っています。女性は他者から定義される必要はありません。わたしたちには自分たち自身を定義する力があります:わたしたち自身の物語を、わたしたち自身のことばで、声で伝えることによって。

Sarah Kay, 'Dreaming Boy'

文学 English Poetry in 21st Century

最近コンテンポラリーな英詩を積極的に読んでいこうと思い、ちまちまと掘り始めているのだけど、そこで出会ったサラ・ケイ(Sarah Kay)という詩人が素敵なので一篇訳してみる。相変わらず翻訳のセンスがなく、原詩の魅力を殺している点には目を瞑ろう。



1988年生まれ、見ての通り若く才覚煌めいているサラ・ケイはspoken word poetryの詩人で、「書いて読ませる」活字媒体ではなく「読んで聞かせる」パフォーマンスをメインフィールドとして活動している。そのためYouTubeを検索すれば彼女が詩を読むビデオはいくつも見つけられるし、2011年にはTEDでもパフォーマンスを行っている。

Sarah Kay: If I should have a daughter ... | TED Talk | TED.com

ここでサラが披露する'B' ('If I should have a daughter') が彼女の代表作なのだけれど、これはばっちり日本語字幕つきで聞けるので、今回は別の詩を紹介する。わたしがグダグダ付け加える前にまず聞いて、読んで(下にトランスクリプトを掲載したサイトを載せています)もらえれば魅力はわかると思うのだが、簡潔に言ってとても率直で、フレッシュで、わたしはなぜか少し泣きたくなる詩だ。

サラ・ケイ「夢見る少年」

Sarah Kay performs "Dreaming Boy" - YouTube

子ども時代の、覚えている夢ではたいてい
わたしは男の子。塔から乙女を救い出し、
あるいは特に誰かを救っていなくても、間違いなく男の子だった。

何年もの間、わたしの持つ言葉が人気者の子たちの
テーブルから投げられるクズだけだったとき、レズビアン
何よりもっともらしい説明のように思えた。

ある特定の性の自分を夢見る意味は?
その秘密を舌の下に留めておく意味は?
初めて男の子にキスしたとき、彼はとても背が高くて、唇はとても柔らかくて

わたしは何週間も海の夢を見た。手足のコントロールをまったく失って。
彼の隣では、みんなを十分納得させられるくらい女の子らしかった。少なくとも
目が覚めているときは。夜、わたしはバットマンだった。夜は、消防士だった。

夜は、男の子、男の子らしいところに筋肉があった。しっかりした手も。
走って行く方角も。初めて女の子にキスしたとき
ふたりの顔が互いのうちに溶けていくのが好きじゃなかった。

無精髭はどこ?しっかりした顎は、シナモンは?わたしは
彼女のライラックで息ができなかった。わたしはひどい高潮の森で
迷う夢を見た。わたしがレズビアンでないなら

どんな説明があり得るのだろう?
この不誠実な心を、このあり得ない渇望を、
この惨めな思いをどんな言葉で括ればいいのだろう?

初めてあなたに会ったとき、誰かが言った「ああ、やつは間違いなくゲイだ」
それはたぶんわたしにも覚えがある困惑だった。
初めてわたしたちがキスしたとき、ゆっくりいこうとあなたは言った。

わたしがあなたの胸に手を置くと、あなたはそれをどかした。
わたしは14才の子がブラを外そうとしているみたいな気分だった。
それでもあなたは一晩過ごした 隣り合って横になり息をして

わたしの手はあなたのボクサーパンツから少し離れて、布団の下でひくひく動いていた。
翌朝、わたしが授業に出ている間にあなたはベッドを整え、わたしの服を畳んでくれた。
あなたはハープを習っていて、演奏しながらわたしに歌ってくれた。

わたしの誕生日には三層のケーキを焼き、アイシングで飾るために早起きした。
わたしはあなたの胴体がシャツを着ずに、アイシングをチューブから押し出すのを見ていた。
わたしはその瞬間あなたのを愛したように、身体を愛したことはない。

あなたは学校までの道すがら花を摘み、どんな部屋にもブーケを残した。
あなたが踊ると、壁があなたに近づこうと寄りかかってきた。
わたしがついにあなたに男の子とデートしたいのかと訊ねたとき

あなたが長い、静かな一瞬、考えている間わたしは息を呑んだ。
デートしたいと思う人に出会ったことはなかったとあなたは言った。今は
君にすっかり恋してる、それでいいのなら。
そんなふうに

わたしはずっと必要だと思っていた言葉を求めなくなった。
そんなふうにどこからか手が遠い夢に向かって伸び、
言った ほらおいでよ。わたしたちには救うべき乙女がいる。

わたしが言おうとしてるのはたぶん、あなたはわたしを男の子みたいに感じさせてくれるということ。
わたしはずっとその男の子だった。夜、わたしは木に登り
カーゴパンツを履いていた。夜、わたしは建物に忍び入り焚き火をした。

目覚めると、わたしはあなたの背中に巻きついていた まるで引き出しの中の一番幸せな
大きなスプーン。あなたは裸で、深く息をしている、わたしの愛する男。わたしは
あなたをまるで贈りものみたいに抱きしめ、安心してまた夢へと沈んでいく。



Sarah Kay, 'Dreaming Boy'
Transcript from Sarah Kay's Poetry


子ども時代に見た夢ではいつも男の子だった語り手が、ジェンダーセクシュアリティの混乱を率直に語りつつ、やがて「自分が自分であることを認められる相手との出会い」にやさしく着地していく詩。ちょっと奇妙な二人のキュートな恋愛詩としても読めるし、ジェンダーセクシュアリティを通してアイデンティティを問う格闘でもあるし、また他者をカテゴライズすることの残酷を突いてもいる。比較的易しい英語で書かれていて言葉はシンプルだけれども、自分を見つめること、成長すること、他者との関係を築くことetc.にまつわるいろんな難しさが織り込まれていて、読みほぐしていくとおもしろい。それにサラの正直な声にはこれらの単純じゃない物事に聞き手をいとも自然に、すっと向き合わせてしまう力がある。



わたしが特に好きなのは、語り手が初めて「あなた」に会った時、誰かが「彼はゲイだ」と規定したことに対して「わたしもその困惑を知っている(that was maybe the confusion I recognized)」と違和感を露わにする一方で、彼女もまた彼に対して男の子と付き合いたいのかと訊ねてしまうような、そんな一筋縄ではいかなさだ。語り手自身、学校の人気者たちからレズビアンと呼ばれることに当惑し、しかしおそらく一度は、男の子になった夢ばかり見て、男の子とキスをしても夢の中の自分と現実の自分との乖離が大きくなるばかりなのは、自分がレズビアンだからだと納得しようとしている。けれども女の子とキスをしてもしっくりこないし、どんどん自分の感情や欲望が受け容れがたいもののように思えて、惨めな気持ちだけが募っていく。個人の複雑な捉えにくさを他者が一言で片付けてしまうこと、それを嘲るようにすることの意地悪さと暴力を語り手はよく知っていて、同時にそれに絡めとられそうにもなっている。だから彼女は「あなた」をゲイだとは決めつけないけれども、彼に自分への思いを確認するかわりに男の子が好きなのかと聞いてしまうんだと思う。

わたしはそれを正しいとは思わないけれど、その不完全さゆえにこの詩が好きでもある。誰しもすべてにおいて正しくはいられないから。自分も他人も曇りなく見つめることはできないから。自分のわかる言葉で、都合のいい言葉で何かを説明しようとするから。それでも語り手は「あなた」の一言(このへんの展開は少し語り手に都合がよく響くかもしれない)をアイスブレイクとしてずっと探していた自分を定義するための言葉からするりと抜け出す。かわりに女性である自分と夢の中の少年である自分との同居を、従来女性らしさと結びついてきた物事を好む男性を愛することを自然に受け容れていく。悩み、トライし、失敗し、最後に少し前に進む。それを語る詩人の声がどこまでも率直なのが清々しくて、ほんとうにすき。他にもいい詩がいろいろあるので、また機会があったら訳してみたい。

Official website is here.
Kay, Sarah (sera) | The official website for poet Sarah Kay

Day 2: Grandma's favourite bread

A day in the life of a type 1 diabetic

おばあちゃんのわたしを見る目は、あの日から決定的に変わってしまった。それまでのおばあちゃんの眼差しがどんなかだったは正直よく覚えていないけれど。電車で二駅のところに住んでいるのに、最近では年に2回くらいしかおばあちゃんに会いに行っていなかった。だから生ぬるい空気のこもった狭い4人部屋に小さな二つの車輪を転がしておばあちゃんが入ってきたとき、その小ささにわたしはぎょっとした。おじいちゃん譲りで背の高いわたしに対して、おばあちゃんはもともととても小柄な人だけれど、今や彼女はわたしの半分くらいしかないように思えた。細い腕が丸まった背中から手押しの買い物カートへと伸び、まるでおばあちゃんとカートが一つになって、おばあちゃん自身に車輪がついているようだった。退院後、仕事を始めるまでの2ヶ月間、わたしが毎週のようにおばあちゃんちに通うようにしたのは、残された時間がそう多くはないことをここで痛感したからでもある。


せっかく来てくれても、おやつは食べられないんでしょう?とおばあちゃんは心底悲しそうに言った。いや、食べられるけど、自分が決めたときに自分が決めたものを食べるようにしてるだけ、とわたしは答えた。毎週わたしたちはこのやり取りを繰り返した。わたしはもう飽き飽きしていた。1型糖尿病は甘いものが、おやつが食べられないという誤解に。同じくらい1型糖尿病は何でも食べられるという無思慮にも苛立っていたけれど。

おばあちゃんはわたしの生活が他の同年代の子たちに比べて制限されることを哀れんでいた。毎日何度も自分の指に穴を開け、脇腹に注射することを可哀想だと思っていた。彼女は指に針を刺す仕草を真似て、退院してもこんなことを毎日やらなきゃいけないの?と聞いた。こんなこと。どうやら彼女にとっては注射よりも、人目に晒される指先に傷ができることのほうが重要なようだった(実際には傷跡なんてほとんど残らないのに)。わたしはこんなことを毎日、何回も繰り返して、やっと生きている。治る見込みはないの?ある日突然治ったりしないかね。ため息とともに唐突にこんな言葉が吐き出されるときもある。知るかよ。心のなかでつぶやいて、わたしはお茶をすする。

こんなことが毎週続いたから、わたしはだんだんおばあちゃんちに行くのが辛くなった。また何か病気について見当違いなことを言われるだろう、何気ない一言に傷つけられるだろう。そう思うと足どりが重くなった。ある日おばあちゃんは生協のカタログを眺めながらどんな食べものがカロリーが低くヘルシーかを考えているわたしに言った。フランスパンはいいよ。油を使っていないから。残念だけどクロワッサンはもう食べちゃいけないね。

どうしてあなたがわたしが食べるべきもの、食べてはいけないものを決めるの?わたしはもう毎週おばあちゃんちに行くのをやめた。そろそろ仕事も始まり、平日は忙しくなる。この日の帰り道、わたしはお団子を買った。たった一本で炭水化物30gも40gもある悪魔の食べ物。あまりにもささやかすぎて、泣きたくなるような悪魔との契約。


お盆休み、半年ぶりにおばあちゃんちに行くのをわたしは怖がっていた。またこんなことを、あんなことを言われるだろうと身構えていても、彼女はいつも違う方向からわたしに理解のない言葉を、突拍子もない誤解や過度な心配、わたしの身体への干渉を投げてきた。だから彼女が突然最近パンが好きなんでしょう?と聞いてきて、わたしはまた脂っこいパンは食べるなと忠告されるのだろうと警戒した。たしかに退院してからわたしは無性にパンが好きになっていた。

普段どんなパンを食べてるの?いろんなパンが好きだけど、扱いやすいし奥が深いから食パンが多いよ、とわたしは答えた。食パンなら脂っこいとは思わないだろう。もしかしたらバターは塗るなとか言われるかもしれないけど。でも実際におばあちゃんから返ってきたのは、四角い食パンと頭の丸い食パンならどっちが好き?という質問だった。わたしは角食か山食なら、もっちりとしたきめ細かな角食が好きだ。おばあちゃんは丸いほうがいいねえ、四角いのよりふんわりしているから。たしかにおばあちゃんの言うこともわかる。型に蓋をせずに焼く山食は角食と違って自由に窯伸びし、中にたくさんの空気を含む。わたしはおばあちゃんに角食と山食の違いを教え、今はいろんなタイプの食パンが出回っているよと話した。

するとおばあちゃんは、もう何十年も前に銀座三越で買った山食パンについて教えてくれた。それがとてもふわふわで、今でもおじいちゃんとあの食パンは美味しかったと思い返すことも。わたしはおばあちゃんと食べものについて肯定的な話ができるとは思っていなかった。何が健康にいいか、血糖値を上げないかではなく、どんな味なのか、食感なのかを話す日がまたくるとは思っていなかった。わたしが1型について学び、格闘していた半年の間、おばあちゃんもまた1型を理解しようと格闘していたことをわたしは想像しなかったのだ。そういえば今日彼女はまだこんなことの話をしてきていなかった。


わたしは銀座三越のパン屋の名前を訊ねた。覚えていないと返ってくるのはわかっていた。それでも調べればパン屋は特定できるかもしれない。もしかするとそのパン屋はまだ存在するかもしれない。でもわたしはわざわざそのパン屋を追って、おばあちゃんに山食を買っていってあげる必要はないと思った。それはわたしが怠惰だからだろうか。そうかもしれないけれど、それだけじゃない。わたしは角食派だけれど、美味しい山食も探そうと決めた。それをおばあちゃんに食べてもらって、彼女の美味しい山食の記憶を更新したい。わたしが今どんなものを食べ、何を美味しいと感じるか知ってもらいたい。

Day 1: Missed a shot

A day in the life of a type 1 diabetic

朝起きて最初にすることは、実は血糖測定じゃない。わたしの場合は。

ベッドから出たらまずトイレに行き、手を洗って、うがいをする。血糖測定器を、病院から貸し出されたかわいげのない黒のポーチから取り出すのはそれからだ。ぱちっと指を刺し、ぷくりと玉の血を出す。赤いビーズのような球体がむだなく、まあるく浮き出たときは、我ながらまじまじ見入ってしまう。5秒のカウントダウン。入院している当時はこの5秒が世界で一番長い5秒だった。ぴぴっと電子音が鳴り、画面に表示された数値は180*1を超えた。高い。朝からこれくらいの数値が出てしまうことはある。でもそれはたいてい前夜に脂っこいもの、明らかにカロリーオーバーな料理をたらふく(発症以来、本当のたらふくなんて知らないけれど)食べたからだ。普段通りの食事をしていれば、平日朝は眠前の数値からマイナス20〜30が妥当で、昨夜の眠前血糖は150ほどだった。それなのに今朝は180。はてどうしたことだろうと前日新しくしたばかりのペットボトルの針入れを眺め、なんだか針の本数が少ないなと首をかしげて、わたしは昨夜トレシーバを打った記憶がまったくないことに思い至った。

基礎を打ち忘れたのに180とは、むしろ悪くない数値だ。前にも一度だけ打ち忘れたことがあったが、そのときは270を超えた。当時はまだランタスを使っていただろうか。ランタスは人によっては効果が24時間もたないと先生は言った。たしかにランタスを使っていた頃は眠前の数値がえらく高く、そのくせ朝は毎日低血糖を起こしていた。だからトレシーバに替えた。トレシーバの効き目は40時間を超えるという。もちろん次第に尻すぼみにはなるが、一日経っても効き目が残っているから今朝の血糖も200を超えずにすんでいるのだろう。それならばとりあえず様子を見ようとわたしは思い、トレシーバは打たずに、ノボラピットを少し多めにして朝食をとった。

持効型を打ち忘れたときにまず問題になるのは、どうやって崩れてしまった注射の周期を修正するかということだ。ふつう持効型は打つ時間が人によって決まっている。だいたい夜打ちか、朝打ちか、朝夜2回の分割打ちだろう。わたしは夜打ち派で、入院中からそのリズムに慣れ親しんでいた。朝、打ち忘れに気づいたらその時点ですぐトレシーバを打ち、その日から朝打ちに変えてしまうこともできる。けれどもわたしは今さらリズムを変えたくなかった。だから翌日も効き目が残るトレシーバの特徴を利用して、数日かけて注射の時間を後ろ倒しにしていき、周期をもとに戻すことにした。たとえば今日は昼間打ち、明日は夕方打ち、あさってには夜打ちに戻すというようなやり方だ。そうやって少しずつ打つ時間を遅らせていってもトレシーバなら血糖値にさほど影響は出ないはずだ。


いつも乗っている通勤電車は一日で最も混んでいて毎朝毎朝気が滅入るから、最近は一本早い電車に乗り、会社の近くのカフェでコーヒーを一杯飲むのを秘かな楽しみにしている。ミルクも砂糖も入れない。甘いものを飲むのは特別なときだけだ。お腹にたまらない液体のためにノボラピットを消費したくはない。せっかくだから血糖を図ろう。鞄から黒のポーチを取り出し、いつも通り5秒待つと、わたしの読みはちゃんと当たっていた。トレシーバの効果がまだ残っていて、朝打ったノボラピットがしっかり血糖も抑えてくれたから、数値は139まで落ち着いていたのだ。

素晴らしい、もう少し様子を見よう。わたしは気を持ち直して、モーニングを食べ、忙しい朝をコーヒーとトーストの香りで満たす人たちを羨ましく眺めた。会社近くのカフェでモーニングを食べるためには、少なくとも朝起きてから1時間半は何も食べない状態でいなければいけない。ふつうなら空腹を我慢し、電車内でお腹が鳴らないよう気をつける程度のことだろう。しかし1型の人間が朝から何も食べずに1時間も電車で立ちっぱなしでいたら間違いなく低血糖になる。満員電車内での低血糖など想像するだけで恐ろしい。もちろんこまめにビスケットなどを食べ、低血糖予防をしながらカフェまで行くこともできる。でもせっかくのモーニングの前に中途半端に食べ物を入れてお腹を膨らせたくない。いつかはどこかで美味しいモーニングを食べたいけれど、まだしばらくその夢は叶いそうにない。


昼前に測るとさすがにトレシーバも虫の息なのか、270を超える数値が出た。ここでようやくわたしはトレシーバのダイヤルを12単位回し、脇腹に刺した。いつもなら270もあればノボラピットは+2単位で打つところだけど、今日はトレシーバがどれくらい血糖を落とすのか読めなかったから、ノボラピットはいつも通りの単位計算で打った。でも、それでは不十分だったみたい。夜、9時近くに帰宅して測ると、まだ血糖は190台だった。


いつからか、わたしは一日に数回目にする2桁か3桁の数字に一喜一憂するのをやめた。(そもそも20近くも誤差があるものを信用なんてできるか?)そのかわり数字の積み重ねのなかに物語を読みとることを覚えた。そして数字を乗りこなし、物語を書き進めていくことも。良い時があれば、悪い時もある。悪い時が続いても、ふと良い時が訪れる。今日だけを切り取ったら、最悪の一日だ。平均血糖はおおよそ200。合併症を手招きして呼んでいるのかと先生に怒られるだろうか?でもわたしは今日のデータを分析し、明日はもっとうまくやれる自分を知っている。あさってには食前血糖が100以下に落ち着くことを知っている。しあさって、またすぐ200を超える血糖値を出してしまうことは、あまり想像していないけれど。一度の打ち忘れは流転する毎日の一コマでしかないことをわたしはよく知っているから、またそこからエンジンをかけ直し、物語を前に進める。仕切り直しに、夜もう一杯コーヒーを飲み、読んでいる本に集中し始めた。この書き手が人種や性や階級の問題を丹念に織り込みながら物語を編んでいくのと同じように、1型であることの意味を、その社会的な位置付けを、複雑で苛立たしい症状やたくさんの無理解や未来への不安や変わってしまった身体へのどうしようもない怒りを複層的に見据えながら、たしかにここに息づいている、本物だと思えるおはなしを語ることができたら、と想像してわたしは震える手でページをめくる。

*1:健常な人の場合、血糖は常に100前後で保たれている。1型糖尿病患者の血糖値はある意味天井知らずで、発症時に1000を超える人も少なくない。

「私(I)」の声を聴け/Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'と'The Applicant'に見る劇的独白の効果

文学

久しぶりに図書館でいろいろ漁っていたら、こちらを見つけた。

この前アナ雪とゴブリン比較で参考にさせていただいた、反逆する花嫁の物語としてのゴブリン論を書かれた齋藤美和さん編著のイギリス詩ガイド。シェイクスピアジョン・ダンなどの詩を若い読者向けに紹介するライトめな読み物になっていて、ゴブリンも取り上げられている(ここではわたしが紹介した論文とはまったく異なり、アイロニカルで恐ろしい取り替え子の物語詩として読解されている)。

その中でわたしも以前こちらで紹介したキャロル・アン・ダフィの「メデューサ」'Medusa'という詩について書かれた章がある。この詩自体、力のある見事な作品なのだけど、今回はこの詩をきっかけに別の、わたしが大好きなシルヴィア・プラス*1の詩の話をしたい。


メデューサ」は劇的独白(dramatic monologue)で書かれている。劇的独白とはあるキャラクターが(特定の)聞き手に対して語りかける詩の形式で、一人のみが話すので会話(dialogue)はないんだけれど、語り手が聞き手を意識して語っているので、劇的な効果がある。まあこうやって書くと意味がわからないと思うんだけど、たとえば尋問する刑事とされる容疑者の会話を描くのではなく、容疑者側の語りのみを切り取ったら、それが劇的独白だ。「メデューサ」は、夫に裏切られた妻が、蛇の髪を持ち、見るものを石に変える女メデューサよろしく、夫を石にして復讐しようとしていることを夫に語る詩。

My bride’s breath soured, stank
in the grey bags of my lungs.
I’m foul mouthed now, foul tongued,
yellow fanged.
There are bullet tears in my eyes.
Are you terrified?

Be terrified.
It’s you I love,
perfect man, Greek God, my own;
but I know you’ll go, betray me, stray
from home.
So better be for me if you were stone.

わたしの花嫁の息は鼠色の両肺で
酸っぱい、悪臭を放った。
口は汚らわしく、舌も汚く
黄ばんだ牙がある。
目には弾丸の涙。
あなた怖がっている?

おそれるがいい。
わたしが愛するのはあなた
完璧な男、ギリシアの神、わたしの神
でもわたしは知っている、あなたが出て行くと、わたしを裏切り、
家を出ると。
だからあなたが石になってくれたほうがいい。

Carol Ann Duffy, 'Medusa'

最初の数行を読んだ時点でなんとなく感じたことがあったんだけど、それが"Are you terrified?--Be terrified."のところで確信に変わった。この詩はシルヴィア・プラス「レディ・ラザラス」'Lady Lazarus'の素晴らしいオマージュではないか。

Peel off the napkin
O my enemy.
Do I terrify?--

ナプキンを剥いでごらん
わたしの敵よ。
わたしが怖い?--

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

メデューサ」の"Are you terrified?"は間違いなく「レディ・ラザラス」の"Do I terrify?--"に呼応している。よく見ると、二つの詩は構造的にも似ている。プラスといえば、夫テッド・ヒューズの不倫によって結婚生活が破綻し、ヒューズへの憎悪を叩きつけた詩を離婚後にいくつも書いているんだけれど、「レディ・ラザラス」も例に漏れず、詩の最後で主人公レディ・ラザラスは「灰の中から赤毛を立てて浮上し、空気のように男を食らう("Out of the ash / I rise with my red hair / I eat men like air")」。他の女("your girls, your girls")のもとへ走る夫を石に変えてやろうと企むメデューサ妻の物語に、まあ相通じているじゃないか。

レディ・ラザラスは聖書に登場する、蘇る男=ラザロの女版で、死と再生を繰り返すことを特技としている。このキャラクターには20才で自殺を試み、死の淵から生還したプラス自身の経験が反映されていて、「レディ・ラザラス」はよく告白詩(confessional poetry、とことんまで「私(I)」を抉る詩のジャンル)の代表作に挙げられる。

I have done it again.
One year in every ten
I manage it--

またやった。
十年に一年
わたしはやり遂げる--

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

レディ・ラザラスは10年おきにいったん死んで蘇るのを繰り返していて、その死からの再生劇はまるで一大ストリップショー("big strip tease")のように見世物にされ、人気を博している。

The peanut-crunching crowd
Shoves in to see

Them unwrap me hand and foot--
The big strip tease.
Gentlemen, ladies,

These are my hands
My knees.
I may be skin and bone

Nevertheless, I am the same, identical woman.

ピーナツをくちゃくちゃ噛む観衆が
押し寄せて見る

やつらがわたしの手や足を剥いでいくのを--
一大ストリップショー。
紳士、淑女の皆さん。

これがわたしの手
わたしの膝。
わたしは骨と皮になるでしょう

でも、わたしは同じ、まったく同じ女。

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

どんどんと腕や足を剥かれていく身体解体ショーの描写は痛々しく衝撃的だけれど、レディ・ラザラスは驚くことに骨と皮だけになっても見事に復活できるという。

It's the theatrical

Comeback in broad day
To the same place, the same face, the
same brute
Amused shout:

'A miracle!'
That knocks me out.

劇的な

真昼間のカムバック
同じ場所、同じ顔、同じろくでなしのもとに
やつらは驚嘆して叫ぶ:

「奇跡だ!」
これにはくらっときちゃう。

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

ここまでいくつか引用してきて、読んでくださっている方はお気づきになっていると思うのだけれど、この詩もまた劇的独白で書かれている。わたしはこの詩が大好きで、もう何度も読んでいるのに、今回「メデューサ」と比較するまでこれが劇的独白であることに気づかなかった。バカですねえ。それはさておき、ここでの語り手は当然死と再生の名手レディ・ラザラスで、聞き手は彼女の敵("my enemy")。敵は彼女を解体するやつら*2であり、またそれを眺める観衆(わたしたち読者含む)でもある。プラスはレディ・ラザラスというペルソナに劇的な独白をさせることで、どんな意味や効果を持たせようとしたのだろう?

プラスの劇的独白というと、「応募者」'The Applicant'という詩が印象深い(そう、わたしは過去に彼女の劇的独白について考えたことがあるのに、「レディ・ラザラス」が劇的独白だと気づいてなかった!おばか!)。この詩の語り手はある面接官で、面接を受けにきた応募者を聞き手に話し始める。ここで応募者が志願するのは夫になることで、面接官は応募者を品定めしながら妻をあてがおうとするのだが、この描写の恐ろしさったらない。

Come here, sweetie, out of the closet.
Well, what do you think of that?
Naked as paper to start

But in twenty-five years she'll be silver,
In fifty, gold.
A living doll, everywhere you look.
It can sew, it can cook,
It can talk, talk, talk.

It works, there is nothing wrong with it.
You have a hole, it's a poultice.
You have an eye, it's an image.
My boy, it's your last resort.
Will you marry it, marry it, marry it.

出ておいで、お嬢ちゃん、クローゼットから。
さあ、どう思うかね?
最初は紙のようにまっさらだが

25年もすれば彼女は銀になる
50年後は金さ。
どこを見ても、りっぱな生き人形だよ。
これは裁縫も、料理も
おしゃべりもできる。

しっかり働くよ、何も悪いところはない。
君には穴がある、これが湿布になってやる。
君には目がある、これがイメージを与えてやる。
わたしの坊やよ、これが最後だ。
これと結婚するかい、結婚を、結婚を?

Sylvia Plath, 'The Applicant'

語り手は女を生き人形('A living doll')と称して代名詞itで呼び、まるで自分の店のイチオシ商品のように応募者に売り込む。ここでの女はまったく人間性を否定された「モノ」で、紛れもなくこの詩には結婚という制度と妻たちが受ける抑圧への皮肉や批判が込められている(よく知られているようにプラスはフェミニズム詩人の先駆けとも言われる)。しかしここで本当におもしろいのは、主体性や人間性を奪われているのは女だけではないということ。夫となる応募者も望んで妻を得ようとはしているものの、選択権はなく、いささか強引に面接官に妻を売りつけられている。それに彼が売られるのは妻だけじゃない。

Open your hand.
Empty? Empty. Here is a hand

To fill it and willing
To bring teacups and roll away headaches
And do whatever you tell it.

手を開いてごらん。
空っぽ?空っぽだね。さあ手をやろう

空っぽを埋め、喜んで
ティーカップを持ち、頭痛をどこかへやってくれる
それに君が教えたことは何でもするよ。

Sylvia Plath, 'The Applicant'

I notice you are stark naked.
How about this suit -

Black and stiff, but not a bad fit.

君は丸裸じゃないか。
このスーツはどうだい--

黒くて固いが、悪くない。

Sylvia Plath, 'The Applicant'

面接官は応募者を欠損のある人間と見なして、彼に手やスーツを与えようとする。特にスーツは社会における男性らしさ、夫らしさを保証するものといえ、応募者はこのスーツを外から与えられることで初めて男/夫としての役目を果たすことができる。つまり女らしさの神話と同じように、男性らしさというものもまた紛いものなんだとプラスはコミカルに、アイロニカルに表現している。

女が生き人形として商品化されている一方、応募者も面接官によって身体中をいじられ、様々なパーツをくっつけられて、まるで何かの製品のように扱われている。何せ彼が与えられた手は塩から再生産することができる("We make new stock from the salt")。このように代替可能・再製可能なモノ化された人間観・身体観はプラスの詩の大きな特徴で、彼女は常に「自分(の身体)が自分でなくなってしまう」脅威と恐怖を描いてきた。それは女性として生き、抑圧を肌で感じてきた日々の反映であり、また自殺未遂後の精神病院での経験に基づいてもいる。プラスの詩や自伝的小説『ベル・ジャー』The Bell Jarには、彼女の医者嫌い、病院側が彼らの基準で勝手に彼女の問題を規定し、心や身体をいじくりまわすことへの嫌悪感がよく表れている(ベル・ジャーにはロボトミー手術を受けた女の子が出てくるのだけれど、まだそういう時代の医療であることは明記しておきたい)。

この話を続けると長くなるのでここでやめるけど、つまり乱暴にまとめると、プラスは「社会がいかにわたしたちの心身のあり方を規定・限定し、わたしたちからわたしたちらしさを奪いうるか」*3にとても意識的な詩人で、そうした個の抑圧の結果として取り替え可能なパーツの寄せ集めのような自律性のない身体像が彼女の詩世界には現出する。

こういったことを表現する上で、「応募者」では劇的独白がとてもいい働きをしている。すでに書いたように、この詩は面接官の発言のみで構成されている。そのため強引な売り込みを続ける面接官に対して応募者や女のリアクション・レスポンスはまったく言葉として表れてこない。モノのように扱われる応募者と女は詩の形式の上でも声=主体性を奪われていて、劇的独白は面接官の饒舌を際立たせる一方で、声なき者の存在を浮き彫りにする。

ひるがえって「レディ・ラザラス」では、この一人の声だけが強く主張する劇的独白の特徴がまた別の効果を生んでいる。ちなみにレディ・ラザラスは再生の名人だと紹介してきたけれども、彼女の再生劇も本当は再製劇と言ったほうがいいかもしれない。阿部公彦さんは『英詩のわかり方』で、レディ・ラザラスについて「皮膚や足や顔といった部分ばかりが突出し、それらを統一する全体性が欠落し」ているとして、この詩には「自己同一性を得られなくて、身体がばらばらになっていく感覚」が描かれていると分析している。レディ・ラザラスの身体ストリップショーはすでに見てきた通りで、たしかにレディ・ラザラスの身体も応募者同様にバラバラのパーツに分解された統一性・自律性のないものになっている。

A sort of walking miracle, my skin
Bright as a Nazi lampshade,
My right foot

A paperweight,
My face a featureless, fine
Jew linen.

一種の歩く奇跡、わたしの肌は
ナチのランプの笠のように明るく、
わたしの右足は

文鎮、
わたしの顔は特徴のない、良質な
ユダヤのリネン。

Sylvia Plath, 'Lady Lazarus'

レディ・ラザラスをユダヤ人に喩えた箇所についてはものすごくいろんな意見があるのだけれど、ここで確認したいのは、レディ・ラザラスが自分の身体を、ナチスによって亡骸の一部を再利用・製品化されたと言われる強制収容所のユダヤ人に喩えることで、再生産可能なモノとして認識しているということ。彼女の復活は奇跡と称賛されるけれども、詩を読み進めていくと、この再生劇には新しい人間として生まれ変わる肯定的な響きよりも、むしろ解体・再生産を否応なく繰り返させられる"再製"劇としての皮肉なトーンを感じとってしまう。

しかしこのようにバラバラに分解され、どんどん自分を失っていくレディ・ラザラスだけれども、彼女の「声」だけは詩を通して変わらずに聞き続けることができる。それは当然、劇的独白という形式で書かれているから。「応募者」では劇的独白によって応募者や女の個がいかに圧し殺されているかが際立つけれど、「レディ・ラザラス」では逆にレディ・ラザラスに声を持たせることで、自分であることを剥奪され、崩壊していく身体にもたしかにその持ち主であるはずの「私」が存在しているのを感じさせる。

レディ・ラザラスは詩の中で何度も「私は(I)」と声を絞る。この「私」の多さが真の告白詩と称される所以でもある。劇的独白と普通の叙情詩の違いは、それが単なる心情の描写や吐露ではなく、ペルソナが聞き手を意識して語っていることにあるから、レディ・ラザラスははっきりと、わたしたちに向かって「私」を主張している。私、私、私…と声高に叫ばれる肥大した自意識は大袈裟でもうお腹いっぱいと感じる人もいるかもしれない。けれどもこれだけ私を押し出さなければ、自分の心身が自分のものではなくなってしまうような切迫した恐怖をわたしは他人事だとは思えない。わたしたちからわたしたちらしさが奪われるとき、きまってわたしたちは鈍感になる。自分に対しても、他者に対しても。しかしそこには確実に押し潰される「私」があることに、プラスは「レディ・ラザラス」を通して、劇的独白を効果的に用いて、光りを当てている。

最終行「空気のように男を食う("I eat men like air")」の「空気のよう(like air)」が「男(men)」にかかるのか、「食う(eat)」という行為にかかるのかは微妙なところだけど、わたしは「食う」にかかると思う。この結びを読むとわたしの頭に広がるのは、あの"Beware / Beware"という不気味な警告(これはここで紹介した「クーブラ・カーン」の有名な言葉からきている)とともにレディ・ラザラスの声が燻る灰の中からまるで煙のように、超自然的に立ち上り、食いかかってくる、そんなイメージ。ここで彼女の声はもはや肉体を超越して、ただただ自己の塊へとある意味では純化されているようにわたしには思える。そこにある主張はただひとつ。「私(I)」の声を聴け。




文献リスト!わたしの恣意的な引用ではあれなので、ぜひ原詩を
Lady-lazarus Poems
The Applicant by Sylvia Plath | Poetry Foundation
Carol Ann Duffy – Medusa | Genius

広本勝也『シルヴィア・プラス:軽薄と絶望』
皆見昭,渥美育子編『シルヴィア・プラスの世界』南雲堂 1982

*1:1932年、マサチューセッツでドイツ系の父とオーストリア系の母のもとに生まれる。主に執筆を行っていたのは50年代終わりから60年代はじめ。62年、桂冠詩人である夫テッド・ヒューズとの結婚の破綻後、詩才の絶頂期を迎え、素晴らしい作品を多数残した。63年、未曾有の寒さに見舞われた真冬のロンドンでオーブンに頭を突っ込み、ガス中毒死。奇しくもそれはベティ・フリーダンの『女らしさの神話』The Feminine Mistiqueが出版される年だった。

*2:これがナチスに喩えられ、レディ・ラザラスがユダヤ人に喩えられている点には様々な批判があります。個人の苦しみをユダヤ人の民族的な苦痛に安易に重ね、ホロコーストという歴史的事件を矮小化しているというのが主です。この点についてわたしもいろいろ思うところがあるのですが、今回は控えます。皆さんはユダヤ人ではなかったプラスがホロコーストのイメージを使用することでどんな効果が生まれると思いますか?本当にプラスはただ自分の苦しみはユダヤ人がナチスからの弾圧で味わったものと同等だと言ってのけてしまうナルシシズムだけで、こんな比喩を用いているのでしょうか?

*3:さらにプラスは自分がこれに加担しうることについても本当は自覚的だった、とわたしは思っている