My Favourite Encouraging / Inspiring Poems/勇気をくれる詩3選

落ち込んだとき、挫折したとき、自分の存在価値が信じられなくなったとき、読むとよい詩。


Emily Dickinson, 'If I can stop one heart from breaking"


POEM: IF I CAN STOP ONE HEART FROM BREAKING, BY EMILY DICKINSON

祖父はアマースト大学の創始者の一人、父は弁護士というマサチューセッツの名家に生まれながら、18歳のとき信仰告白の拒否をきっかけにマウント・ホリヨーク女学校を退学して以降、生涯の大半を家に引きこもるようにして過ごしたエミリ・ディキンソン。今でこそアメリカの大詩人としての評価を確立しているけれど、生前は約10篇の詩を発表するに留まり、世にほとんど知られることがなかった彼女にこんな詩を書かれたら涙するしかない。

ディキンソンの詩はすべて無題なので、便宜上最初の行がタイトル代わりとされる。"If I can stop one heart from breaking"(「一つの心が壊れるのを止めることができたなら」)--2行目はこう続く。

I shall not live in vain

わたしの人生は無駄にならない

誰かの心を癒し、痛みを和らげられたなら、あるいは気絶したコマドリを巣に帰してあげられたなら、わたしの人生は無駄にならない。誰であれ自分の無力さや自分は何者でもないという事実に打ちのめされ、心折れた経験があると思う。それでも、たった一人でも、誰かを救うことができたなら、あるいはそんな大それたことは言わず、ほんの少しでも痛みや苦しみを取り除き、誰かのために何かを為せたなら、それがわたしの存在意義になる。そんなこの上なくささやかな人生の価値が、たった7行のなかにいくぶん挫折の色を滲ませながらも力強く綴られる。わたしの人生は無意味かもしれない--そんな疑いがなければ、この詩はスタートしない。厳しい現実認識があり、ただ「誰しもが素晴らしい」とか「人を助けることが人生の価値だから皆助け合おう」というような耳に甘い言葉を並べたものではない。だからこの詩を過剰に美化したくはないし、実際ディキンソンの他の詩にはもっと辛辣でシビアなものも多いけれど、優秀で才能豊かな詩人でありながら世に出ず、また生涯未婚だった(当時このことがどういう意味を持ったかは、たとえばこないだ訳したゴブリンを読んでもなんとなくわかるかと思う)彼女が、かといって社会から完全に孤絶せず、どこかの誰かに手を伸ばし、働きかけることの希望を抱いていたことに感動し、勇気づけられる。何もかもダメかも、と思ったときに読んでほしい一篇です。

Samuel Taylor Coleridge, "Kubla Khan"


POEM: KUBLA KHAN BY SAMUEL TAYLOR COLERIDGE

ウィリアム・ワーズワースと並ぶ英ロマン派詩人の代表作の一つで、アヘンの幻覚作用により、クビライ・ハンが造った都ザナドゥの夢を見たコールリッジがその情景を描いた詩。前半部分もおもしろいけれど、何より圧倒されるのは最終連。

A damsel with a dulcimer
In a vision once I saw :
It was an Abyssinian maid,
And on her dulcimer she played,
Singing of Mount Abora.
Could I revive within me
Her symphony and song,
To such a deep delight 'twould win me,
That with music loud and long,
I would build that dome in air,
That sunny dome ! those caves of ice !
And all who heard should see them there,
And all should cry, Beware ! Beware !
His flashing eyes, his floating hair !
Weave a circle round him thrice,
And close your eyes with holy dread,
For he on honey-dew hath fed,
And drunk the milk of Paradise.

かつて見た幻影に現れた
ダルシマーを持った乙女
それはアビシニアの娘だ
彼女はダルシマーを弾き
アボラ山について唄う
その調べと唄を私のうちに
蘇らせることができたなら
私は深い歓びに引き入れられよう
高く、長く響く音楽とともに
私は調べのなかにあの宮殿を打ち建てることができる
あの日を浴びた宮殿を!氷の洞窟を!
聞く者すべての目に浮かぶはずだ
そして彼らはこう叫ぶ 気をつけろ!気をつけろ!
あの閃く瞳、たなびく髪に!
彼の周りに三重の輪を描き
畏怖の念をもって目を閉じろ
なぜなら彼は蜜の滴りを味わい
極楽の乳を飲んだのだから

アビシニアの娘の音楽(≒詩の女神ミューズからのインスピレーション、かな)を再び呼び起こすことができたら、夢に見たザナドゥの荘厳な宮殿をair=旋律=詩のうちに再現できる、とコールリッジは言う。クビライが現実世界の皇帝として都を造営し権力を誇った一方、詩人にはそんな力はないけれど、想像力の世界にならあのクビライの立派な宮殿だって打ち建てることができるんだという詩人の誇りと想像力への信頼がある--ようでいてない、いややっぱりあるような、そんな微妙さがこの詩の肝で、泣けてくるところだと思う。

コールリッジはここで仮定法を使っているから、彼は失われたアビシニアの娘をre-vive(蘇らせる)することはできないと考えていて、詩の力を信じているようで、自分にはその力がないと言っている。この後に続くのは見事な宮殿を描き出した詩人に対する人々の畏怖の言葉なのだけれど、そもそも彼には宮殿を再現することはできないのだから、それは乱暴に言ってしまえばすべて妄想の産物であって、幻から覚めた詩人には無力な現実が残る。ディキンソンの詩と同じように、やっぱりクーブラ・カーンのスタート地点にも挫折や喪失感がある。

けれども読者からすれば、詩の前半でコールリッジはザナドゥの情景を見事に唄いあげているじゃないかと思う。自分にはもうミューズは降りてこないのではないか、楽園を夢見るばかりで現実で何かを成せていないのではないか、そんな不安や焦燥に絡めとられながら、それでも彼がもがき吐き出す言葉にはちゃんと魔法が宿っている。それがこの詩の何よりの希望。想像力への信頼と不信が不思議に同居する詩なので、自分の言葉や創作に自信がなくなったとき、行き詰まったときに読むと刺さります。

Carol Ann Duffy, 'Words, Wide Night"


POEM: WORDS, WIDE NIGHT BY CAROL ANN DUFFY

女性として、またLGBTであることを公言した人物として初めて桂冠詩人になったキャロル・アン・ダフィのこの詩は、wordsとwideで頭韻を、wideとnightで母音韻を踏むシンプルで美しい響きのタイトルからもう完璧。先に紹介した2篇と共通しているのは、この詩も疑いや不信に端を発しながら、それでも--と詩に向き合う姿勢があることで、わたしが共感し勇気を与えられるのは、そういうふうに挫けながらも書くことをやめない、言葉をめぐる格闘なのだと思う。

遠く離れた地の恋人を思う恋愛詩。二人を隔てる距離はどんなに言葉を尽くしても埋まらない。言葉は無力なのかもしれない。「言葉」と「広い夜」を並べたタイトルは覆りようのない絶対的な夜=距離に対して、言葉の心許なさを表している。

[...] In one of the tenses I singing
an impossible song of desire that you cannot hear.

La lala la. See? I close my eyes and imagine the dark hills I would have to cross
to reach you. For I am in love with you
and this is what it is like or what it is like in words.

[...] ある時制のなかでわたしは歌う
あなたには聞こえない、欲望のかなわぬ歌を

ラ ララ ラ。ほらね?わたしは目を閉じて
あなたのもとに辿り着くために超えなきゃいけない暗い山々を
想像する だってわたしはあなたに恋しているし
その恋心はこういうもの、言葉にすれば、こういうものだから

"I singing"と書いたのは誤植ではなく。ふつう英語はamとかwasとかwill beといった語句を伴って特定の時制の中で話されるけれど、それは言葉が時制という一つのルールの内に限定されていることを意味している。ダフィは時制を取っ払ってしまうことで、たぶんその限界を超えようとしている。それでも結局彼女の歌はimpossibleで、恋人の耳には届かず、ラララ...と中空に消えていってしまうのだけれど。

最終行、「わたしのあなたへの恋心は言葉にすればこんなかんじ」と締め括る詩人の心境にはいささか諦念もこもっている。思いをしたためた言葉は当然言葉以上のものにはならず、時制に限らずいろんなものに縛られているからわたしとあなたを分かつ夜を越えられない。でもそんな言葉の不可能性を指摘することも言葉によってしかなされないし、不可能性を超えようとする試み(これは成功しないのが肝)のなかで、少なくとも言葉にならないものに焦点を当て、ともすれば何か別の可能性の切れ目を見つけることができるやもしれない。いずれにせよ書くことから始めるしかないという詩人が詩を書く理由がこの簡潔な恋愛詩には完璧に提示されているから好きだ。他者との埋まらない距離にもどかしさを感じたときは、ぜひこの詩を。



書いているうちに自分が詩に求めているものは何か、なぜ詩を読むかを問答し始めてしまった。わたしが求めるのは、ここで書いたように負けから始まる詩。だって20年くらい生きいると、人生最初から負けてるって思えてきますよね?(そんなことない?)

言葉は想像力の可能性と希望を示してくれるのに、同時に人間の限界と無力を突きつけてもくる。その矛盾に悶えながら、それでも何かを言わずにはいられないからと言葉を吐き出す詩人の格闘をわたしは読みたいし、一度書くことを諦めてしまった人間にはとかく刺さりまくる。簡単な紹介文なのでいささか主観的で見落としてる点も多いだろうけど、英詩への接点の拡大を少しでもできたら嬉しいなと思う。まあ完全に趣味の文章だけど。おわり。

抱き合う女の今と昔/『アナと雪の女王』とChristina Rossetti, _Goblin Market_

先日、超今更ながら『アナと雪の女王』を見ました。(以下とってもネタバレ注意)

アナ雪といえば、「白馬の王子様はいらない」と自ら行動し困難を乗り越える現代のプリンセス像を決定づけた、テン年代ディズニーの代表作であるのは言わずもがな。けれど今から150年前、英国ヴィクトリア朝の女性詩人クリスティナ・ロセッティ(Christina Rossetti)が、アナ雪と同じように固い絆で結ばれた二人の姉妹を主人公に、おとぎ話のフォーマットを借りながら、従来それが描いてきた「少女かくあるべき」の規範に意を唱えた、「女が女を救う」物語詩を書いていたことは、日本ではそれほど知られていないと思う。そこで今回はロセッティの『ゴブリン・マーケット』(Goblin Market)のことをちょこっと書いてみたい。

クリスティナ・ロセッティ『ゴブリン・マーケット』和訳 - Who's Gonna Save a Little LOVE for Me?

へたくそな訳だけど、この詩を読んだことがない人はよかったら上の記事を一読してほしい。

主人公はリジーとローラの姉妹。とっても簡単にいうと、小鬼が売る禁断の果物を食べて衰弱していくローラを救うために、リジーが小鬼に立ち向かう話。形式上は誘惑に負けた愚かなローラと彼女のために自己犠牲を払う勇敢で賢明なリジーとの対比が効いた教訓話になっているけれど、実際はそう単純な詩ではない。

Frozen Meets Goblin Market | British Literature 1700-1900, A Course Blog

こちらの記事は、アナ雪とゴブリンの類似点をまとめながら、アナ雪ではアナとエルサが担うローラ/リジーの役割が途中でスイッチしている(最初はアナ=ローラ/エルサ=リジー、途中からアナ=リジー/エルサ=ローラ)と書いている。しかし、わたし個人としては役割が入れ替わったというよりも、アナとエルサはどちらもリジー的性質、ローラ的性質を持ちあわせていると思う。氷の能力ゆえに社会から呪われた者と見なされたエルサと、エルサの一撃を受け、衰弱していくアナはどちらも窮地に瀕したローラのようだし*1、姉として「いい子」を演じ続けたエルサ、自分を犠牲にして姉を救ったアナの双方に、優等生で英雄であるリジー的な一面がある。クライマックスで、アナは自分を犠牲にしてエルサを救うけれど、同時に自分自身をも救っていて*2、ここでは「救うもの/救われるもの」の安易で二元的な構図(これは従来「男/女」の関係を示すものであることが多かった)はない。女性は男性に救われるだけの存在ではないし、もっと言えば救いを待つのではなく、自ら行動して危機を打ち破ることができるんだ、ということをアナ雪は描いている。

そしておもしろいことに、賢明なリジーが堕落したローラを救済するという一見わかりやすい二項対立があるゴブリンでも、実は救うもの/救われるものは不可分だということを見落としちゃいけない。ともにLで始まる名と、黄金の髪に白い肌をもったリジーとローラは、"Like two pigeons in one nest"とか"Like two blossoms on one stem"と喩えられているとおり、一心同体、二人で一つの存在で、それぞれ一人の少女の表と裏を表象している。慎み深く小鬼の誘惑を無視するリジーが理性=表で、小鬼に関心を持ち誘いにのるローラが好奇心、欲望=裏だ*3。ゴブリンは、このように分裂した心を抱える少女が小鬼との対峙を通して、自己の再統合を図る成長譚として読むことができる。またここで大切なのは、リジー=理性がローラ=好奇心・欲求を押し殺すことによってではなく、むしろローラと向き合い受け入れることによって、彼女を救い、姉妹の絆を再度深めているということ。

“Oh,” cried Lizzie, “Laura, Laura,
You should not peep at goblin men.”
[…]
Curious Laura chose to linger
Wondering at each merchant man.

「ああ」リジーは嘆いた、「ローラ、ローラ」
「ゴブリンたちを覗き見てはいけない」
[…]
好奇心旺盛なローラは立ち去らなかった
商人たちについて不思議そうに考えながら。

And for the first time in her life
Began to listen and look.

Laugh’d every goblin
When they spied her peeping:

生まれて初めて
[リジーは]耳を澄ませ、目を凝らしはじめた。

彼女が覗き見ているのを見つけて
ゴブリンは皆笑った

一つ目の引用はローラがリジーの制止を聞かず、小鬼に惹きつけられていく詩の冒頭部で、二つ目の引用はリジーがローラを救うために小鬼を探す場面なのだけれど、どちらにおいても"peep"(覗き見る)という動詞が使われている。覗き見る行為は、禁じられた果物に対する関心や興味の表れで、ローラの罪の発端とも言える*4。しかしリジーがローラを救うとき、彼女もまた小鬼を覗き見、今まで目も耳も背けて小鬼から逃げていたのとは対照的に、生まれて初めて自分の感覚を通して主体的に世界と対峙する。つまりローラの救済というのは、リジーがこれまでの従順で慎ましい態度を変え、もう一人の自分=ローラが持つ好奇心や行動力を呼び起こすこと、罪と見なされた自分の内なる逸脱を受け入れることから始まっている。こうして考えると、ゴブリンもやっぱりアナ雪同様、誰かに救われるのではなく、自分で自分を救う女性の物語であるし、もちろんローラを救い出してくれる王子様は出てこない。


と、ここまで書いてきたように、両作には相通じるものがあるけれど、当然アナ雪ではゴブリンが描いたテーマを引き継ぎつつアップデートしている箇所があるので、簡単に2点挙げる。

一つは、ゴブリンではリジーとローラは一人の少女の分裂した自己を表象しているのに対して、アナ雪ではアナとエルサは強い絆で結ばれているものの基本的には他者として描かれている点。ゴブリンが書かれたヴィクトリア朝期が、規範にうるさく、特に女性にとっては常に謙虚で従順な存在であることを求めた抑圧的な時代だったことはよく知られている。そうした時代にあって、普段は自己を押し殺しながらも内なる情熱や欲望に気づかずにいられなかったロセッティ(彼女は自己滅却的な敬虔なクリスチャンであり、同時に才能豊かな詩人でもあった)自身がゴブリンの姉妹像には投影されているし、自分の中の異質さに向き合い、新しい自分を切り拓くという弁証法的な物語構造は非常に19世紀的だなと思う。一方、アナ雪でも最後に抑圧されていたエルサの力が解放されるけれど、アナとエルサは別の人間として描かれているので、こちらは自分の内なる異質さではなく自分とは違う他者の異質さを受け入れるという形になっていて、"多様性"が一大テーマになっている現代アメリカ映画らしい。

二点目は、ゴブリンでは小鬼以外の男性が徹底的に排除されているのに対して、アナ雪は「王子様はいらない」けれど「男はいらない」とは言っていないこと。ご存知のように、アナ雪ではエルサのセクシュアリティが明言されない一方、アナには男性との結婚が用意されている。ところが、ゴブリンでは物語の最後でリジーもローラも妻・母になっているのに男性の影が奇妙なほど見られない(二人の子どももどうやらみんな女の子らしい)。

ロセッティは二人の男性と婚約しながらどちらとも宗教的な理由などから結婚に至らず、最後まで家庭を持つことはなかった。またゴブリンは修道女になった彼女の姉に捧げられている。生涯妻になることがなかった女性がどのような思いでこんな物語を書いたのか、時代が19世紀ヴィクトリア朝であることを踏まえて考えてほしい。男性に頼らず才能ある作家として生きる情熱、自負、一方で女性としての役割や期待に応えられない葛藤、子を持つことへの特別な感情--これらが絡みあい、ゴブリンの物語は複雑で倒錯的な形で表れる。その一つの例が不気味なほどの男性の不在じゃなかろうか。男性に助けてもらう必要はないと言いつつ妻になり母になることへの思いを捨てられず、ロセッティは夫不在の妻と父不在の娘による不思議なユートピアを作り出した。

クライマックスのリジーとローラの交わりも倒錯的で、一筋縄ではいかない。リジーの身体中になじりつけられた果物をローラが舐めとっていく描写はとても官能的で、二人は象徴的なレズビアンカップルとも言えるのだけれど、彼女たちの性的接触には小鬼の果物=男性のものが媒介として必要になる。描写自体ははじめにローラが果物を食べる場面に対応していて、リジーとローラの女性同士の行為は小鬼=男性との行為の代替ともとれる。*5同性の性的接触が描かれている点には社会規範への挑戦が窺えるけれど、小鬼という媒介がなければ成立しないことを考えると、女性の性的主体性というのは存在しないようにも感じられるし、これについては様々な意見があって然るべきだと思う。*6



アナとエルサのシスターフッドに重きを置きながらも、姉はシングルでいつづけ、妹は王子ではない男性と結婚するというアナ雪の結びには「愛の形は様々でいい」というやさしさと自由が感じられる。王子様不要は男性不要とイコールじゃないし、男性を愛することは当然フェミニストの罪じゃない。女性だけの世界を作り、男性を排除してしまったゴブリンの頑なさと旧さを乗り越え、アナ雪はもう一歩、二歩先へ進んでいる。時代はここまできた。ロセッティの格闘は今も日々更新され、実を結んでいっていると彼女に伝えられたらいいのに、と思う。

*1:アナもローラも弱っていく中で髪が白くなる点は見逃せない。おとぎ話において少女が白髪になるということは、女性が若さ(処女性や元気な子どもを生む健やかさなども含まれる)を失うことを意味する。エルサの魔力とは女を老いさせる力ともいえるわけで、それが社会で呪われた力と見なされるのであれば、その社会が女性にとって最大の価値は若さだとしていることの証明と言える。

*2:エルサのためなら自分を投げ打ってもいいという、アナの真の愛の行為が彼女の魔法を解く。

*3:このあたりについては齋藤美和さんの「花嫁の反逆:反-童話としてのGoblin Market」(http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2024/1/AN00035771_V28_PP1-18.pdf)が参考になる。ゴブリンでは好奇心は不服従や怠惰といったローラの罪の根源となっている。

*4:こちらについても齋藤さんの論を参照されたい。

*5:もちろん行為が持つ意味はそれぞれでまったく異なる。小鬼との交わりがローラの破滅を招くのに対して、リジーとの交わりは再生を促している。

*6:そもそも果物を買うために身体の一部を売ったローラ(髪を切る行為は処女喪失を意味する)も、小鬼から苛烈な暴力を受けたリジーも、性的搾取や性暴力の被害者であり、リジーは小鬼に勝利したことになっているものの打ち負かしたわけではなく、むしろ大きな傷を負わされている。ふつう消極性の表れとされる押し黙るという行為を抵抗に転化したのは見事だけれど、ひたすら受難を耐え忍ぶことでしか女性が勝利する道はないのだとすると、その認識はかなり辛いものである。

クリスティナ・ロセッティ『ゴブリン・マーケット』和訳


朝も夕も
乙女たちはゴブリンが呼び売りするのを聞いた
「我々の果樹園の果物はいらんかね
いらんかね、いらんかね
リンゴにカリン
レモンにオレンジ
ふっくらとした、鳥についばまれていないサクランボ
メロンにラズベリー
頬を輝かせたモモ
頭の黒いクワの実
野になる自由なクランベリー
野リンゴに木イチゴ
パイナップルにブラックベリー
アプリコットにイチゴ
みんな一斉に熟す
夏の陽気のもとで--
朝は去りゆき
美しい夜は過ぎゆく
さあいらっしゃい、いらっしゃい
蔓からとった新鮮なブドウ
ふっくらとすこやかなザクロ
ナツメヤシに酸味のあるプラム
みごとなナシにスモモ
ダムソンにコケモモ
味わって、試してごらん
カレンツにグズベリー
明るい炎のようなメギ
口を満たすイチジク
南からのシトロンは
舌に甘く、目にここちよい
さあいらっしゃい、いらっしゃい」

夜ごと
小川沿いのイグサのなかで
ローラは頭を傾けて聞き
リジーは赤らんだ頬を覆った
身を寄せてちぢこまる
ひんやりとした空気の中
互いに腕を抱き、口元は不安げで
頬と指先はひりひりとかじかむ
「近くにいて」ローラは云った
その黄金の頭をあげて
「小鬼の男を見てはいけない
彼らの果物を買ってはだめ
その飢えて渇いた根を
どんな土壌に下ろしているかわかったものじゃないでしょ?」
「さあいらんかね」小鬼は呼びかける
谷間をのそのそと歩きながら
「ああ!」リジーは叫んだ「ローラ、ローラ
小鬼を覗き見てはいけない」
リジーは目を覆った
目に映らぬように固く覆った
ローラはその輝く頭をもたげ
落ち着きのない小川のように囁いた
「ほら、リジー、見てよ、リジー
小さな男たちが谷間をのしのし降ってくる
籠を引きずってるものもいるし
皿を持ったものも
何ポンドもある重たい
黄金の皿を引っぱるものもいる
とっても甘いブドウがなる蔓は
どれほど美しく育つんでしょう
あの果樹の間をぬける風は
どれほどあたたかなんでしょうね」
「だめ」リジーは云った「だめ、だめ、だめ
彼らの誘いに惹きつけられちゃ
あの悪魔の贈り物には害があるんだから」
彼女はくぼんだ指を
耳に押しあて、目を閉じ走った
好奇心あるローラは留まった
一人ひとりの商人を不思議そうに眺めながら
あるものは猫の顔を持ち
あるものは尻尾を振る
あるものは鼠の速さでとぼとぼ歩き
あるものは蛇のように這う
ウォンバットに似たものは愚鈍で毛に覆われ、あたりをうろつき
ラーテルのようなものは大慌てで転げまわる
鳩が一斉にクークー鳴くような
声が聞こえた
やさしく愛に満ちた響きだった
心地よい陽気のもと

ローラは仄光る首を伸ばした
まるでイグサに囲われた白鳥のように
小川の百合のように
月灯りを浴びたポプラの枝のように
最後の縛りが解かれ
進水する船のように

苔むした谷間の裏手に
小鬼たちは向きを変え、群をなして進んだ
甲高く繰り返される呼び込みとともに
「いらっしゃい、いらっしゃい」
彼らがローラのいるところに辿り着いたとき
彼らは苔の上に立ち尽くし
にやにやとお互いを見あった
兄弟から奇妙な兄弟に
お互いに合図を出しあう
兄弟から狡い兄弟に
あるものは籠を下ろし
あるものは皿を掲げた
あるものは王冠を結い始めた
巻きひげと葉っぱとざらざらした茶色の木の実で
(町ではそんなものは売られていない)
あるものは黄金の重さの
皿と果物を持ち上げ、ローラに差し出した
「さあどうぞ、さあどうぞ」彼らはまだ叫んでいた
ローラはじっと見つめたが動かなかった
欲しくてもお金がなかったのだ
尻尾を振った商人は彼女に味わうよう勧めた
蜜のようになめらかな声音で
猫の顔はごろごろ喉を鳴らし
鼠のようなのろのろ歩きは
歓迎の言葉を発し、蛇のように這うものからも声が聞こえた
オウムの声をした陽気なものは
「かわいいオウムちゃん」のかわりに「かわいい小鬼ちゃん」と叫び
あるものは鳥のようにさえずった

甘いもの好きのローラはあわてて話した
「みなさん、わたしお金がないの
獲ったら盗みになるでしょう
お財布に銅銭がないし
銀銭もない
わたしが持っている金といえば
錆色のヘザーのうえで
風の強い日に揺れるハリエニシダの上にあるだけ」
「君の頭の上にたくさん黄金があるじゃないか」
彼らは一斉に答えた
「黄金の巻き毛で買いなさい」
彼女は大切な黄金の巻き毛を切り取り
真珠よりもかけかげのない涙を零した
そして美しく赤い彼らの果実に吸いついた
岩から滲み出た蜜より甘く
人を陽気にさせるワインよりも強く
水よりも清らかにその果汁は流れた
彼女はこれまでこんなものを味わったことがなかった
どれほど食べたら飽き飽きするのだろうか?
彼女はもっと吸って、吸って、吸った
未知の果樹園になる果物を
唇が痛むまで吸った
そして空になった皮を投げ捨て
種子を拾い上げた
一人で家路に就いたとき
彼女には昼か夜かもわからなかった


リジーはローラと門で落ち合い
たっぷりと思慮深く叱りつけた
「あなた、こんなに遅くまでいてはだめでしょう
黄昏は乙女にふさわしくない
谷間をぶらついてはだめ
小鬼たちの溜まり場だもの
ジーニーを覚えていないの?
彼女が月灯りのなか小鬼に出会い
その上等な贈り物をたくさん手にして
彼らの果物を食べ、彼らの花を身につけていたのを
花は何時も夏真っ盛りの
木陰で摘みとられたもの
でも昼の光のなかで
彼女はみるみる衰えていった
夜も昼も彼らを探したけれど
二度と見つけられず、衰弱し
年老いていった
初雪とともに倒れ
今日この日まで彼女の横たえたところには
まったく草が生えないの
だからぶらついてはだめ」
「もう、黙ってよ」ローラは云った
「もう黙ってよ、あなた
わたし好きなだけ食べた
でもまだよだれが出る
明日の夜はわたし
もっと買うから」とリジーにキスをした
「悲しみとはおさらば
明日はあなたにプラムを持ってきてあげる
枝つきで新鮮なの
サクランボも食べる価値がある
あなたわたしが味わったイチジクが
どんなものか思いもよらないでしょう
どんな氷のように冷たいメロンが
わたしじゃ持ち上げられないほど大きな
黄金のお皿に積まれていたか
どんなベルベットのけばをつけたモモだったか
澄みきった種一つないブドウだったか
あれが育った草地はいい香りに違いない
清らかな波を飲み込み
川辺には百合が生え
樹液は砂糖のように甘いに違いないわ」


黄金の頭を並べ
一つの巣のなかで羽をたたむ
二羽の鳩のように
二人はカーテンで覆われたベッドに横になっていた
一つの茎になる二つの花のように
二片の新雪のように
おそろしい王のための、金で先端を飾った
二本の象牙の杖のように
月と星は彼女たちを覗き込み
風は子守唄を歌った
のそのそとした梟は飛ぶのを慎み
蝙蝠は二人の寝床のまわりでは
バタバタと羽ばたきはしなかった
頬と頬、胸と胸を寄せ合い
一つの巣のなかで互いに身を固めた

朝早く
最初の雄鶏が朝を告げると
ミツバチのようにきちんと、かわいらしく忙しなく
ローラはリジーとともに起き上がった
蜂蜜をとり、牛の乳を搾り
家の空気を入れ換えて整えた
真っ白な小麦でケーキをこねる
かわいらしい口で食べるケーキを
それからバターをつくり、クリームを泡立てた
鳥たちに餌をやり、座って縫い物をする
控えめな乙女らしくおしゃべりをして
リジーは晴れやかな心で
ローラはぼんやりと夢のなか
一人は満ち足り、一人はいくぶん病んでいた
一人はただ明るい昼の楽しさにさえずり
一人は夜を待ち焦がれた

やがてゆっくりと夜が訪れ
二人は葦茂る小川に水差しを持っていった
リジーの様子はとても落ち着いていて
ローラはまるで跳ね上がる炎のよう
二人はごぼごぼと流れる水を深くから掬い上げ
リジーは紫と豊かな黄金色のアイリスを摘んだ
それから家路に向かって云った「夕暮れが
あの遠くの高い崖を赤く染めてる
行きましょう、ローラ、もう他の娘はいない
わがままなリスだって尻尾を振っていないし
動物も鳥もぐっすり寝ている」
しかしローラはまだイグサのなかでぐずぐずし
土手が急だからと云った

それからまだ時間が早い
露は落ちていないし、風も冷たくないと云った
ずっと耳をそばだてているけれど、聞こえない
あのいつもの売り込みが
「いらんかね、いらんかね」と
甘く誘う言葉を
繰り返す唄が
かつてはたったひとりの小鬼が
走ったり、尻尾を振ったり、転げ回ったり、のそのそ歩いたりするのさえ
気がついたのに
まして組になって谷間を歩き回る
きびきびとした果物売りの商人の群なら
気づかないはずもないのに

リジーが言葉を発した「ああローラ、行きましょう
果物売りの声が聞こえる、でも見ちゃいけない
この小川にこれ以上留まっちゃだめ
わたしと家に帰ろう
星が昇り、月が弧を描き
ツチボタルが閃光をきらめかせている
夜が闇を深める前に家に帰りましょう
雲が集まって
今は夏の陽気だけれど、
光を消し、わたしたちをずぶ濡れにするかもしれない
それに道に迷ったらどうするの?」

ローラは石のように冷たくなった
姉(妹)にだけあの売り込みが聞こえていると知って
あの小鬼の売り込み
「我々の果物はいらんかね、いらんかね」
彼女はもうあの美味しい果物を買えないのだろうか?
あの樹液たっぷりの草地を見つけられないのだろうか、
盲目になり、耳が聞こえなくなって?
彼女の命の木は根元から垂れてしまった
心の痛みで一言も発しなかった
ただ薄暗闇を見つめ、何も見つけられず
道すがらずっと水差しから水を零しながら、とぼとぼ家へ帰った
そしてベッドに這い、横たわり
リジーが眠るまでは静かにしていた
それから熱烈な切望のなか身を起こし
叶わぬ欲望に歯を軋ませ泣いた
まるで心が砕けてしまったように

日ごと、夜ごとに
ローラは虚しくも見張り続けた
ひどい痛みのどんよりとした静けさのなか
二度と小鬼の呼び売りを聞き取ることはなかった
「いらっしゃい、いらっしゃい」
彼女は二度と谷間に沿って果物を売り歩く
小鬼を見ることはなかった
昼の明るさが増すとき
彼女の髪は薄く灰色になり
満月が即座に朽ちていくように
彼女は衰え
炎を燃やし尽くしてしまった

ある日ローラは種子を思い出し
南に面した壁のわきに植えた
涙で水をやり、根を期待し
膨らむ芽を見守った
けれども何も起こらなかった
種は日の目を見ることも
水分の滴りを感じることもなかった
目元は沈み、口元は色褪せ
彼女はメロンを夢見た
まるで旅人が砂漠のような日照りのなかで
葉の茂る木々の影と波の虚像を見、
砂まじりの風のなかよりいっそう渇きに燃えるように

彼女は家の掃除をしなくなった
鳥や牛の世話も
蜂蜜とりも、小麦でケーキをこねるのも
小川に水汲みにいくのもしなくなった
ただ無気力に煙突の隅に座り込み
食べることもやめた

心やさしいリジーには耐えられなかった
ローラの身を腐すような苦しみを
見ているだけで共有できないことが
リジーには夜も朝も
小鬼の売り込みが聞こえた
「我々の果物はいらんかね
さあいらんかね、いらんかね」
小川で、谷間で
彼女には小鬼の重い足音が聞こえた
憐れなローラには聞こえない
声と騒ぎが
彼女を元気づける果物を買いたいけれど
大きすぎる犠牲を払うのは怖かった
リジーは墓のなかのジーニーを思った
花嫁になるはずだったのに
花嫁が求める喜びのために
病に倒れ、死んでいった
陽気な盛りのときに
冬のはじまりに
最初の艶やかな白露とともに
身の引き締まる冬の初雪とともに

ローラが衰弱し
死の扉を叩くほどになると
リジーはこれ以上
ことの良し悪しを較べてはいられなかった
財布に銀貨一枚を入れ
ローラにキスをし、
ハリエニシダの茂みがあるヒースを渡った
黄昏のなか、小川のそばで立ち止まり
彼女の人生で初めて
耳をそばだて、見つめはじめた

小鬼たちが皆笑った
彼女が覗き見ているのに気がついて
彼女に近づく、ぎこちなく歩き
飛び、走り、跳ねながら
息を吹きかけ
くっくと笑い、手を叩き、カラスのように
鶏のように、七面鳥のように鳴きながら
顔をしかめ
慇懃な態度で
表情をゆがめ
取り澄ましたしかめ面
猫に似たもの、鼠に似たもの
ラーテルやウォンバットに似たもの
蛇の速さで這うものは急ぎ
オウムの声のもの、モズヒタキは
あたふたと大慌てで
カササギのようにぺちゃくちゃ喋り
鳩のようにぱたぱた羽ばたき
魚が滑るように動いた
リジーにハグし、キスをして
ぎゅっと抱いて、やさしく撫でた
彼らのごちそうを
籠を、皿を差し出した
「我々の赤い、褐色の
リンゴを見てごらん
サクランボをくわえてごらん
モモをかじってごらん
シトロンもナツメヤシ
グレープもほしいなら
日を浴びた
赤いナシに
枝つきのスモモ
むしって吸ってごらんなさい
ザクロやイチジクもある」

「皆さん」リジーは云った
ジーニーを思いながら
「たくさんちょうだいな」
エプロンを広げ
彼らに小銭を投げた
「いや、我々と席につきなさい
敬意を表して一緒に食べるんだ」
彼らはにやりと笑って答えた
「我々の宴は始まったばかり
まだ夜も早い
あたたかく、露は真珠のようで
目は冴え、星も多い
こんな果物は
誰も運んではいけないよ
美味しさの半分が飛んでいってしまうから
露の半分が乾いてし
風味の半分がなくなってしまうから
だから座って我々とごちそうを食べなさい
客として歓迎しよう
喜んで、休んでいってくれ」
「ありがとう」リジーは云った「でも
家でひとりわたしを待ってる人がいるの
だからこれ以上会議はしていられない
たくさんの果物を
これっぽっちも売ってくれないなら
お代として渡した
わたしの銀貨を返してちょうだい」
小鬼たちは頭を掻きむしり始めた
もう尻尾を振ったり、喉を鳴らしたりはせず
ただ見るからに不服そうに
不満を垂れ、うなった
あるものはリジーを高慢で
ひねくれた無作法者だと呼んだ
彼らの声は大きくなり
悪魔のような見た目だった
尻尾を叩きつけ
彼女を踏みつけて乱暴に押した
肘で突き
爪で引っ掻き
吠え、鳴き、シャーッと声をあげ、あざけって
ドレスを裂き、ストッキングを汚し
髪の毛を根元から引っぱった
リジーの柔らかな足を踏んで
手をとり、果物を
彼女の口に押し込んで食べさせようとした

白く黄金色のリジーは立っていた
氾濫する川辺の百合のように
騒々しく潮が打ちつける
青い縞模様の岩のように--
白く唸りをあげる海に
取り残され
黄金の炎を送る灯台のように--
蜜の甘い花をつけ
蜂にひどく悩まされた
果実のなる白いオレンジの木のように--
旗を引きずり降ろそうとやっきな
軍艦に迫られた
金塗りの丸屋根と尖塔をたたえる王家の汚れなき町のように--


馬を水辺まで引っぱっていくことは一人でできても
水を飲ませるのは二十人がかりでもできない
小鬼たちはリジーを叩き、捕まえ
なだめて格闘し
脅し、懇願し
引っ掻き、インクのように黒い痣になるまでつねり
蹴り、打ちのめし
傷つけ、あざけったけれど
彼女は一言も発さず
唇を開こうとしなかった
彼らに口いっぱいに詰め込まれてしまわないよう
しかし心のなかでは笑っていた
顔中に垂れ
あごの窪みにたまり
凝乳のように震えて首に流れる果汁の滴りを感じながら
やがて邪悪な連中は
彼女の抵抗に疲れ切り
彼女に金を返し、通ってきた道に
果物を蹴散らした
根や種や芽は残していかなかった
あるものは地面に悶えるように潜り
あるものは輪を描いて
小川に跳び込み
あるものは音もなく風にのって疾走し
あるものは遠くに消えていった

ひりひりと疼く痛みのなか
リジーは進んだ
夜か昼かもわからず
土手を駈け上がり、ハリエニシダを割くように抜け
雑木林や小さな渓谷を通って
そして財布のなかで
お金が跳ねて唄っているのが聞こえた
彼女の耳にはそれは音楽のようだった
彼女は走った
まるで小鬼たちが嘲りや罵りや
あるいはもっと酷いことを言って
尾けまわしてくるのを恐れているように
しかし一人の小鬼も後を走ってはこなかったし
リジーは恐怖に苛まれてもいなかった
優しい心が彼女を風のような速さで
家へと走らせた
急ぐ気持ちと内なる笑みに息を切らせながら

庭につき、彼女は叫んだ「ローラ」
「わたしが恋しかった?
来て、キスをして
わたしの痣は気にしないで
ハグして、キスして、あなたのために
小鬼の果物から絞った果汁を吸って
小鬼の果肉を、小鬼の露を
わたしを食べて、飲んで、愛して
ローラ、わたしを大切に思ってね
あなたのために谷間に行って
小鬼の商人とやりとりしたの」

ローラは椅子から起き上がった
腕を宙に振り上げ
髪の毛をむしって
「リジー、リジー、あなたわたしのために
あの禁じられた果物を食べてしまったの?
あなたの輝きはわたしのように影を潜め
あなたの若い命はわたしのように衰えてしまう
わたしの零落のためにあなたも零落し
わたしの破滅のためにあなたも破滅してしまうの?
渇き、病み、小鬼に取り憑かれて?」
ローラはリジーにしがみつき
キスしていった
涙がもう一度
彼女のしぼんだ瞳を潤した
長く蒸し暑い干ばつのあとの
雨のように滴って
熱病の恐れと、痛みに震え
彼女は飢えた唇でキスをしていった

唇が焦げはじめ
果汁は彼女の舌にはニガヨモギのようだった
ローラはそのごちそうを嫌がった
取り憑かれたように身悶えし、跳ねて歌った
ローブを引き裂き
哀れなほど忙しなく手をもみ
胸を打った
彼女の巻き毛は全速力の走者が掲げる
松明のように
逃げる馬のたてがみのように
まっすぐに太陽へと進み
光に立ち向かう鷲のように
囚われのものが解放されたように
走る軍勢のなびく旗のようにはためいた

炎がすばやく彼女の血管に広がり
心臓を打った
そこで燻る炎とぶつかり
小さな火焔を圧倒した
ローラは名のない苦みでいっぱいになった
ああ!愚かにも、魂を費やす
こんな苦しみを選ぶなんて
生死を争うなかで感覚はなくなっていた
地震によって破壊された
町の物見やぐらのように
雷に打たれたマストのように
風が根こそぎにした木のように
真っ逆さまに海に砕ける
泡のたった水上竜巻のように
ローラはついに倒れた
喜びは過ぎ、苦痛も過ぎた
これは死か、生か?

死から生が
夜通しリジーはローラを見守り
弱まる脈をはかった
彼女の呼吸を感じとり
唇に水をはこび、涙と、葉で扇いで
彼女の顔を冷やしてやった
最初の鳥たちがひさしのまわりでさえずり
朝早く農民が黄金の穀物をとりに
とぼとぼ歩いていたとき
露に濡れた芝が
きびきびと吹き抜ける朝の風に頭を垂れ
新しい蕾が新しい日に
椀のような百合をせせらぎで花開かせたとき
ローラは夢から目覚め
かつてのように無垢に笑い
二度三度とならずリジーをハグした
彼女の輝く巻き毛には一筋の白髪も見えず
息は五月のように甘く
瞳の中には光が踊っていた


幾日も、幾週も、幾月も、幾年もあと
二人がともに妻となり
子をもったとき
二人の母の心は不安に苛まれた
彼女らの命は優しく脆い命と結び合った
ローラは幼き子を呼び
彼女の若い盛りのことを話した
遠く、戻らない
楽しかった日々のことを
あの溜まり場の谷間のこと
邪悪で奇妙な果物商人のこと
喉には蜜のようだけれど
血には毒になる果物のことを語り聞かせた
(町ではそんなものは売られていない)
そして彼女の姉(妹)がどのように
彼女のために命がけの危機に立ち向かい
炎のような解毒薬を勝ちとったかを話した
それから小さな手をとって
団結するように言った
「だって姉妹ほどの友はいないもの
晴れの日も雨の日も
退屈なときに元気づけ
道に迷ったら連れ帰ってくれて
よろめいたら持ち上げて
力づけてくれるような友は」

(拙訳)


翻訳センスがまるでないので、よければGoblin Market by Christina Rossetti - Poetry Foundationで原文を読んでみてください。

Summer Sonic 2016 2日目@幕張

2年ぶりのサマソニ行ってきました。この2年間で音楽の聴き方もだいぶ変わって、このところはまったく新譜を追えていないけど、やっぱり夏はフェスの一つでも行かねば終えられませんので。また今回は1型発症後初のフェス参加ということで、灼熱の夏フェスをいかにインスリンペン一本で乗り切るかという実験もしてみたかった。低血糖で倒れたらどうしようかと思った瞬間もあったけど、まあこの通り無事に帰ってきてレポートなぞ書けているので、今回のサマソニで気をつけたことや食べものの話なども書ければと思います。



・Nothing but Theives @Marine Stage

10時半頃会場につき、まずはマリンの3階席でUK、サウスエンド出身の5人組をまったりと。予習ゼロで臨んだのだけど、最初の一音からまったく迷いがなく、目の前のオーディエンスではなくてマリンフィールド全体を揺らしにかかる自信に溢れた演奏に、これはもしかして今後すごいバンドになるのかなと思いました。ダイナミックかつ精緻なアートロックはFoalsを思わせるけど、ボーカル、コナーくんの圧倒的な歌声がぐんぐんとバンドを牽引するにしたがってMuse的な大仰の美学が迸りはじめて、最後はおおっと唸ってしまったのでした。セットリストがまったくわからないのでこの曲がよかったとか言えないんだけど、終盤のほうにあったマシュー・ベラミーが"Where is My Mind?"をバックに歌ってるみたいな曲が好きだった(意味不明)。


・ソニ飯①中とろ漬け丼・きゅうりの浅漬け@焼津まぐろ茶屋

ランチはおなじみのまぐろ〜。写真はないけれど、野菜も食べないとなあと思い、申し訳程度に丸ごときゅうりも。サマソニのような場は食事管理・血糖管理がとても難しいです。栄養成分表示は当然ないし、どいつもこいつも脂っこいし、食べるスペースは狭くていつも混雑しているから注射しにくいし。でも脂っこい食べものは血糖値を下げにくくするので、夏フェスのように動きまわってエネルギー(グルコース)を消費する=血糖値がぐんぐん下がる環境ではかえって積極的に脂をとったほうがいいと思います。事実この日も脂に救われたので(後述します)。

中とろ漬け丼は半凍状態のマグロのシャリッとしてトロッとした食感が夏の暑さに心地よいのどごしで、胡麻の香ばしさでご飯がすすむ安定のおいしさ。きゅうりもこの日はよく漬かっていてよかった。ちなみに食前血糖が92くらいで、このあと動きまわることも考えて3単位うちました。


・Pop etc @Sonic Stage

正直The Morning Benders時代の名曲"Excuses"が大好きなだけで、改名後はほとんど追っていなかったのでどんなもんかなあと思ったけど、いやはや素晴らしかった。ベンダーズの頃に今回と同じくソニックでライブを見て演奏と歌の確かさはよく知っていたけれど、それから数年、こんなに完成されたバンドになっていたとは知りませんでした。知的で艶やかなクリス・チュウくんの歌声はR&Bの色っぽさとインディーギターロックの繊細さをうまく橋渡ししているし(相変わらず歌がうんまい)、演奏は以前にも増してクリアで引き締まっていた。バンドのルックスからはナイーブそうに見えるのだけど、ライブを聴くと骨のしっかりした内気すぎない開かれたインディーポップをやってるのがよくわかってすき。

ただ路線変更後のスタイルでいいものが作れていることの裏返しとして、いかにもゼロ年代末の西海岸インディー然とした"Excuses"の置き場にはやや困っているのかなと感じた。ライブの中盤で演奏してくれて相変わらず大名曲ではあったんだけれど、この曲がなくても今回の彼らへの評価は変わらないかな。大好きな曲だけど、彼らがあの曲のすべてを洗い流すノスタルジアの波に飲まれることなく、今この時を充実させているのは嬉しいし、新譜も聴いてみようかなと思いました。(あまりによかったのでライブ後Tシャツ買いましたよね)。


・Blossoms @Sonic Stage

マンチェスターの南、ストックポート出身の5人組。といって想像されるあんな音、こんな音。それはだいたい彼らの音楽とそう相違ないのではないでしょうか。今回のライブで数曲聴いただけでは特別なものは感じられなかったんだけれど、スミスからローゼズを経て今も受け継がれるキラキラとしたギターはマンチェスターの偉大な財産なのだと彼らの演奏を聴いていて思った。先に録音音源を聴いてたら、また印象が違ったかな。


Two Door Cinema Club @Marine Stage

過去にサマソニで2回ライブを見ていて、ソニック→マウンテンとステージが大きくなっても会場の隅々まで沸かせる熱いライブ巧者ぶりはわかっていたから安心して見ました。

今回はダンスよりもロックが似合う灼熱のマリンということもあってか(気温がもっと高い年はあったけど、今年は湿度が尋常じゃなかったので不快指数マックス。蒸し殺されるかと思った)、これまで通りの「ギターロックのフォーマットでエレクトロ/ダンスをやる」というUKインディーらしいスタイルを下敷きにしつつ、よりストレイトフォワードなロックとして響いてきたな、と(印象論ですが)思いました。とはいえ、ジャキジャキしたギターのアンサンブルでガシガシ踊らせてくるところは変わらず最高だったし、"I Can Talk"のアッオアアオッの掛け声とか、個人的にファーストで一番好きな"Eat That Up, It's Good for You"の"It's too late!"のコーラスとかこの人たちはライブに勢いをつける着火点をいくつも持っているから強い。

それにしてもスタンド2階で見てたけどまったく日を避けられなくて最後のほうは頭が湧きかけました。ラスト2曲は耐えかねてスタンドを出て喫煙スペースわきあたりで風に当たりながら聴いたけど、そっちのほうが断然気持ちいいし音も冷静に聴けます。


・ソニ飯②ラッシー@どこのだか忘れた、、

せっかくだし甘くて冷たいものの一つでも食べたいなーと思ってサムライジェラートを覗いたらそこそこの行列だったのでラッシーに変更。とてもサラサラしたラッシーで個人的にはもう少し濃厚なほうが好みだったけど、かなり甘くてエネルギーチャージには十分でした。血糖180程度で少し高めだったから3単位打ち。


・ソニ飯③よくばりセット&クバーノ@Cafe Habana

19-21時の間レディオヘッドに張りついているということは、必然的に夕飯がその前か後になってしまうのですが、どちらになってもわたしにとっては厄介で。レディへ前に食べるとそこから翌朝までほぼ何も口にしないので夜間〜翌朝低血糖が心配だし、レディへが終わる前まで食べないと今度はレディへ中に低血糖になりそうだし。考えあぐねた結果、ライブ中に低血糖が一番マズいということで、レディへ前に脂っこい食事をとり、血糖値のもちをよくする方向でいくことにしました。

ということで、心おきなくハイカロリーなものを食べようと思い、前日から気になっていたキューバン・ダイナーCafe Habanaのよくばりセットとクバーノ(キューバ風サンドイッチ)を。


よくばりセットはお肉とライス(味つけがよくわからなかった)とグリルドコーンのプレート。このグリルドコーンが、引くほど粉チーズがかかっていて悪魔的な美味しさ。カイエンペッパーの辛さもしっかり効いていて、チーズのコク、コーンの甘みと入り混じって最高だった。クバーノ(食べかけ失礼)は先日浅草のスケロクダイナーで食べたものよりもパンがふかふか、お肉のボリュームも満点で、肉汁がしみた小麦粉ってほんと美味しいなと思いました。血糖190くらいまであがってしまったので、ラッシーを飲むときに打ったインスリンがまだ残っているのをわかっていながら8単位打ち。結局これが失敗だった。


・James Bay @Sonic Stage

夕飯を食べながらのんびり見ようと思った、UK出身ナイスルッキングガイなSSW。いやしかし、そんな悠長な気分で見るのはもったいないエネルギッシュでかっこいいライブだった。例によって予習ゼロであまり曲は知らなかったんだけれど、ギターが泥臭くガシガシ鳴るロックンロールをあのスキニーな躯体で熱っぽく歌ったら、そりゃあかっこいいに決まっている。各曲ともメロディーがしっかり立っていて、ソングライティングの才もばっちりなのがわかった。30分弱しか見られなかったのが名残惜しい。


・Mark Ronson @Mountain Stage

ミーハーちゃんなので、当然当代きっての伊達男を一目見ずには帰れません。Ronsonと書かれた真っ赤なジャージ(かな?)を着こなす40才。いけめん。時折エアギターの仕草を見せたりするのがギターバンド好きのインディーキッズみたいで、安易な言い方だけど、"音を楽しんでいる"のがよくわかった。70・80年代ファンク/ソウルからゼロ・テン年代のR&B/ヒップホップ、インディーミュージックまでをまぜこぜして、メインストリームとオルタナティブを行き来する楽しさをロンソン自身が味わいながらDJしている。レディへのために泣く泣く"Uptown Funk"前で切り上げたけど、いいかんじに体が温まったところで、たゆたうサイケデリアが気持ちいい"Daffodils"が聴けたからまあ満足かな。


・マウンテン〜マリンの大移動、あるいは低血糖タイム

SNSではイエモン〜サカナの時点で大混雑ぶりが話題になっていて、レディオヘッド大丈夫か、規制かかるかと言われているなか、メッセからマリンへと大移動。7時前にマリンのアリーナ入口に着くと確かに人は多いけど意外にすんなり入れる。そんなことよりも問題だったのはここにきて低血糖になったこと。食事のあとすぐマーク・ロンソンで小躍りして大移動だったので、一気に血糖値が落ちた。自分では動悸が激しくなってきて低血糖っぽいなあ、一応救護スペース確認しとこ、くらいに思っていたんだけど、はたから見たら汗の量が尋常ではなかったらしい。自覚ないの怖すぎ。やっぱりこういったイベントはもう一人では行けない。

ただ脂をたくさんとったから後上がりすることはわかっていたので、とりあえず飴を一個だけ舐めた。10分程度で回復し、その後はまったく落ちなかったのでやっぱり脂って偉大。


Radiohead @Marine Stage

定刻の7時を15分ほどすぎたころ、ステージの明かりが落ちてバンドが登場。アリーナ後方のブロックにいたからほとんどステージ上は見えなかったけれど、遠くのほうから徐々に熱気が広がってくる。

もともと彼らにはあまり思い入れがなく、新譜もほとんどチェックしていないわたしにとっては、東京のファン・フレンドリーなセットリストはとても楽しめました。久々の"Creep"はもちろん、"No Surprises"や"Let Go"など、おそらく(単独を見に行くことはないので)わたしにとって最初で最後のレディへのライブで、過去の名曲をたくさん聴けたのは贅沢な体験。今やフェスも夏の文化として定着し、今回のわたしのようにライトなノリで楽しみにきている人が多くなっているなか、そうしたフェスの間口の広さにバンド側が合わせていくことを時代への「迎合」と見るか、「適応」と見るかは微妙な問題かもしれません。少なくともわたしは先鋭的であることだけが、時代を捉える、時代に向き合うということではないと思うし、レディオヘッド、あるいは"Creep"というメディアを通して何千人、何万人もの人をゆるやかに繋いだ今回のライブ("Creep"では会場大熱狂だったけど、ライブ全体で見ればリラックスしたムードで、会場全体にゆるやかな連帯が感じられた)は2016年の音楽体験としてやっぱり貴重なものだと思う。(まあ、今回の"Creep"をサマソニの奇跡再びと持て囃すのはなんだか日本的だなあと思うし、ビジネスの匂いがぷんぷんしますが)

(大ファンではないのであまり知ったようなことも言えないのは前置きしつつ)今回は"Creep"で〆ではなく、その余韻の中"Bodysnatchers"、"Street Sprit"と繋いでいて、ライブ全体の一パーツとして"Creep"が組み込まれていた印象を受ける。見ているこちらの興奮はすごかったけれど、バンド自身はいたって普通に演奏していて、バンドもファンも年をとる(と粉川しのさんが言っていて、当たり前だけど本当にその通りで)なかで過去と向き合う重要性が増していること、またそのなかでうまく現在とのバランスがとれていることを、わたしとしては感じたのでした。



サマソニお馴染みの花火。今年はアリーナから見たから真正面に綺麗に咲くのを撮れた。


帰宅したのは11時頃。すでに食後6時間くらい経っていたけど、眠前血糖は84くらい。ちょっと低すぎたけど脂肪分もまだ残っているはずなので、無難に卵パンあたりで瞬間的に血糖値あげて寝たら、翌朝が120ほど。いったん低血糖になったものの概ねいいコントロールでいけたのではないかな。ちなみにサマソニでは直射日光の中立ち歩くことが多いと思うので、熱に弱いインスリンを守る保冷グッズは必須。わたしは英国メーカーのインスリンクーラー、FRIOを使っています。一度の吸水で数日は保冷してくれるし、冷たくなりすぎないのでいいですよ。


そんなかんじでインスリンペン一本でもしっかり楽しめることが証明された今回のサマソニ。ラインナップ次第ではあるけど、また来年以降もよろしくお願いします。最後は大移動中にとった美しい夕陽。

地獄の鳥の詩/『ハミングバード』とWilliam Blake, 'London'

大学3年くらいまではジェイソン・ステイサムの出演作とあらば何でも映画館まで見に行っていた。それが進路関係で忙しくなってから精神的にも物理的にも映画を見る余裕がなくなり、習慣になっていたイサム追っかけもできなくなっていた。そんなわけで、ステイサム出演作の中でも評判のいい『ハミングバード』も長らくスルー状態だったのだけど、ようやく余裕ができてきたから見てみることにした。

じっとりと艶っぽいネオンが色っぽくて哀しい、良イサム・ノワール。『SAFE』なんかでもステイサムの涙を見せて哀感を漂わせていたけれど、今作ほど彼の鋼のような肉体にずっしりと引きずるような倦怠を帯びた重たさを付加できた映画はないんではないかと思う。

また個人的には、なぜかウィリアム・ブレイク(William Blake)の代表作「ロンドン」('London')という詩を思い出させる映画でもあった。

ウィリアム・ブレイク「ロンドン」

支配された通りをさまよい歩く、
支配されたテムズ川が流れる近くだ。
私が出会うすべての顔に
弱さの印、悲痛の印が見てとれる。

すべての人のすべての叫びに
すべての乳呑み子の恐怖の叫びに
すべての声に、すべての禁令に
私は心が作った足枷(の音)を聞く。

煙突掃除の子どもの叫びは
黒ずんだ教会を恐れ慄かせ、
不運な兵士の溜息は
血となって宮殿の壁を伝う。

しかしたいてい夜の通りで聞こえるのは
若い娼婦の呪いが
新生児の涙を吹き飛ばし
結婚の霊柩車を疫病で枯れさせる様なのだ。

(拙訳)
http://genius.com/William-blake-london-annotated *1

産業革命が起こり、急速に近代化が進む18世紀末のロンドンを、ブレイクは下層の人々の悲痛な叫び声=心理的な枷("The mind-forged manacles")の金切り声のような音がこだまする闇の街としてゴシック的に描き出す。人・もの・疫病が氾濫し、特権的階層と下層とのギャップが顕になったこの近代的なロンドン像は、『ハミングバード』における強きが弱きを虐げる堕落したコスモポリタン・シティとしての現代ロンドンにつながっているように思える。また『ハミングバード』では下層から上層への一撃が描かれているけれど、「ロンドン」でも下層の人々(煙突掃除の子どもや兵士)の叫びや嘆きが教会・宮殿といった権威に脅威を与えているし、加えてそれが特権階級にカウンターパンチを喰らわすカタルシスにはまるでならず、血を流す痛みばかりが伝わってくるという点でも両者は相通じている。

ブレイクはseerとかvisionaryなどと呼ばれていて、普通では見えないものが見えてしまう(人はそれを幻覚とか幻想と言うが)人物だったという。「ロンドン」も通りをさまよい歩く詩人が人々の表情や声、禁令といった街に溢れるものごとに痛みや苦しみを見/聞きとり、そこからイメージが連鎖して、果ては疫病が結婚を死と結びつけ、赤ん坊の命を枯らしてしまうところまで見透かしてしまうという構成で、街をスケッチする写実性よりもイメージが連なって深部まで透視していく幻想性が特徴的だ。*2ハミングバード』にも、そんな「見てしまった」の幻想性を感じさせる画があった。それは"密輸"された人々が詰め込まれたトラックの闇の中で光る数多の手首--恐ろしくも美しいような、ゴシック的なイメージで、わたしがこの映画を見て「ロンドン」を想起したのは、これがあったからだと思う。



なんだか特に結論もなく、きちんとした根拠はない主観的な連想ゲームのような見方で『ハミングバード』の感想(ですらないか)をだらだらと書いてしまいそうなので、ここで閉じることにする。ステイサム演じるジョゼフはアフガン従軍時にある罪を犯したために、ハミングバード無人偵察機)の幻影に苛まれるのだが、そんな地獄の鳥の姿が見えてしまう彼もある意味seerなのではないかと思うし、であれば彼に(地獄から逃れようともがく罪人であると同時に)天使の役割が与えられているのも合点がいくのである。

*1:1,2行目 "charter'd"についてはgeniusの解説を参照されたし。ここでは特権を与えられた権威によって管理された不自由なロンドンが表されているため、「支配された」というやや強気な訳出を行った。また輸送・貿易の中心地となり、人も物も疫病も溢れた猥雑な街の様もブレイクは示唆しているらしい。

*2:第3連3行目まで苦しみを「聞く」という聴覚情報を扱っていたのに、4行目で兵士の溜息が宮殿の壁を血となって伝うという視覚的(しかもなかなかにショッキングな)情報へと軽々とスイッチする感覚の超越性とイメージの広がり方がすごい

This is how I enjoy my life


ただただ最近好きなものを紹介する記事です。


・パン

1型糖尿病を発症して元旦から入院していた間、ご飯はすべて米飯と味気のないおかずの、いわゆる病院食でした。その反動からか退院してからとにかくパンが食べたくて、最近は3食パンも当たり前、日々おいしいパンを求めて彷徨い歩いています。昔はパンといえば菓子パンやヴィエノワズリーをおやつに食べるのが普通でしたが、最近はもっぱらフランスパンなどのハード系、リーン系にはまっています。

その理由は二つあって、一つは病気のおかげで以前のように甘いもの、高カロリーのものをばんばん食べられなくなったので、砂糖や油脂が使われていないリーンでヘルシーなパンに着目するようになったということ。これはとても現実的な理由で特におもしろみもないんですが、もう一つの理由、こっちは重要です。それは、あるパン好きさんのブログを読んでいて、パンを語る語彙の豊かさに感銘を受けたこと。クラスト、クラム、クープ、高加水、リッチ、リーンetc. 初めて聞くパン用語たちは見た目だけでも美味しそうなパンをさらに美味しそうに、魅力的にしていました。パンの世界の奥深さを垣間見て、わたしももっとパンを知って自分の言葉で語れるようになりたいと反射的に思ったのです。

結局のところ、わたしは何かを受け取るとき、それを「語る」という行為から逃れられないのだなあと日々美味しいパンを食べながら思います。最近はもっぱら美しいパンを愛で、それを語る語彙を増やすのが趣味です。また、どれだけたくさんパンを食べても自分で作りたいとは思わないところに、自分は根っからの身勝手な批評家気質だと痛感します。でもそういうスタンスからでなければ言えないこともあるだろうし、外からものを眺める者であり続ける以上、語る対象への誠実さと正直さだけは常に意識しなくちゃいけないと思います。……パンを起点にこういうことを書き連ねてしまう自分でたいがいどうかしてると思うけど、まあそういうスタンスでないと……以下同文。

ちなみに上の写真は地元のとっても素敵なパン屋さんのカンパーニュとフィグのパン。美しくないですか?食感は外パリパリ中もっちりでお味も素晴らしいのです。

あと最近はリーン系パンの中でもベーグルにはまっています。そのままでよし、焼いてよし、サンドにしてよし。一つでご飯一杯と同等のカロリーなのでカロリー計算しやすくてありがたいです。


・アンディ・ウィアー『火星の人』(Andy Weir, The Martian)

火星の人 (ハヤカワ文庫SF)

火星の人 (ハヤカワ文庫SF)

パンに時間を割きすぎたから、ほかはサクサクいきます。入院中に友人から借りて読んだのですが、このタイミングで出会えて本当によかったと思います。突然「1型糖尿病です、一生インスリンが必要です」と言われても悲観せず前向きに受け取れたのは、この本があったからだと言ってもいいかもしれない。人間のちっぽけな"身体"一つでは到底太刀打ちできない、火星という過酷な環境ーーだったら"頭"を使えばいいじゃない、と知性をフル稼働して目の前の課題に着実に取り組んでいく主人公の軽やかな姿勢に勇気づけられたことは言うまでもありません。

映画版の『オデッセイ』ももちろん見に行きましたが、原作が好きすぎて正直あまり受け入れられませんでした。非常にハリウッドらしい、合理的で効率的な"共感"を生むアレンジがなされていて、うまいなーと思うと同時に、「みんな」の物語になってしまったことで、わたしと原作の間にあったような共犯関係を映画との間に築くことはできませんでした。まあたぶん原作に入れ込みすぎたのだと思いますが、個人の的確なアクションを個人の的確な、そしてユーモラスな言葉で書き綴っていくという地に足の着いたかんじが好きだったから、ちょっと映画は大きな物語になりすぎているかなと感じました。


デヴィッド・ボウイ「スターマン」(David Bowie, "Starman")
http://youtube.com/watch?v=a2uq_rTNBmU
とかなんとか言いつつ、『オデッセイ』のこの曲が流れるシーンは本当に大好きで、ボウイの歌声が耳に飛び込んできた瞬間もう涙ボロボロだったんですけどね。去年一番よく聞いていて勇気づけられた曲が「ロックンロールの自殺者」だったし、年明けには悲しすぎる訃報があったしで、あのシーンはもう冷静には見ていられなかった。うろ覚えで申し訳ないんですが、昔ボウイが「音楽は人生の問題を解決はしてくれないけれど、人と繋がるきっかけを与え、ともに問題に向き合う手助けをしてくれる」というようなことを言っていて、もう彼には全幅の信頼を寄せずにいられないなと思いました。


綿矢りさ

憤死 (河出文庫)

憤死 (河出文庫)

高校生のとき、主人公の「外界に対してはものすごく鋭敏な感覚を持っているのに、自分のことはまるで見えていない」かんじに「あんたはわたしか」と悶えながら読んだ『蹴りたい背中』をはじめとして、綿矢さんの作品はすべてではないものの、それなりに追っています。このところまた集中的に読み込みはじめ、近年彼女がやっている語りの実験がなかなかおもしろいなあと思っています。短編集『憤死』では、書き手と「私」の混濁を誘い、読者の喉元をぐっと掴みにかかってくるようなホラー掌編「おとな」や、聞き手/読み手の絶対的優位性(話を聞いてやっている方が話す方より優位だという主従のイメージ)をぐらつかせ、語り手/書き手との共犯関係を再考させるこれまたホラー風味の「トイレの懺悔室」といった意欲作を書いているし、一昨年『新潮』に載った「こたつのUFO」では様々なレベルの「私」を混在させることで虚実入り混じった私小説ともエッセイともつかないようなジャンル=綿矢りさ的な文章を確立した感があって、今後もまた楽しみです。最後に残るのは「真実」としての「おはなし」だけだと冒頭で宣言する「こたつのUFO」のラスト、最後に示される真実にはとても勇気づけられます。


・『ブロードチャーチ〜殺意の街〜』(Broadchurch)

普段はまったく海外ドラマを見ないのですが、これはあるスコッツの知り合いに勧められて見ました。本国イギリスで驚異の高視聴率を叩き出し、海外ドラマファンの方にはよく知られた作品だと思うので、今さら特に語ることもないのですが、おもしろいですよ。演技と撮影がまず素晴らしい。一話ごとに異なるキャラクターがフォーカスされており、どのキャラクターを演じる役者も真摯で丁寧な演技です。

ブロードチャーチというのどかな海辺の田舎町で起きた少年の殺害事件を男女二人の刑事が追うという物語なのですが、第1話の冒頭、ノーカット長回しで撮られる被害少年の父親の出勤風景を通して、住民のほぼ全員が顔見知りという街の小ささを説明する手際のよさにまず引き込まれます。そんな、噂話は一日で街中に広まってしまう田舎の田舎らしさが生む閉塞感や孤独感も当然作品の中では描かれるのですが、物語の核にあるテーマは「愛というおかしなもののために我々は何をしでかしてしまうのか」という至極普遍的なものだと思います。脚本家自身がこのプロジェクト(本作はトリロジーの第1作として制作されたものです)をa labour of loveと評している通り、愛というのはとんでもない骨折りで、そもそも愛は主観からどうしたって逃れることができない、客観的な「真実」など持ち得ないものなのだということが、一話ごとに、素晴らしい役者たちの力強い主観的な語り(自分について語る場面が本作は非常に多いです)によって紐解かれていきます。平凡で平和に見えた田舎の風景から逸脱していく、あるいはその平凡な風景に隠してしまいたい人間の歪な感情こそがドラマを織り成していくんですね。正直結末を含めてテーマそのものについてはいろいろ言いたいこともあるんですが、まずは見てみて損は絶対ないなと思う作品です。シーズン2はもう日本でも放送が終わっているので、早くそちらも見たい。


・ナーズ ザ・マルティプル1526 (Nars, the Multiple Nā Pali Coast)

サクサクいくと言って、まったくサクサクしていないから、これは本当に簡単に。

2年くらい前からコスメ好きになり、ちまちまと集めているのですが、退院後に買ったお気に入りがこちらです。もうずいぶん前に発売され、すっかりナーズの定番商品だと思いますが、やっぱりいいですね。ブラウン系の赤なのですが、若々しくフレッシュに見えるのに洗練された大人っぽさも演出してくれる素晴らしいフェイスカラースティック。アイ、チーク、リップすべてに使えて、軽く叩き込むと高発色、ぼかすように塗ると肌に溶け込んで綺麗な陰影を生んでくれます。最近メイクは艶と立体感が命なので、こういう一本で華やかに立体的な艶を出して垢抜けた印象にしてくれるアイテムは重宝します。


・英語

これは最近のお気に入りではなく、もはやライフワークのようなもので、わたしは「生涯の英語学習者」でありたいなと思っています。昨年進路について悩み、自分が何をしたいのかを突き詰めて考えたのですが、その中でやはり英語だけは何があっても続けていきたいと気づきました。わたしは10才頃から英語の独学を始めました。サボっていた時期もありますが、なんだかんだ10年以上も継続的に学べているものは英語以外にありません。

なぜそれほど英語に惹かれるのか、本当のところはわかりませんが、一つの理由として英語はわたしにとって常に「新しい言葉」であるということがあるのかなと思います。英語は世界中で使われ、ありとあらゆる文化を吸収して日々変化し、新しい表現を生み出す活発な生き物のような言語です。だから英語学習に終わりはない。どれだけ流暢に話せるようになっても、アップデートを怠れば錆びついてしまいます。常に新しい世界の間口になってくれる英語はある意味母語である日本語以上にわたしと世界との接点をたくさん作ってくれます。今の目標は語彙、特に糖尿病関連の言葉や表現を豊かにして、英語で病気について語れるようになることと、「自分の言葉」を英語で獲得することです。ただコミュニケーションに問題のないレベルまで英語力を上げるのではなく、ユーモアであったり自分独自の感性であったりを英語で表現できるようになりたい、要するに英語でおもしろいことを言えるようになりたいというのが、目下最大の目標ですね。



以上が今わたしが大切にしているものたちです。映画は大ヒットがなく、音楽はあまり聞けていませんが、他の分野でいろいろおもしろいものを見つけられているからいいかな。長年のモラトリアム期間が終わり、大きく環境が変化しているのですが、好きなものを楽しむために生きる、そして語るということは忘れずに、できる限り軽やかに生きたいものです。

ご報告

誰が読んでいるのかわからないこのブログですが、ここからしか伝わらない人脈もあるので一応ご報告します。

昨年末、1型糖尿病を発症しました。日本で一般的ないわゆる生活習慣病2型糖尿病ではなく、よく子どもとか若年者がなるやつです。『パニック・ルーム』でクリステン・スチュワート演じる娘が患ってる病気。成人してからの発症は多くないですが、私はその珍しいケースの一人です。

1型糖尿病の発症原因は不明です。なぜだかわからないけど突然膵臓が必要な量のインスリンを分泌しなくなってしまいます。インスリンがないと血糖が抑制できないためガンガン血糖値が上がってしまいます。私は一時血糖値1100までいきました。そのときの体験はわりと本気で死の淵を見るようなもんでした。この経験でだいぶメンタルがタフになったような気がします。

1型糖尿病の難しさは、すなわち血糖コントロールの難しさと言えると思います。1型の場合、体内からはほとんどインスリンが出ないので、毎日定期的なインスリン注射が欠かせません。一生やり続けなければいけないことです。ただインスリンを打ち、血糖コントロールがうまくできさえすれば、健康な人と何ら違いはありません。

と言いつつ、その血糖コントロールというのがそう簡単にはできないから困る。血糖値を上げ下げする要因は食事、運動、ストレス、女性であれば月経の周期など、多岐に渡ります。様々な要因で血糖値は変動するので、普通であれば身体が血糖値の上昇下降に合わせてインスリンを調整するのだけど、私の身体はそれができないから、人工的にインスリンや食事の量・タイミングを調整してコントロールしてやる必要があります。私はまだ発症したばかりでこのコントロールの方法をまったく身につけられていません。正直これから一人でうまくやっていけるのかという不安もあります。コントロールできなければ糖尿病は悪化し合併症になる……そんな恐怖は少なからずあります。

でも、ある看護師さんと話していて、見えてきたことがあります。その方は「食べる量や生活に合わせてインスリンとうまく付き合えば自由に生活できる」「きちんと考えれば大丈夫、あなたならできると思う」と言ってくれました。そういう言葉を聞いているうちに、ああ、1型糖尿病は「知性」で闘う病気なんだなあという考えが浮かんできました。身体がまともに動かないなら頭でなんとかすればいい。私の身体は私の知性がコントロールするしかない。「知性は最高にセクシーである」し、また「最高の武器」にもなると今私は強く思います。発症してすぐは自分の身体が自分のものではなくなってしまう感覚がとてもしんどかったんだけれども、今は逆に病気をきっかけにして自分の身体を知り、コントロールできるような気がしている。知性とユーモアを持って病気と闘いましょう。誰に言ってるのかわからないけど、ひとまずの決意。

もともと映画も音楽も詩もごちゃまぜに書いていたブログなので、もしかしたら今後ここで糖尿病の話も書くかもしれません。でも愚痴や嘆きを喚くことはしません。病気とうまく付き合い楽しく生きるための試行錯誤をできるだけ前を向いて書こうと思っています。フェミニズムと同様に、おそらく1型糖尿病は私の人生の命題になります。だから何か発見があって、誰かに読んでもらいたいときに書きます。

ということで、簡単ですがご報告と相変わらずな人生思索の垂れ流しは終わりです。突然発症したせいで『コードネームU.N.C.L.E.』と『007 スペクター』の感想が書けなかったのが悲しいところですが、とりあえずアンクルは「ごちそうさまでした」、スペクターは「サム・メンデスやりきりすぎ」という一言感想を残しておこうと思います。アンクルはねえ、来たるガイ・リッチー円熟期に備えた過渡期の一作だと私は思いますよ。初めて*1自分と同年代ではない俳優を主演に起用し、リッチーの視点は主人公から脇役(要するにヒュー・グラント)に移ったと感じます。主人公との同一視(というよりも親友を撮るような親密さと身内感)、いつまでも遊んでいたい子どもの心を離れて、リッチーの映画的円熟がどのような形で実を結ぶかこれから10年が楽しみです。



……あれ、私は糖尿病の話がしたかったのではなかったか。


追記)
私が糖尿病生活について書きたいと思うのには一つ明確な理由があります。1型は小児時に発症することの多い病気であるため、1型関連の書籍はやたらに「10才で不治の病に」とか「一生インスリンを手離せない絶望」とか「なんでぼくだけ」とか、不安や恐怖を煽ったセンセーショナルな感動秘話風のものが多いです。いや、私は本の中身は読んでいないので、タイトルやコピーにそういったものが多いといったほうが適切ですが、そんなのタイトル見ただけでもう辟易します。簡単な病気ではないことは確かですが、悲劇ぶる気にはなれません。だからもっとユーモアを持って、地に足をつけて、糖尿病と付き合っていく生き方を模索し、何か形にしたいと思います。そう、私の目標は『火星の人』のマーク・ワトニーです。『火星の人』もまだまだ読み終わってないけどね。彼ぐらい自分の知恵とユーモアをフルに発揮して目の前の生に向き合うことができたら最高だと思います。

*1:正確には『スウェプト・アウェイ』以外