地獄の鳥の詩/『ハミングバード』とWilliam Blake, 'London'

大学3年くらいまではジェイソン・ステイサムの出演作とあらば何でも映画館まで見に行っていた。それが進路関係で忙しくなってから精神的にも物理的にも映画を見る余裕がなくなり、習慣になっていたイサム追っかけもできなくなっていた。そんなわけで、ステイサム出演作の中でも評判のいい『ハミングバード』も長らくスルー状態だったのだけど、ようやく余裕ができてきたから見てみることにした。

じっとりと艶っぽいネオンが色っぽくて哀しい、良イサム・ノワール。『SAFE』なんかでもステイサムの涙を見せて哀感を漂わせていたけれど、今作ほど彼の鋼のような肉体にずっしりと引きずるような倦怠を帯びた重たさを付加できた映画はないんではないかと思う。

また個人的には、なぜかウィリアム・ブレイク(William Blake)の代表作「ロンドン」('London')という詩を思い出させる映画でもあった。

ウィリアム・ブレイク「ロンドン」

支配された通りをさまよい歩く、
支配されたテムズ川が流れる近くだ。
私が出会うすべての顔に
弱さの印、悲痛の印が見てとれる。

すべての人のすべての叫びに
すべての乳呑み子の恐怖の叫びに
すべての声に、すべての禁令に
私は心が作った足枷(の音)を聞く。

煙突掃除の子どもの叫びは
黒ずんだ教会を恐れ慄かせ、
不運な兵士の溜息は
血となって宮殿の壁を伝う。

しかしたいてい夜の通りで聞こえるのは
若い娼婦の呪いが
新生児の涙を吹き飛ばし
結婚の霊柩車を疫病で枯れさせる様なのだ。

(拙訳)
http://genius.com/William-blake-london-annotated *1

産業革命が起こり、急速に近代化が進む18世紀末のロンドンを、ブレイクは下層の人々の悲痛な叫び声=心理的な枷("The mind-forged manacles")の金切り声のような音がこだまする闇の街としてゴシック的に描き出す。人・もの・疫病が氾濫し、特権的階層と下層とのギャップが顕になったこの近代的なロンドン像は、『ハミングバード』における強きが弱きを虐げる堕落したコスモポリタン・シティとしての現代ロンドンにつながっているように思える。また『ハミングバード』では下層から上層への一撃が描かれているけれど、「ロンドン」でも下層の人々(煙突掃除の子どもや兵士)の叫びや嘆きが教会・宮殿といった権威に脅威を与えているし、加えてそれが特権階級にカウンターパンチを喰らわすカタルシスにはまるでならず、血を流す痛みばかりが伝わってくるという点でも両者は相通じている。

ブレイクはseerとかvisionaryなどと呼ばれていて、普通では見えないものが見えてしまう(人はそれを幻覚とか幻想と言うが)人物だったという。「ロンドン」も通りをさまよい歩く詩人が人々の表情や声、禁令といった街に溢れるものごとに痛みや苦しみを見/聞きとり、そこからイメージが連鎖して、果ては疫病が結婚を死と結びつけ、赤ん坊の命を枯らしてしまうところまで見透かしてしまうという構成で、街をスケッチする写実性よりもイメージが連なって深部まで透視していく幻想性が特徴的だ。*2ハミングバード』にも、そんな「見てしまった」の幻想性を感じさせる画があった。それは"密輸"された人々が詰め込まれたトラックの闇の中で光る数多の手首--恐ろしくも美しいような、ゴシック的なイメージで、わたしがこの映画を見て「ロンドン」を想起したのは、これがあったからだと思う。



なんだか特に結論もなく、きちんとした根拠はない主観的な連想ゲームのような見方で『ハミングバード』の感想(ですらないか)をだらだらと書いてしまいそうなので、ここで閉じることにする。ステイサム演じるジョゼフはアフガン従軍時にある罪を犯したために、ハミングバード無人偵察機)の幻影に苛まれるのだが、そんな地獄の鳥の姿が見えてしまう彼もある意味seerなのではないかと思うし、であれば彼に(地獄から逃れようともがく罪人であると同時に)天使の役割が与えられているのも合点がいくのである。

*1:1,2行目 "charter'd"についてはgeniusの解説を参照されたし。ここでは特権を与えられた権威によって管理された不自由なロンドンが表されているため、「支配された」というやや強気な訳出を行った。また輸送・貿易の中心地となり、人も物も疫病も溢れた猥雑な街の様もブレイクは示唆しているらしい。

*2:第3連3行目まで苦しみを「聞く」という聴覚情報を扱っていたのに、4行目で兵士の溜息が宮殿の壁を血となって伝うという視覚的(しかもなかなかにショッキングな)情報へと軽々とスイッチする感覚の超越性とイメージの広がり方がすごい

This is how I enjoy my life


ただただ最近好きなものを紹介する記事です。


・パン

1型糖尿病を発症して元旦から入院していた間、ご飯はすべて米飯と味気のないおかずの、いわゆる病院食でした。その反動からか退院してからとにかくパンが食べたくて、最近は3食パンも当たり前、日々おいしいパンを求めて彷徨い歩いています。昔はパンといえば菓子パンやヴィエノワズリーをおやつに食べるのが普通でしたが、最近はもっぱらフランスパンなどのハード系、リーン系にはまっています。

その理由は二つあって、一つは病気のおかげで以前のように甘いもの、高カロリーのものをばんばん食べられなくなったので、砂糖や油脂が使われていないリーンでヘルシーなパンに着目するようになったということ。これはとても現実的な理由で特におもしろみもないんですが、もう一つの理由、こっちは重要です。それは、あるパン好きさんのブログを読んでいて、パンを語る語彙の豊かさに感銘を受けたこと。クラスト、クラム、クープ、高加水、リッチ、リーンetc. 初めて聞くパン用語たちは見た目だけでも美味しそうなパンをさらに美味しそうに、魅力的にしていました。パンの世界の奥深さを垣間見て、わたしももっとパンを知って自分の言葉で語れるようになりたいと反射的に思ったのです。

結局のところ、わたしは何かを受け取るとき、それを「語る」という行為から逃れられないのだなあと日々美味しいパンを食べながら思います。最近はもっぱら美しいパンを愛で、それを語る語彙を増やすのが趣味です。また、どれだけたくさんパンを食べても自分で作りたいとは思わないところに、自分は根っからの身勝手な批評家気質だと痛感します。でもそういうスタンスからでなければ言えないこともあるだろうし、外からものを眺める者であり続ける以上、語る対象への誠実さと正直さだけは常に意識しなくちゃいけないと思います。……パンを起点にこういうことを書き連ねてしまう自分でたいがいどうかしてると思うけど、まあそういうスタンスでないと……以下同文。

ちなみに上の写真は地元のとっても素敵なパン屋さんのカンパーニュとフィグのパン。美しくないですか?食感は外パリパリ中もっちりでお味も素晴らしいのです。

あと最近はリーン系パンの中でもベーグルにはまっています。そのままでよし、焼いてよし、サンドにしてよし。一つでご飯一杯と同等のカロリーなのでカロリー計算しやすくてありがたいです。


・アンディ・ウィアー『火星の人』(Andy Weir, The Martian)

火星の人 (ハヤカワ文庫SF)

火星の人 (ハヤカワ文庫SF)

パンに時間を割きすぎたから、ほかはサクサクいきます。入院中に友人から借りて読んだのですが、このタイミングで出会えて本当によかったと思います。突然「1型糖尿病です、一生インスリンが必要です」と言われても悲観せず前向きに受け取れたのは、この本があったからだと言ってもいいかもしれない。人間のちっぽけな"身体"一つでは到底太刀打ちできない、火星という過酷な環境ーーだったら"頭"を使えばいいじゃない、と知性をフル稼働して目の前の課題に着実に取り組んでいく主人公の軽やかな姿勢に勇気づけられたことは言うまでもありません。

映画版の『オデッセイ』ももちろん見に行きましたが、原作が好きすぎて正直あまり受け入れられませんでした。非常にハリウッドらしい、合理的で効率的な"共感"を生むアレンジがなされていて、うまいなーと思うと同時に、「みんな」の物語になってしまったことで、わたしと原作の間にあったような共犯関係を映画との間に築くことはできませんでした。まあたぶん原作に入れ込みすぎたのだと思いますが、個人の的確なアクションを個人の的確な、そしてユーモラスな言葉で書き綴っていくという地に足の着いたかんじが好きだったから、ちょっと映画は大きな物語になりすぎているかなと感じました。


デヴィッド・ボウイ「スターマン」(David Bowie, "Starman")
http://youtube.com/watch?v=a2uq_rTNBmU
とかなんとか言いつつ、『オデッセイ』のこの曲が流れるシーンは本当に大好きで、ボウイの歌声が耳に飛び込んできた瞬間もう涙ボロボロだったんですけどね。去年一番よく聞いていて勇気づけられた曲が「ロックンロールの自殺者」だったし、年明けには悲しすぎる訃報があったしで、あのシーンはもう冷静には見ていられなかった。うろ覚えで申し訳ないんですが、昔ボウイが「音楽は人生の問題を解決はしてくれないけれど、人と繋がるきっかけを与え、ともに問題に向き合う手助けをしてくれる」というようなことを言っていて、もう彼には全幅の信頼を寄せずにいられないなと思いました。


綿矢りさ

憤死 (河出文庫)

憤死 (河出文庫)

高校生のとき、主人公の「外界に対してはものすごく鋭敏な感覚を持っているのに、自分のことはまるで見えていない」かんじに「あんたはわたしか」と悶えながら読んだ『蹴りたい背中』をはじめとして、綿矢さんの作品はすべてではないものの、それなりに追っています。このところまた集中的に読み込みはじめ、近年彼女がやっている語りの実験がなかなかおもしろいなあと思っています。短編集『憤死』では、書き手と「私」の混濁を誘い、読者の喉元をぐっと掴みにかかってくるようなホラー掌編「おとな」や、聞き手/読み手の絶対的優位性(話を聞いてやっている方が話す方より優位だという主従のイメージ)をぐらつかせ、語り手/書き手との共犯関係を再考させるこれまたホラー風味の「トイレの懺悔室」といった意欲作を書いているし、一昨年『新潮』に載った「こたつのUFO」では様々なレベルの「私」を混在させることで虚実入り混じった私小説ともエッセイともつかないようなジャンル=綿矢りさ的な文章を確立した感があって、今後もまた楽しみです。最後に残るのは「真実」としての「おはなし」だけだと冒頭で宣言する「こたつのUFO」のラスト、最後に示される真実にはとても勇気づけられます。


・『ブロードチャーチ〜殺意の街〜』(Broadchurch)

普段はまったく海外ドラマを見ないのですが、これはあるスコッツの知り合いに勧められて見ました。本国イギリスで驚異の高視聴率を叩き出し、海外ドラマファンの方にはよく知られた作品だと思うので、今さら特に語ることもないのですが、おもしろいですよ。演技と撮影がまず素晴らしい。一話ごとに異なるキャラクターがフォーカスされており、どのキャラクターを演じる役者も真摯で丁寧な演技です。

ブロードチャーチというのどかな海辺の田舎町で起きた少年の殺害事件を男女二人の刑事が追うという物語なのですが、第1話の冒頭、ノーカット長回しで撮られる被害少年の父親の出勤風景を通して、住民のほぼ全員が顔見知りという街の小ささを説明する手際のよさにまず引き込まれます。そんな、噂話は一日で街中に広まってしまう田舎の田舎らしさが生む閉塞感や孤独感も当然作品の中では描かれるのですが、物語の核にあるテーマは「愛というおかしなもののために我々は何をしでかしてしまうのか」という至極普遍的なものだと思います。脚本家自身がこのプロジェクト(本作はトリロジーの第1作として制作されたものです)をa labour of loveと評している通り、愛というのはとんでもない骨折りで、そもそも愛は主観からどうしたって逃れることができない、客観的な「真実」など持ち得ないものなのだということが、一話ごとに、素晴らしい役者たちの力強い主観的な語り(自分について語る場面が本作は非常に多いです)によって紐解かれていきます。平凡で平和に見えた田舎の風景から逸脱していく、あるいはその平凡な風景に隠してしまいたい人間の歪な感情こそがドラマを織り成していくんですね。正直結末を含めてテーマそのものについてはいろいろ言いたいこともあるんですが、まずは見てみて損は絶対ないなと思う作品です。シーズン2はもう日本でも放送が終わっているので、早くそちらも見たい。


・ナーズ ザ・マルティプル1526 (Nars, the Multiple Nā Pali Coast)

サクサクいくと言って、まったくサクサクしていないから、これは本当に簡単に。

2年くらい前からコスメ好きになり、ちまちまと集めているのですが、退院後に買ったお気に入りがこちらです。もうずいぶん前に発売され、すっかりナーズの定番商品だと思いますが、やっぱりいいですね。ブラウン系の赤なのですが、若々しくフレッシュに見えるのに洗練された大人っぽさも演出してくれる素晴らしいフェイスカラースティック。アイ、チーク、リップすべてに使えて、軽く叩き込むと高発色、ぼかすように塗ると肌に溶け込んで綺麗な陰影を生んでくれます。最近メイクは艶と立体感が命なので、こういう一本で華やかに立体的な艶を出して垢抜けた印象にしてくれるアイテムは重宝します。


・英語

これは最近のお気に入りではなく、もはやライフワークのようなもので、わたしは「生涯の英語学習者」でありたいなと思っています。昨年進路について悩み、自分が何をしたいのかを突き詰めて考えたのですが、その中でやはり英語だけは何があっても続けていきたいと気づきました。わたしは10才頃から英語の独学を始めました。サボっていた時期もありますが、なんだかんだ10年以上も継続的に学べているものは英語以外にありません。

なぜそれほど英語に惹かれるのか、本当のところはわかりませんが、一つの理由として英語はわたしにとって常に「新しい言葉」であるということがあるのかなと思います。英語は世界中で使われ、ありとあらゆる文化を吸収して日々変化し、新しい表現を生み出す活発な生き物のような言語です。だから英語学習に終わりはない。どれだけ流暢に話せるようになっても、アップデートを怠れば錆びついてしまいます。常に新しい世界の間口になってくれる英語はある意味母語である日本語以上にわたしと世界との接点をたくさん作ってくれます。今の目標は語彙、特に糖尿病関連の言葉や表現を豊かにして、英語で病気について語れるようになることと、「自分の言葉」を英語で獲得することです。ただコミュニケーションに問題のないレベルまで英語力を上げるのではなく、ユーモアであったり自分独自の感性であったりを英語で表現できるようになりたい、要するに英語でおもしろいことを言えるようになりたいというのが、目下最大の目標ですね。



以上が今わたしが大切にしているものたちです。映画は大ヒットがなく、音楽はあまり聞けていませんが、他の分野でいろいろおもしろいものを見つけられているからいいかな。長年のモラトリアム期間が終わり、大きく環境が変化しているのですが、好きなものを楽しむために生きる、そして語るということは忘れずに、できる限り軽やかに生きたいものです。

ご報告

誰が読んでいるのかわからないこのブログですが、ここからしか伝わらない人脈もあるので一応ご報告します。

昨年末、1型糖尿病を発症しました。日本で一般的ないわゆる生活習慣病2型糖尿病ではなく、よく子どもとか若年者がなるやつです。『パニック・ルーム』でクリステン・スチュワート演じる娘が患ってる病気。成人してからの発症は多くないですが、私はその珍しいケースの一人です。

1型糖尿病の発症原因は不明です。なぜだかわからないけど突然膵臓が必要な量のインスリンを分泌しなくなってしまいます。インスリンがないと血糖が抑制できないためガンガン血糖値が上がってしまいます。私は一時血糖値1100までいきました。そのときの体験はわりと本気で死の淵を見るようなもんでした。この経験でだいぶメンタルがタフになったような気がします。

1型糖尿病の難しさは、すなわち血糖コントロールの難しさと言えると思います。1型の場合、体内からはほとんどインスリンが出ないので、毎日定期的なインスリン注射が欠かせません。一生やり続けなければいけないことです。ただインスリンを打ち、血糖コントロールがうまくできさえすれば、健康な人と何ら違いはありません。

と言いつつ、その血糖コントロールというのがそう簡単にはできないから困る。血糖値を上げ下げする要因は食事、運動、ストレス、女性であれば月経の周期など、多岐に渡ります。様々な要因で血糖値は変動するので、普通であれば身体が血糖値の上昇下降に合わせてインスリンを調整するのだけど、私の身体はそれができないから、人工的にインスリンや食事の量・タイミングを調整してコントロールしてやる必要があります。私はまだ発症したばかりでこのコントロールの方法をまったく身につけられていません。正直これから一人でうまくやっていけるのかという不安もあります。コントロールできなければ糖尿病は悪化し合併症になる……そんな恐怖は少なからずあります。

でも、ある看護師さんと話していて、見えてきたことがあります。その方は「食べる量や生活に合わせてインスリンとうまく付き合えば自由に生活できる」「きちんと考えれば大丈夫、あなたならできると思う」と言ってくれました。そういう言葉を聞いているうちに、ああ、1型糖尿病は「知性」で闘う病気なんだなあという考えが浮かんできました。身体がまともに動かないなら頭でなんとかすればいい。私の身体は私の知性がコントロールするしかない。「知性は最高にセクシーである」し、また「最高の武器」にもなると今私は強く思います。発症してすぐは自分の身体が自分のものではなくなってしまう感覚がとてもしんどかったんだけれども、今は逆に病気をきっかけにして自分の身体を知り、コントロールできるような気がしている。知性とユーモアを持って病気と闘いましょう。誰に言ってるのかわからないけど、ひとまずの決意。

もともと映画も音楽も詩もごちゃまぜに書いていたブログなので、もしかしたら今後ここで糖尿病の話も書くかもしれません。でも愚痴や嘆きを喚くことはしません。病気とうまく付き合い楽しく生きるための試行錯誤をできるだけ前を向いて書こうと思っています。フェミニズムと同様に、おそらく1型糖尿病は私の人生の命題になります。だから何か発見があって、誰かに読んでもらいたいときに書きます。

ということで、簡単ですがご報告と相変わらずな人生思索の垂れ流しは終わりです。突然発症したせいで『コードネームU.N.C.L.E.』と『007 スペクター』の感想が書けなかったのが悲しいところですが、とりあえずアンクルは「ごちそうさまでした」、スペクターは「サム・メンデスやりきりすぎ」という一言感想を残しておこうと思います。アンクルはねえ、来たるガイ・リッチー円熟期に備えた過渡期の一作だと私は思いますよ。初めて*1自分と同年代ではない俳優を主演に起用し、リッチーの視点は主人公から脇役(要するにヒュー・グラント)に移ったと感じます。主人公との同一視(というよりも親友を撮るような親密さと身内感)、いつまでも遊んでいたい子どもの心を離れて、リッチーの映画的円熟がどのような形で実を結ぶかこれから10年が楽しみです。



……あれ、私は糖尿病の話がしたかったのではなかったか。


追記)
私が糖尿病生活について書きたいと思うのには一つ明確な理由があります。1型は小児時に発症することの多い病気であるため、1型関連の書籍はやたらに「10才で不治の病に」とか「一生インスリンを手離せない絶望」とか「なんでぼくだけ」とか、不安や恐怖を煽ったセンセーショナルな感動秘話風のものが多いです。いや、私は本の中身は読んでいないので、タイトルやコピーにそういったものが多いといったほうが適切ですが、そんなのタイトル見ただけでもう辟易します。簡単な病気ではないことは確かですが、悲劇ぶる気にはなれません。だからもっとユーモアを持って、地に足をつけて、糖尿病と付き合っていく生き方を模索し、何か形にしたいと思います。そう、私の目標は『火星の人』のマーク・ワトニーです。『火星の人』もまだまだ読み終わってないけどね。彼ぐらい自分の知恵とユーモアをフルに発揮して目の前の生に向き合うことができたら最高だと思います。

*1:正確には『スウェプト・アウェイ』以外

タヴィ・ゲヴィンソンがうらやましい/10代と『17才の肖像』を振り返る

タイトル通り。最近ちょっと日記化してきたのは、やっぱり書くのが好きだから。

先日リスニングの勉強がてらタヴィ・ゲヴィンソンのTEDでの講演を見た。

http://youtube.com/watch?v=E22icGCvGXk

タイトルは“Still Figuring it Out”(まだ模索中)。

当然、以前から存在は知っていたし、まあ好きかなというくらいの距離感で見ていたけれど、正直どんな考えを持ち、どんな言葉を話すのかよく知らなかった。けれども、このビデオを見て、本当に感心した、というか感動した。ビデオの後半でタヴィは「フェミニズムはルールブックではなく、議論であり、会話であり、プロセスなのだ」と言っている。そう、フェミニズムというのは女性という視点から人間の生き方についてアプローチする方法を指す言葉なんだよね。こうあるべき、というルールはフェミニズムには本来ないはずなのだ。

という話はさておき、それ以来タヴィちゃんが急に好きになってツイッターもフォローしたし、Vanity Fairのインタビューも読んだ。なんでこんなに惹かれるのかなあ、と考えていて一つの答えに至った。わたしはタヴィ・ゲヴィンソンがうらやましいのである。96年生まれ、まだ10代の彼女がこんなにも世界を鋭い視点で見ているということ(この講演のときは16才)、またそうして得た考えを自分の言葉で、手法で世界中とシェアしているということ、それがたぶんうらやましい。

何をするにしても遅すぎるということはない。という言葉は確かにその通りなのだけれど、若いうちから自分の言葉やアイディアを発信し、タレントを発揮できる環境があることはとても大きいと思う。まあつまり、タヴィちゃんを見ていると、自分はどうしてもっと早く始めなかったんだろう、気づかなかったんだろうと思わさせられるということだ。

わたしの10代はタヴィちゃんに比べれば本当にミクロレベルにちっぽけなものだが、昔を振り返っていてふと19のときに『17歳の肖像』について文章を書いたことを思い出した。探し出して読んでみたら、思った以上にひどくて目も当てられなかったけれど(というかあからさまに当事者的な書き方で気持ち悪かった)、よくわからないガムシャラな勢いはあった。

17歳の肖像』ほどstill figuring it outな10代女子に見てほしい映画はない。わたしがこの映画から学んだ最大のことは、自分のセンスや、言葉や、行動に対して大人の承認はまったく必要ないんだということ。パリに行きたければ自分で行けばいい。誰かに連れていってもらう必要はない。だってあなたにはそれができる力があるのだから。

とかく学校に居場所を見出せない類の女子にとって、「センスのある大人」からの承認は心地がよい。ただでさえ10代のうちは大人に憧れるから、同年代と趣味や考えを分かち合えないと感じればなおさら大人の重要度が増す。でも別に大人が「君はセンスがいいね」と言ったところで、それはなんら自分の価値にはならない。価値は自分が持っている考え、言葉、それらによって構成される自分自身なんだという気づきを『17歳の肖像』はもたらしてくれた。

この話には脈絡もオチもない。10代のときわたしは『17歳の肖像』を見て、ある答えを見つけた。つまりfigure it outした。そのことを文章にし、またそのときわたしはまた別の10代の女の子がこれを読んでくれれば、と思った。

タヴィちゃんは「10代の女の子たちに答えや、答えを探す許可を与えたいわけではない、ただ彼女たちが答えを模索する助けになれれば」と言う。「答えを模索する助け」はどうしたらできるのか。それは自分自身が答えを模索する過程、その結果見えてきたものをシェアすることだとわたしは思う。そこに文章を書く意味がある。

「ロックンロールの自殺者」追記

先日David Bowieの‘Rock ‘n’ Roll Suicide’を訳していて、ずっとどういう意味なのかわからなかった箇所の謎がやっと解けた。というお話を駆け足でする。

Chev brakes are snarling as you stumble across the road
But the day breaks instead so you hurry home
Don't let the sun blast your shadow
Don't let the milk float ride your mind
They're so natural - religiously unkind

“Oh no love!”の絶唱の前にくるこのヴァースの最後の一行。これの意味がいつもよくわからなかった。特にreligiously unkindの部分。「滲み出る薄情さ」とか「宗教的なまでに無慈悲」とか訳されているのを見たが、それでは意味が通らない。どう訳そうかと悩んでいていたところ、religiouslyには「定期的に、決まって、きちんと」というような意味があることを知った。ああ、なるほど、とそれですべてが解決した。religiously unkindーーきちんと不親切ーーということは、つまり何もかもが規則正しく、きちんと為されていて、心がこもっていない様を意味している。

では何が「きちんと不親切(前記事の訳では、決まって不親切とした)」なのか。それは前2行に出てくるthe sunとthe milk float(牛乳配達車)だ。太陽や牛乳配達車は規則正しく、決まった時間に現れては、いつも通りの一日をスタートさせる。そんな味気ない、unkindな「日常」にあなたの個性や心を潰させないで、とボウイは歌う。だから日があける前に、いつもの毎日が始まる前に、家へと帰らなくてはならないのだ、と。

どうやらロックスターというのは日常には存在しえないものらしい。だからこそ、ロックスター=ロックンロールの自殺者という等式が成り立つ。このヴァースは正直オフィシャルの対訳を見ても何を言っているのかよくわからないが、英語の文を一つ一つ読み解くと、ロックンロールの自殺者の本質が見えてくる。という意味で、この記事には音楽タグではなく、文学タグをつけておこうと思う。

私的「救い」の歌

音楽に「救われる」という体験を挙げるとしたら、私にとってはそれは間違いなくこの歌を聴いたときなのである。「あなたは一人じゃない」。これ以上に力強い言葉を私はあまり知らない。

デヴィッド・ボウイ「ロックンロールの自殺者」
The original lyrics are from here.

時は煙草を手にとり、あなたの口に運ぶ
あなたは指をくわえ、また別の指をくわえ、やっと煙草をくわえる
部屋一面に響く音、その余韻、でもまたあなたは忘れてしまう
ああ なんという あなたはロックンロールの自殺者

失うには年老いすぎ、選ぶには若すぎる
時計はあなたの歌を忍耐強く待っている
あなたはカフェを通り過ぎるが、食事はしない あなたは長く生きすぎたから
ああ あなたはロックンロールの自殺者

よろめきながら道を渡ると、シボレーのブレーキが唸りを上げる
でも日が明けようとしているから、あなたは家路を急ぐ
太陽にあなたの影を枯らさせないで
牛乳配達車に心を乗っ取られないで
彼らはなんとも自然ーー決まって不親切


ああ愛する人よ!あなたは一人じゃない!
あなたは自分自身を見つめているけれど、それは真っ当じゃない
あなたの頭はめちゃくちゃに混乱しているけれど、僕が君に気づかせてやれれば
ああ愛する人よ!あなたは一人じゃないんだ!
あなたがなんであろうと、誰であろうと
いつ、どこにいようとも
ナイフがよってたかってあなたの脳を切り裂くかのようだ
僕にもそんなことがあった
その痛みを分かち合うことができるから
あなたは一人じゃないんだ!

さあ僕と一緒に、あなたは一人じゃないんだ
僕と一緒にはじめよう、あなたは一人じゃないんだ(すばらしい)
さあ手をだして、だってあなたは素晴らしいんだ(すばらしい)
手を差し出して、あなたは素晴らしい(すばらしい)
さあ手を差し出して

David Bowie, “Rock 'N' Roll Suicide”.
(拙訳)

『キングスマン』/わが愛しのマシュー・ヴォーンと、『ワールズ・エンド』、G・K・チェスタトン、そしてアーサー王

大好きなマシュー・ヴォーン監督の『キングスマン』をやっとこさ見に行った。以下ややネタバレ注意というか、私のとりとめない妄言と脱線がかなりひどい。

キック・アス』で「子どものファンタジーが大人のリアルを食い殺す瞬間をこそ撮りたいのだ」と宣言したかのようだったヴォーンの嗜好あるいは志向がいよいよ高次元で実を結んだ、そんな映画であるように思えて、なんというか見ていてとにかく嬉しくなった。映画館に行くどころか、映画を見ることさえちょっと久々になっていて、観賞前は無駄にソワソワしていたのだけれど、そんな居心地の悪さとか緊張とかすべて吹き飛ばして、映画の楽しさとは何たるかを一瞬にして蘇らせてくれた素晴らしい映画体験になった。

リアルとファンタジーーーこの二者の線引きと混在をマシュー・ヴォーンは非常に意識的に行っている。『キック・アス』の冒頭、ヒーローを夢見た青年がビルの屋上から真っ逆さまに墜落する様は、この世界が魔法も特殊能力も存在しない「現実」であることを見せつけている。にもかかわらず等身大ヒーローであるはずの主人公デイヴはあまりにも身軽に日常と非日常の壁を越え、無垢で無神経な想像力がヒット・ガールとなって駆け巡る「虚構」の世界に観客を引き込んでいく。結局「虚構」でのデイヴの行いに対して「現実」側からの罰はなく、「現実」は最終的に影を潜める*1。それは近年のリアル志向・シリアス志向のヒーロー映画のトレンドを確信犯的に利用した、ほとんど「等身大ヒーロー映画」の皮をかぶったカルトムービーだった。

キングスマン』でもヴォーンは同じようなことをしているが、その切れ味は『キック・アス』よりも鋭くなっている。コリン・ファース演じるエージェントのハリーとサミュエル・L・ジャクソン演じるヴィランのヴァレンタインがスパイ映画について語らう場面。「最近のスパイ映画はシリアスすぎてあんまり好きじゃないね」と明言させている通り、本作はヒーロー映画同様シリアス&リアル路線を強めているスパイ映画に対する批評になっている。また同時にスパイ映画へのラブレターでもある。「最近のスパイムービーはあーだこーだ」とのたまい、「これは映画じゃない、現実だ」などと嘯きながら(いったいどの口でこんなことが言えるんだろうか)、誰よりも荒唐無稽なスパイ映画愛を迸らせているのは他ならぬマシュー・ヴォーンだ。魅力的なガジェットの数々、教会での激しく、それでいて明快なアクション、謎の義足の女とのラストバトルーーまさに「俺ならこう撮る」007。「リアルのふりをして全力でフィクションをやる」というのは『キック・アス』でも同じだけれど、さらに一歩先をいって21世紀型スパイ映画のオルタナティヴを提示してみせた点は、ヒーロー映画としての着地点をやや見失っていた『キック・アス』にはなかったものだ。

キングスマン』では『キック・アス』以上に人の命が簡単に吹き飛んでいく。けれども『キック・アス』よりも一本筋が通っているように思えるのは、実際物語の核に一本筋が通っているからである。本作のコアにあるのはおそらくワーキングクラスの誇りや階級社会への批判というよりも、「リーダー面して俺たちを枠にはめようとしたり、世界を牛耳ろうとしたりする奴らは全員消え失せろ」という英国的な抵抗の精神だと思う。ヴァレンタインが全世界に配布する無料のSIMカード。確かに世界中のどこでも無料で誰かとコミュニケートできるのはこの上なく便利だが、世界が一つになるというのは恐ろしいことでもある。「いつでも、どこでも、誰とでも」を可能にするグローバル社会。で、結局それを仕切ってるのって一部の人間でしょ?凸凹な個性を平らにし、人の生き方を「真っ直ぐに」しようとする「画一化」に対する嫌悪感が確かに『キングスマン』には嗅ぎとれる。

これと同じ感覚を共有するのが、エドガー・ライトの『ワールズ・エンド』だ。こちらのほうがより反グローバリズムの姿勢を色濃く感じる。どこへ行っても同じような店、同じような人。これのいったいどこが楽しいんだと嘆きながら、サイモン・ペグ演じるゲイリーは真っ向から「俺たちの生き方」を勝手に規定しようとするものに抵抗する。呑んだくれて、騒いで、失敗してーーでもそれが人生、指図するなよ、と。上から定められた生き方を甘んじて受け入れるような真似は、彼らは絶対にしないのである。『キングスマン』を見てまず想起したのは『ワールズ・エンド』であり、また『ワールズ・エンド』を見てまず想起したのはG・K・チェスタトンのこの詩だった。

「うねるイングランドの道」

ローマ人がライにやって来る前、セヴァーン川まで迫る前に
よろけたイングランドの呑んだくれは、うねるイングランドの道を創った
ぐねぐねした道、うねった道 あてもなく邦をさまよう
奴の後に牧師が続き、寺男や地主が続いた
陽気な道、入り組んだ道、それはまるで僕たちが通ったような道だ
ビーチー・ヘッドを経てバーミンガムまで行った夜に

ボナパルトと軍勢には害はないと思っていた
それにフランス人と戦いたくはなかった
しかし僕は彼らの武具を打った なぜなら奴らは軍勢をなして
イングランドの呑んだくれが創った曲がりくねった道を真っ直ぐにしようとしたからだ
それは君と僕がエールのカップを手に通った道だ
グッドウィン・サンズを経由してグラストンベリーまで行った夜に

彼の罪は赦される そうでなければどうして花が咲くだろう
彼の後ろに またどうして生垣がどれも日を浴びて力を増しているのだろう
荒々しいものが左から右へと過ぎ、何が何だかわからなくなる
しかし、どぶで彼が見つかったとき、その頭上には野ばらが咲いていた
神よ赦したまえ、無情にはせずに 僕らの視界ははっきりしていなかった
ブライトン・ピアを通ってバノックバーンまで行った夜には

友よ、もうあんなことをしたり、昔の激しさを真似たりはしない
若気の至りを世代の恥にはしないように
澄んだ目と耳でこのさまよえる道を歩き
酩酊することなく、宵の光の中にやさしい死の宿を見るのだ
なぜならまだ聞くべき良き報せが、見るべき良きものがあるのだから
ケンセル・グリーンを通って天国(paradise)へ行くまでに
(拙訳)


G. K. Chesterton, ‘The Rolling English Road’
http://www.poetryfoundation.org/poem/177820

第2連、「ナポレオンと戦いたかったわけじゃないが、奴らが俺たちの'曲がった'道を'真っ直ぐに'しようとするのが許せなかった」という部分はまさに『ワールズ・エンド』に込められたメッセージそのものだ。

この詩は当時(20世紀頭)イギリスで起こっていた禁酒運動に反対するものとして書かれた滑稽詩の一種である。チェスタトンはここで無邪気に「酒はいいもんだ!」と言っているわけではない。第3連のしょうもなさには笑ってしまう。この連で言っているのは、つまり「酔いつぶれて右も左もわからない状態になって、翌朝どぶで発見される呑んだくれ」のこと。しかしチェスタトンは酔っ払いのしょうもなさを面白おかしく書きながら、同時に「それでも呑んだくれの背後には綺麗な野ばらが咲いているじゃないか。これもまた人生、神はきっと許してくれる」と言っているのである。そしてよろけて曲がりくねった生き方こそ「イングランド的」だと評している。

キングスマン』からだいぶ逸れてしまったが、映画の本質からはそう遠くない話をしていると思う。『キングスマン』の核にあるのも、歪な人間を真っ直ぐにしようとする輩への反骨ではないか。私はどうしてもこれを「英国的な精神」と表現したくなる。

キングスマン』と『ワールズ・エンド』はともにアーサー王伝説を映画のエッセンスとして利用している。アーサー王伝説の受容と発展には、侵略と征服が繰り返されてきたブリテン島の歴史が大きく絡んでいる。民族間の支配/被支配関係が複雑に変化するなかで、アーサー王(と円卓の騎士)はブリテン島における被支配民族の抵抗のアイコンにもなった。アーサー王、『キングスマン』、『ワールズ・エンド』、‘The Rolling English Road’ーーなんとなくこれらすべてに相通じる精神が存在するような、そんな気がしてしまうのは、私が「英国的な何か」に取り憑かれているからだろうか。

*1:前半に「ヒーローごっこをして刺される」という罰を受けてましたね。でも最後の彼の行動に対して「現実」の反動はありませんでした